感覚や体験を頼みとする危うさ

処世術

近年、大学入試における推薦を含む総合型選抜が益々増えている。総合型選抜の意義は、学力以外の才能を評価する試みである。換言すれば、主体性や人当たりの良さ等、感覚や体験を重視する選抜方式である。

確かに、会社役員等組織や社会の頭脳となり意志決定をする側に回る人間はごく少数で、大半は手足たる労働者で一生を過ごす。後者では、思考力以上に体力や従順で快活な人間性が求められる。つまり、労働者の育成や供給を目的とする大学は総合型選抜を増やす一方で、社会の先導者の育成が要請される一部の大学は入試において学力を担保すべきである。

しかし、東北大学や筑波大学といった高い研究力が要請される指定国立大学法人等においても、学力試験から総合型選抜への移行が進んでいる。人類の進歩が知の蓄積たる科学がもたらしたことを踏まえると、一流大学の入試においては如何なる方式であっても学力を担保しなければならない。

例えば、民主化を促すのも科学技術である。2010年チュニジアにおいてSNSによる抗議動画の拡散に端を発して独裁政権が打倒された。この影響はアラブ諸国に波及し政情不安を引き起こしたが、民主化への道程の一里塚である。つまり、世界の民主化を進めたのは政治権力ではなく、科学である。

また、社会的課題を克服するのも科学の力だ。情報技術の発達によりモノの所有から共有へと移行する。例えば、今時CDやゲームソフトを現物で買う人はほぼいない。情報を通信端末に受信して楽しむ消費者がほとんどである。共有が様々な分野で普及すれば、ゴミの排出量が激減するだろう。

アインシュタインが「複利は人類最大の発明」と喝破したが、知識こそ複利が効く。歴史上の発見は、当人が亡くなった後世において、未来の科学者の発見との相乗効果で指数関数的に効果を発現する。個人単位で考えても、日常的に好奇心に基づき熱心に物事を探求すれば、それが知の幹となり周辺知識が枝葉となり、仕事の成果という形で人生において大輪の花を咲かすことになるだろう。

したがって、人類の発展を牽引したのは主として科学に象徴される知的活動である。社会を導く人材の育成を託され多額の公費が投入される大学については、知への軽侮は厳に慎まなければならない。

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