教育に知識の詰め込みは欠かせない。教育とは、社会の役に立たない者を社会の役に立つ存在にする試みである。社会(人の集まり)で協働するためには、共通理解を図る必要があり、会話や文面等、言語を介して意思疎通が行われる。仮に語彙に乏しければ、意思伝達が限定されてしまうか、正確に意思が伝わらない。
確かに、単純作業を繰り返し行う職種に就けば、必要な意思疎通の機会も限られるため、不勉強な者でも組織に貢献し、社会人としての責務を果たせる。しかし、言語を持たなければ、思考は限られ、他者への思いやりにも欠け、他者と調和できない。
ドイツの思想家、ヘーゲル曰く「成人の要件は、自己批判と相互承認である」。自分の言動を省み、相手の立場を尊重しなければ、良好な人間関係は築けない。つまり、語彙に乏しければ思考も浅くなり、配慮に欠け衝動的な行動が目立ち、結果周囲と折り合いがつかなくなる。
もちろん、消極的な人生で私は構わない、可能な限り人と関わらず責任のない仕事をしたいという気質の方もいるだろう。しかし、自分の居場所の獲得は、所属する集団との折り合いが要件である。そのためには、知識を吸収し視野を広げ、自己批判や他者への想像を絶えず行わなければならない。
よって、社会と調和するためには、自己批判と相互承認が必要であり、知識を習得することで両者が向上する。教育が読み書き中心になることも、言語の習得といった観点から頷ける。
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