リーマンショック以後の米国債務膨張:ヘーゲル的弁証法による分析

はじめに: 危機がもたらした財政金融パラダイム転換

2008年のリーマンショック(世界金融危機)は、米国の財政・金融政策に劇的な転換を迫りました。ヘーゲル的弁証法の枠組みに沿って、リーマンショック以後の米国における債務膨張の経緯を分析すると、以下の三段階に整理できます。

  • 正 (Thesis): 金融危機以前における市場原理と財政規律の重視(小さな政府・健全財政路線)
  • 反 (Antithesis): 危機対応のための大規模な財政出動と金融緩和(政府と中央銀行の前例なき介入)
  • 合 (Synthesis): 高水準の政府債務が常態化した新たな政治経済体制(慢性的債務とインフレの狭間での政策運営)

以下、この三段階それぞれについて、オバマ政権からトランプ政権、バイデン政権に至る政策や背景要因を織り交ぜながら詳しく検討します。

正: 自由市場と財政規律の重視 (金融危機以前の路線)

リーマンショック以前の米国経済政策は、概ね「自由市場に委ね、政府は財政規律を守る」という路線が主流でした。冷戦終結後の1990年代には小さな政府路線が台頭し、クリントン政権期末には財政黒字が実現するなど、債務削減への意識も高まりました。実際、2007年時点での米国の連邦政府債務(対GDP比)は40%未満と低水準に抑えられており (Financial Report of the United States Government – Management)、景気拡大局面では債務残高の対GDP比を引き下げることが可能だと考えられていました。歴史的にも戦争や不況時に債務は増えても、その後は縮小させるのが常道であり (National debt of the United States – Wikipedia)、財政の長期持続可能性を維持することが政策当局の共通認識でした。

また金融政策面でも、**連邦準備制度理事会(FRB)はインフレ抑制と景気安定のために政策金利を機動的に上下させる伝統的手法を主とし、非常時以外での極端な介入(非常規的な資産買入れなど)は想定外でした。総じて、「市場の自己調整メカニズムへの信頼」と「政府債務への警戒(財政赤字は悪)」という考え方が正(Thesis)**として政治経済の土台にあったのです。しかし、この路線は2008年の金融危機という大きな揺り戻しに直面することになりました。

反: 危機対応による大規模財政・金融介入 (ポピュリズムとパンデミックの時代)

リーマンショックに端を発した世界金融危機(2008~2009年)は、「正」としての従来路線を覆す規模で政府と中央銀行の積極的介入を招きました。崩壊寸前の金融システムを救うため、米政府はまず金融機関救済策(公的資金注入や保証)を実施し、続いてオバマ政権下で史上最大級の財政刺激策に踏み切ります。2009年2月成立の米国再生・再投資法(ARRA)は総額約7,870億ドル(後に約8,310億ドルに拡大)の歳出・減税からなる景気刺激パッケージでした (American Recovery and Reinvestment Act (ARRA): Definition and Components)。この巨額財政出動により失業救済やインフラ投資、地方財政支援が行われ、需要下支えが図られました。同時に、景気悪化で税収が急減し財政赤字は拡大、2009会計年度の赤字はGDP比10%前後に達します。結果、政府債務は急膨張し、金融危機前約39%(対GDP比)だった連邦債務は2012年末に70%にまで跳ね上がりました (Financial Report of the United States Government – Management)。これは**「小さな政府・健全財政」という正論の退場を意味し、財政面での「反」的状況**が出現したのです。

(Fed Balance Sheet QT: -$1.53 Trillion from Peak, to $7.44 Trillion, Lowest since February 2021. The BTFP Plunged by $34 Billion | Wolf Street)FRBの総資産(兆ドル、2008年~2024年)。2008年の金融危機時と2020年のパンデミック時に急増し、その後の量的引締め(QT)局面でも高水準を維持している (The Fed Is Shrinking Its Balance Sheet. What Does That Mean? | Richmond Fed)。グラフはFRBのバランスシート拡大が「危機対応の常態化」を示す。

金融政策の領域でも、FRBは異例のゼロ金利政策(ZIRP)と大規模な資産買入れ(量的緩和, QE)に踏み切りました。政策金利は2008年末に史上初のゼロ近辺(0~0.25%)まで引き下げられ、その状態が7年間も続いたのです (Ten years on, Fed’s long, strange, trip to zero redefined central banking | Reuters)。さらに2008年末から2014年にかけて3度の量的緩和策が実施され、長期国債や住宅ローン担保証券の買入れによって市場に巨額の流動性を供給しました。その結果、FRBのバランスシート(総資産)は2008年の約0.9兆ドルから2014年には4.5兆ドル超へと前例のない規模に拡大しています (www.everycrsreport.com)。超低金利とQEによる流動性供給は企業や消費者の債務負担を軽減し、株式・住宅など資産価格を下支えしましたが、同時に「政府が市場を積極的に救済する」というモラルハザードも生み出しました。こうした金融緩和の長期化は債務膨張を容易にする環境を整え、財政赤字の資金調達コストを低く抑えた点で政府債務拡大の土壌ともなりました。

金融危機後の低成長や格差拡大を背景に、米国の政治状況も大きく変質しました。2010年前後から台頭したティーパーティー運動に代表される政治的分断とポピュリズムの高まりは、「大きな政府」への反発と同時に既成支配層への不信を煽り、政策の不安定化をもたらします。オバマ政権下では2011年に与野党対立から債務上限危機が生じ、歳出強制削減(シーケストレーション)を含む緊縮圧力が一時高まりました。しかし、その後も抜本的な財政再建策は打ち出されず、赤字と債務は高止まりします。むしろポピュリスト的な政策要求が勢いを増し、従来なら財政悪化要因と敬遠される政策が次々と実行に移されました。典型がトランプ政権(2017–2021年)の大型減税です。2017年末に成立した**「減税・雇用法(TCJA)」は法人税減税や所得税減税を含む大規模減税策で、向こう10年間で約1.5兆ドルもの歳入減(赤字増大)をもたらすと試算されました (How did the TCJA affect the federal budget outlook? | Tax Policy Center)。景気拡大期にもかかわらず減税によって財政赤字は拡大し、歳入はGDP比で2015年の18%近辺から2020年には16%程度に低下しています (Financial Report of the United States Government – Management)。一方で国防費や社会保障費は増大を続け、与野党とも歳出抑制には踏み込めませんでした。その結果、コロナ前の2019会計年度ですでに財政赤字は約1兆ドルに達し、債務残高はGDPの79%にまで上昇していました (Financial Report of the United States Government – Management)。これは非常時以外では戦後最悪水準**であり、危機対応で肥大化した債務が平時にも縮小しないまま恒常化しつつあったことを示します。

こうした中で迎えた2020年の新型コロナウイルス・パンデミックは、債務膨張をさらに加速させる決定打(反の極致)となりました。感染拡大による経済封鎖に直面した米政府は、大規模な現金給付・失業給付拡充・企業支援を柱とする過去最大の財政救済策を次々と講じます。トランプ政権下の2020年3月「CARES法」(約2.2兆ドル)を皮切りに、同年中に追加経済対策が積み増され、バイデン政権就任後の2021年3月には1.9兆ドル規模の「米国救済計画(ARP)」が成立しました (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021)。GAO(米政府監査院)によれば、2020~2021年に成立した計6本のコロナ救済法の総額は約4.6兆ドルにのぼり (COVID-19 Relief: Funding and Spending as of Jan. 31, 2023 | U.S. GAO)、税控除なども含めた総支出は5兆ドルを超えています (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021)。これにより2020会計年度の財政赤字は過去最大の3.1兆ドル(対GDP比約15%)に達し、2021年度も2.8兆ドル(GDP比12%)と史上2番目の規模となりました (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021)。これらコロナ危機時の赤字は第二次大戦以来の高水準であり、非常時とはいえ財政出動が破格の規模に及んだことがわかります。

(14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021)1940年以降の米国の財政収支(対GDP比)。2020~2021年のコロナ危機時には赤字がGDP比15%前後に急拡大し、第二次世界大戦時以来の記録的水準となった (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021)。灰色の折れ線は2009年前後の「Great Recession(リーマンショック期)」に約10%の赤字、そして2020年の「COVID-19 Pandemic」で15%超の赤字が発生したことを示す。

金融面でもFRBは直ちにゼロ金利復帰と異例の流動性供給策を発動しました。政策金利は再び0%に引き下げられ、さらに社債ETFの買入れなど非常措置を含む大規模QE(いわゆるQE4)が実施されました。その結果、FRBの資産規模はコロナ前の約4兆ドルから2022年初には9兆ドル近くに倍増しています (The Fed Is Shrinking Its Balance Sheet. What Does That Mean? | Richmond Fed)。まさに「政府による経済の下支え」が総動員された形で、財政・金融両輪で数兆ドル規模のマネーが市場と家計に投入されたのです。このように、リーマンショック後からコロナ危機にかけての米国では、財政赤字拡大と金融緩和による債務の急膨張という**「反」的局面**が繰り返されました。それは同時に、「市場任せ」から「政府・中央銀行が危機のたびに介入する経済」への移行でもあり、政治経済体制に大きな変化をもたらすことになります。

合: 高債務の常態化と政治経済体制の変容 (新たなジレンマの出現)

こうして形成された巨額の債務と流動性に依存する経済体制は、新たな常態(ニューノーマル)として定着しました。リーマンショック以後、米国の連邦債務は平時にも減少せず積み上がり、GDP比で見た債務残高は第二次世界大戦直後以来の水準に達しています (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)。2023年時点で連邦政府債務残高(対公共部門債務)は26兆ドルを超え、GDP比ではほぼ100%に及びました (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)。本来であれば景気回復局面で財政黒字を確保し債務を圧縮するのがセオリーですが、近年は政治的な機能不全により大胆な財政再建策は取られず、高債務が常態化しています。実際、専門家からは「このまま債務が増え続ければ経済成長が阻害され重要な公共投資が圧迫される」といった警鐘が鳴らされていますが (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)、与野党の深刻な対立により増税や歳出削減の合意は困難で、債務問題は先送りが繰り返されています (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)。言い換えれば、政治的分断が高債務という新たな均衡状態を生み出したとも言えます。

高債務下の政治経済体制では、従来タブー視されていた政策も容認されるようになりました。一部には「米国は基軸通貨国として低利で無尽蔵に借り入れできるのだから、多少債務が増えても問題ない」という主張も台頭しました (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)。実際、長期にわたる低金利環境の下で、政府は巨額の債務にもかかわらず利払い負担を抑制できていました。これを背景に、財政赤字を恐れず積極的財政を訴える**現代貨幣理論(MMT)が注目を集めたり、著名経済学者が「金利が経済成長率より低いなら債務拡大のコストは小さい」と指摘するなど、高債務を前提とした新たな経済思想も影響力を持ち始めました。こうした思想的変化は、政府による大規模支出(インフラ投資や給付金)や減税措置へのハードルを下げ、結果として財政の積極化(いわば慢性的な景気刺激策の継続)**を正当化する面があります。

しかし、この**「高債務の合」(新常態)は新たなジレンマも孕んでいます。2021年以降、コロナ禍での過剰流動性や需給逼迫を背景にインフレ率が急上昇すると、FRBは急速な利上げに転じました。超低金利に依存していた債務運営は一転して重荷となり、連邦政府の利払い費は急増しています。2024年度の利払い費は約8,920億ドルに達し、ついに国防費をも上回る規模になる見通しです (The Rising Burden of U.S. Government Debt | Econofact)。この額はわずか数年前(2021年)と比べ3割以上増加したもので (The Rising Burden of U.S. Government Debt | Econofact)、金利上昇が財政に与える影響の大きさを示しています。CBO(議会予算局)の最新試算でも、利払い費は2020年代後半にGDP比3%台に達し過去最大水準となる見込みで、2030年代には債務残高がGDPの1.2倍を超えると予想されています (Any Way You Look at It, Interest Costs on the National Debt Will Soon Be at an All-Time High) (National debt of the United States – Wikipedia)。債務があまりに巨額化すれば、将来の金利上昇期に財政が金利に押し潰されるリスク**や、インフレ抑制のための金融引き締めに政治的抵抗が生じるリスク(いわゆる財政の金融支配)が高まります (Special Reports, Public and Private Debt After the Pandemic and …)。実際、債務残高が積み上がる中での急激な利上げは銀行破綻や市場混乱の一因ともなり、2023年には金融当局が一部緩和策を余儀なくされる場面もありました。これは、高債務体制が金融政策の自由度を制約し得ることを示唆しています (Special Reports, Public and Private Debt After the Pandemic and …)。

新常態となった政治経済体制では、政府・中央銀行の役割も危機前とは質的に変化しました。市場原理と政府不介入を良しとした旧来の思想に対し、現在は政府と中央銀行が経済を常時支える「管理資本主義」的様相が強まっています。巨額の財政支出による景気下支えや産業政策(例えばバイデン政権のインフラ投資や半導体・グリーン産業支援策)、FRBによる市場安定策は、その代表例と言えます。こうした政策は一面では市場の効率性より社会安定を優先する方向への体制変容(政治経済体制の転換)とも評価できます。しかし他方で、その前提となる債務の持続性が揺らげば、インフレ高進や通貨信認低下という形で市場からの反作用(新たな「反」)を招く危険があります。実際、財政赤字の累積による債務残高の拡大ペースは長期的に見ても持続不可能との指摘が多く、米財務省の試算では現在の政策が不変なら債務は2040年代にGDPの2倍を超えるともされています (Financial Report of the United States Government – Management)。最終的には、歳出削減か増税によって財政健全性を取り戻す必要があるものの、政治的ハードルは高いままです。かくして米国は、高債務を抱えたままインフレと利上げの制約に直面するという**新たな均衡状態(ジレンマ)**に立たされています。

おわりに: 「正」と「反」の相克から生まれた新たな課題

2008年のリーマンショック以降、米国の財政金融政策はヘーゲル的弁証法のプロセスを辿り、大きな思想転換と現実対応を繰り返してきました。当初の「市場と財政規律を信奉する正」の枠組みは、度重なる危機に対処する中で「大規模介入による反」へと振れ、結果として高債務を内包する新たな政治経済体制(合)が形成されました。この新体制では、政府債務のGDP比100%超えやゼロ金利の長期化が当たり前となり、危機時には数兆ドル規模の財政・金融支援が即座に投入されることが人々にも織り込まれています。ある意味で、政府と中央銀行が経済の後見役となるポスト危機の資本主義モデルが定着したとも言えるでしょう。

しかし、現時点の「合」は安定的な終着点ではなく、次なる矛盾を孕む過渡期ともいえます。高インフレと利上げ局面で露呈した債務維持コストの跳ね上がりや、将来世代への負担転嫁、頻発する債務上限問題による信用低下など、解決すべき新たな課題が山積しています (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)。これらの課題に対処するには、再び政策の舵を修正し、財政の持続可能性と経済安定のバランスを図る新たな**統合(新しい合)**が必要になるでしょう。すなわち、債務膨張という「反」の教訓を踏まえつつ、自由市場の効率性(正)と政府介入の有効性(反)を高次元で調和させる政策枠組みを構築することが求められています。

米国の債務膨張の歴史は、その時々の危機と政治的選択の産物であり、政治経済体制そのものの変遷を映し出しています。リーマンショック後の対応から現在に至るまでのプロセスをヘーゲル的弁証法で捉えることで、危機がいかに政策パラダイムを変容させ、高債務という新たな常態を生み出したかが明らかになりました。そして今、米国はその常態との付き合い方を模索する新段階に差し掛かっているのです。財政規律と経済安定策の弁証法的な統合こそ、今後の米国経済が直面する最大のテーマと言えるでしょう。

参考文献・出典: 本稿では米議会予算局(CBO)、連邦準備制度(FRB)、米政府監査院(GAO)などの一次資料や、Council on Foreign Relations等の分析 (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations) (The U.S. National Debt Dilemma | Council on Foreign Relations)、PGPF等の統計資料 (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021) (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021)を参照し、事実関係を確認した。上述の数値・発言はこれら公開資料に基づく。 (American Recovery and Reinvestment Act (ARRA): Definition and Components) (How did the TCJA affect the federal budget outlook? | Tax Policy Center) (Financial Report of the United States Government – Management) (www.everycrsreport.com) (The Fed Is Shrinking Its Balance Sheet. What Does That Mean? | Richmond Fed) (Ten years on, Fed’s long, strange, trip to zero redefined central banking | Reuters) (COVID-19 Relief: Funding and Spending as of Jan. 31, 2023 | U.S. GAO) (14 Charts That Illustrate Our Fiscal Situation as We Close Out 2021) (The Rising Burden of U.S. Government Debt | Econofact)

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