はじめに
米中対立が近年顕在化しつつある中、中国は外貨準備の運用戦略を見直しつつある。その象徴的な動きが、米ドル建て資産の縮減と金(ゴールド)の積極的な購入である。中国は世界最大級の外貨準備高を誇り、その運用方針は国際金融体制にも影響を及ぼす。本稿では、この「米ドル資産売却と金購入」の動きを、弁証法の三段階(テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ)に則って論じる。まず中国が巨額の米ドル資産を抱えてきた背景とメリット(テーゼ)を整理し、次に米中関係の悪化やドル資産リスクの高まりがその戦略に与える影響(アンチテーゼ)を考察する。最後に、両者を踏まえた新たな外貨準備戦略と、その実行に伴うリスクや課題(ジンテーゼ)を展望する。
テーゼ: 中国の米ドル資産大量保有の背景とメリット
中国はこれまで外貨準備の大半を米ドル建て資産、特に米国債に投資してきた。背景には、中国経済の対外依存と為替政策がある。中国は改革開放以降、輸出主導で経済成長を遂げ、莫大な貿易黒字を積み上げてきた。貿易を通じて流入したドル資金を効率的に運用する先として、流動性が高く安全と見なされる米国債は最適な選択肢だった。また、中国人民銀行(中央銀行)は長年にわたり人民元を事実上ドルにペッグ(連動)させる政策を採用しており、為替レートを安定させ輸出競争力を維持するために、市場で余剰なドルを買い入れて外貨準備に積み増す必要があった。その結果、中国の外貨準備高は世界最大規模となり、ピーク時には3兆ドルを超える額に達したと言われる。その相当部分が米ドル建て資産として蓄積されたのである。
中国が米ドル資産を大量に保有することには、以下のようなメリットがあった。
- 安全資産による価値保存: 米国債は信用度が高く、国際金融市場でもっとも安全な資産の一つとされる。ドル建て資産を持つことは、中国にとって国家資産の価値を安定的に維持する手段となった。特に、2000年代以降の世界的な金融不安定の中でも、米ドルは「基軸通貨」として信認があり、中国はその恩恵を受けた。
- 高い流動性と運用利回り: 米国債市場は規模が大きく流動性に富むため、必要なときに容易に現金化できる。巨額の外貨準備を抱える中国にとって、迅速に売買できる資産に資金を置くことは重要であった。また米国債はわずかながら利息収入を生むため、金など無利息の資産よりも外貨準備の運用先として適していた。
- 通貨・貿易面での安定効果: 豊富なドル資産を持つことで、自国通貨である人民元の為替レートを安定させる効果があった。ドル資産は為替介入の原資となり、投機的な資本移動に対する防波堤として機能する。結果として、輸出産業を保護し経済成長を下支えする役割を果たした。また、貿易決済の多くがドルで行われる現状では、十分なドル備蓄があること自体が対外取引の円滑化につながる。
- 対米関係における相互依存: 中国が米国債を大量保有することは、米国の財政赤字を間接的に支える面もあった。中国のドル資産投資により米国の金利は低位に保たれ、米国は安価に資金調達できた。その資金で米国は中国製品を輸入するという相互依存の構図が生まれていた。この関係は「チャイメリカ」とも称され、両国にとって利益となる部分があった。中国側から見れば、米国経済との結びつきを強めることで国際社会での影響力を高める効果も期待できた。
以上のように、巨額の米ドル資産保有は中国に経済的安定と利益をもたらし、長年にわたり戦略的に正当化されてきた。
アンチテーゼ: 米中対立激化とドルリスクによるドル資産縮減と金購入の合理性
しかし近年、米中関係の悪化や国際情勢の変化に伴い、中国がドル資産への偏重を見直し始める動きが顕著になっている。米中対立の顕在化は、経済・金融面にも影を落とし、中国にとって米ドル資産が「安全資産」ではなくむしろリスク要因になりつつあるとの認識が広がった。
まず、地政学的リスクの高まりが挙げられる。米中対立が深刻化した場合、米国がドル決済網(SWIFTなど)へのアクセス制限や中国人民銀行のドル資産凍結といった金融制裁に踏み切る可能性が指摘されるようになった。実際、2022年のロシアによるウクライナ侵攻に際して、西側諸国はロシアの外貨準備の一部を凍結した。この前例は中国に衝撃を与え、自国も有事には同様の措置を受けるリスクがあると意識せざるを得なくなった。自国の資産を他国に握られている危険性が露呈したことで、「ドル資産=安全」という前提が揺らいでいる。
次に、ドルそのものの信用リスクも無視できない。米国は巨額の財政赤字と経常赤字を抱えており、ドルの長期的価値に対する懸念が高まっている。コロナ禍以降、米連邦準備制度理事会(FRB)は大規模な金融緩和を行い、市場に巨額のドルを供給した結果、世界的なインフレ圧力が高まった。ドルの購買力低下や将来的な価値目減りリスクは、中国の資産にも直接響く問題である。また、米国債価格は金利動向に左右されやすく、近年の利上げ局面では債券価格が下落して中国の保有資産評価額を減少させる一因となった。ドル資産に偏り過ぎることは、こうした金融リスクに晒されることを意味する。
こうした状況下で、中国が取った対応の一つが外貨準備の分散化、すなわち米ドル資産の縮減と代替資産へのシフトである。代替資産の中でも、特に「金(ゴールド)」の購入拡大は合理的な戦略と考えられる。金は古来より普遍的な価値の保存手段であり、いかなる国家の信用にも依存しない資産だ。具体的な合理性としては以下の点が挙げられる。
- 制裁耐性と主権の確保: 金は物理的な実物資産であり、国外に保管しない限り他国によって凍結・没収される恐れがない。中国が自国で金を保有すれば、外交関係が悪化してもその資産は自国の主権下に留まる。金融制裁への耐性を高めるために、金の比率を高めることは戦略的防衛策と言える。
- 価値の安定とインフレヘッジ: 金は有限資源であり、長期的には主要通貨の価値下落時に相対的に価格が上昇する傾向がある。ドルの信認低下やインフレ局面では、金を保有することで外貨準備全体の価値維持に寄与する。実際、世界の中央銀行は近年インフレやドル離れへの備えとして金準備を増やす傾向にあり、中国もその一翼を担っている。
- 外貨準備の多様化によるリスク低減: ドル資産一極集中から脱することで、特定通貨に依存するリスクを軽減できる。米ドル、ユーロ、円などの通貨資産に加え、金という異質の資産を組み入れることで、国際金融市場の変動に対するポートフォリオの耐性が増す。特に米中対立という先行き不透明な状況では、異なる値動きをする金の存在がリスク分散に有効である。
- 信用秩序変化への対応: 世界的に「脱ドル化」の動きが議論される中、将来的に国際通貨体制が変化した場合にも金保有は保険となる。仮にドルの支配力が相対的に低下し、新たな基軸通貨や複数通貨体制に移行しても、金は引き続き価値基準たり得るため、中国は戦略的優位を保ちやすい。
実際に中国は近年、外貨準備に占める米国債の割合を徐々に引き下げている。公式統計によれば、中国の米国債保有額は過去数年間で減少傾向を辿り、かつて1兆ドルを超えていた水準から2020年代には大幅に縮小した。一方で、中国人民銀行は公表ベースで金準備を増やし続けている。近年には毎月のように数十トン単位で金を買い増す動きも報告され、公式の金保有量は世界有数の規模に達したと推測される。このように、ドル資産を減らし金を増やす戦略は、中国にとって米中対立時代を生き抜くための合理的適応策と位置付けられる。
ジンテーゼ: ドル資産売却と金購入を両立させる新たな外貨準備戦略と課題
テーゼで述べたメリットとアンチテーゼで指摘したリスクの双方を踏まえ、中国はドル資産依存からの脱却と外貨準備の安定維持を両立させる新たな戦略を模索している。そのジンテーゼ(総合)として考えられるのが、「漸進的かつバランスの取れた外貨準備ポートフォリオの再構築」である。
この戦略では、急激な米ドル資産の投げ売りや極端な金偏重は避けられる。代わりに、長期的展望に立って段階的に外貨準備の構成をシフトしていく。具体的には、米ドル建て資産の割合を少しずつ引き下げる一方、金やその他の通貨建て資産の比率を高めていく。たとえば、米国債は満期を迎えた分を新規再投資せず徐々に保有高を圧縮し、その分を金購入や他国債券(ユーロ圏や日本など)に振り向けるといった措置が考えられる。また、エネルギー資源など戦略物資の輸入決済にドル以外の通貨や人民元建て契約を拡大することで、必要とするドル準備量そのものを減らす努力も進められている。要するに、中国は外貨準備の「オール・ドル」体制から「マルチ・アセット」体制へと静かに移行しようとしているのである。
この新たな外貨準備戦略を成功させるためには、いくつかのリスクと課題を慎重に管理する必要がある。
- 市場への影響と価値毀損リスク: 中国が米ドル資産を大量に売却すれば、市場で米国債価格が下落し金利が急上昇する恐れがある。それは残存する中国の保有資産価値の毀損にもつながりかねない。ゆえに売却はあくまで漸進的に行い、市場へのショックを回避することが肝要である。また、中国の動きは他の保有国にも影響を与えるため、国際協調や情報開示を通じて市場のパニックを防ぐ工夫も求められる。
- 流動性と収益のバランス: 金の保有増加は安全性を高める一方で、無利息資産への偏重は外貨準備全体の運用利回りを低下させる。国家財政にとって外貨準備の利子収入は馬鹿にならないため、金と利回り資産とのバランスを取る必要がある。また、金市場は米国債市場に比べ規模が小さく価格変動も大きいため、大量保有に伴う流動性リスク(いざ現金化しようとする際に市場価格が崩れるリスク)にも注意が必要だ。
- ドル需要への対応: たとえ準備構成比を下げても、絶対額として中国経済が必要とするドル資金は依然莫大である。輸入決済や対外債務返済、国内経済のドル建て取引など、ドルの需要は短期的に消えるわけではない。従って、どの程度までドル資産を減らせるかには限界がある。人民元の国際化やデジタル人民元の推進など、ドル依存を減らす補完策とも両輪で進める必要があるだろう。
- 国際金融体制への影響: 中国の外貨準備戦略の転換は、国際金融体制におけるドルの地位にも影響を与え得る。ドル離れが進めば、米国の金融市場や経済にも波及効果が及ぶため、米国との緊張関係が一段と高まる可能性がある。中国としては、自国の正当なリスク管理策であると推論しつつも、過度に摩擦を生まないよう慎重な舵取りが求められる。また、他の新興国に与える波及についても配慮し、国際社会との対話を図りながら安定的に移行することが課題となる。
以上の課題を踏まえつつ、ジンテーゼとしての中国の戦略は、ドル資産と金の双方をバランスさせた「中庸」の道を追求することに他ならない。それは即ち、外貨準備の健全性を維持しつつ、自主性と安全性を高めることである。米ドル資産の漸減と金購入の拡大は、一見相反する行為のようでいて、長期的視点では中国の国家経済安全保障を強化するという同一の目的に収斂する。その意味で、テーゼとアンチテーゼの統合であるジンテーゼとして、この方針は合理性を備えていると言えよう。
おわりに
米中対立の時代において、中国の外貨準備戦略は大きな転換期を迎えている。本稿ではテーゼ(大量のドル資産保有の意義)、アンチテーゼ(ドル資産縮減と金購入の合理性)、ジンテーゼ(新たな戦略と課題)という三段階で論じた。総合的に見れば、中国は伝統的なドル重視の方針から、リスク分散と経済主権確保を志向する方針へと舵を切りつつある。この変化は単に一国の外貨運用戦略にとどまらず、基軸通貨ドルの地位や国際金融秩序にも影響を及ぼす可能性を秘めている。米ドル資産と金のバランスを模索する中国の動向は、世界経済の将来像を占う上でも重要な指標となろう。米中両大国の対立が先鋭化する中で、中国は経済的な備えを着実に固めつつあり、その行方に引き続き注目が集まっている。
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