はじめに
近年、中国およびインドの中央銀行による金(ゴールド)購入が顕著に増加しています。特に2022年以降、世界の中央銀行による金の純購入量は過去最高水準を記録し、中国人民銀行やインド準備銀行がその先頭に立っています。この現象が一時的なものなのか、それとも構造的・戦略的背景に支えられた持続的な動きなのかが議論されています。本稿では、以下の要因に基づき、この金購入トレンドが一過性ではなく持続的であることを弁証法的に論じます。
- 金の外貨準備に占める割合の低さ: 中国の外貨準備に占める金の割合は約4%、インドでも約9%と依然低水準に留まっています。
- 中央銀行の金購入増加傾向: 2022年以降、各国中央銀行による金購入が歴史的な高まりを見せています。
- 経済成長と準備資産の多様化ニーズ: 両国の経済的台頭に伴い、外貨準備の構成を多様化する必要性が高まっています。
- 地政学的リスク・制裁リスクへの備え: 国際情勢の不安定化や制裁の可能性に対し、安全資産として金を保有する動きが強まっています。
- ドル基軸体制への挑戦(脱ドル化): 米ドル中心の国際通貨体制に対し、BRICS諸国(特に中国・ロシア・インド)が戦略的にドル依存を下げる動きを見せています。
以下では、まずテーゼ(主張)として金購入増加の持続的要因を述べ、次にアンチテーゼ(反論)として一時的要因の可能性を検討し、最後にジンテーゼ(統合)として総合的な結論を導きます。
テーゼ:金購入増加の持続的要因
中央銀行による金購入の増加は、一過性の現象ではなく構造的な背景に根ざした持続的な動きであると主張できます。第一に、中国・インド両国とも外貨準備に占める金の比率が依然として低いことが、この傾向を継続させる余地を示しています。中国は約3兆ドルもの巨額の外貨準備高を抱えていますが、そのうち公式に公表されている金保有量は2023年末時点で約2235トン、全準備高のわずか4%程度に過ぎません。一方インドも、外貨準備高約6000億ドルの中で金は約800~900トン(1割弱から1割程度)と割合は限定的です。欧米の先進国(例えば米国は外貨準備の7割近く、ドイツやフランスも5割超を金が占める)の水準と比べれば、中国やインドの金保有比率は極めて低く、この**「金保有比率の低さ」**そのものが今後さらなる購入余地があることを意味します。両国は自国の経済規模やリスク管理の必要性に見合った水準まで、段階的に金保有を増やしていく可能性が高いと言えます。
第二に、中央銀行による金購入の世界的増加傾向そのものが持続的なトレンドを裏付けます。2022年には世界全体の中央銀行による金純購入量が約1080トンに達し、これは過去数十年で最大の水準となりました。2023年も引き続き1000トンを超える大規模な購入が行われており、2年連続で1000トン超という異例の傾向が確認されています。中国人民銀行はその中で最大の買い手となり、2023年単年で225トンもの金を公表ベースで買い増しました(これは少なくとも1970年代後半以降で中国にとって最大の年間購入量となります)。インド準備銀行(RBI)も近年積極的に金を買い増しており、例えば2022年以降の数年間で毎年数十トン規模の購入を続けています。こうした各国の動きは決して一時的な思いつきではなく、「金の有用性」に対する中央銀行コミュニティ全体の再評価が進んでいることを示唆します。実際、2010年以降中央銀行は年次ベースで一貫して金のネット買い手となっており、近年その勢いが増しています。これは長期的な戦略転換として捉えるべきでしょう。
第三に、経済的成長に伴う外貨準備の多様化ニーズが金購入を後押ししています。中国とインドはいずれも経済規模が拡大し、それに伴って外貨準備高も増大してきました。経済が成長するほど対外資産も積み上がりますが、健全なリスク管理の観点からは、準備資産を米ドルなど特定の通貨や資産に偏重させず、多様な資産に分散することが求められます。金は他の資産と相関が低く、信用リスクもゼロであるため、伝統的にポートフォリオ分散に有効な資産とされています。中国はこれまで外貨準備の大部分を米国債など米ドル建て資産で運用してきましたが、昨今は米国債保有額を減らしつつあります。実際、人民銀行は2010年代初頭に約1.3兆ドルあった米国債保有高を、2024年には約7800億ドル程度まで減らしました。その一方で金の保有量を着実に増やしています。このようにドル資産依存を下げて金など他の資産でリスク分散を図る動きは、中国のみならずインドを含む新興国に共通する戦略です。インドも、外貨準備に占める金の割合がここ数年で6~7%台から約10%前後へと上昇しており、準備資産の分散が進んでいます。経済力の向上に伴い、自国通貨の信用力向上や国際金融における発言力強化を図る中で、裏打ちとなる準備資産の質を高めようとする動機は強く、金購入はその一環と考えられます。
第四に、地政学的リスクや制裁リスクへの備えとして金保有を増やす戦略的意図が見られます。ロシアによるウクライナ侵攻とそれに続く西側諸国の大規模な経済制裁は、多くの国に衝撃を与えました。特にロシア中央銀行が保有していた外貨準備のうち、欧米の金融機関に預託されていた外貨資産が凍結されて利用不能になったことは、中国やインドにとって他人事ではありません。中国は将来的に台湾情勢等で米欧と対立が激化し制裁を受ける可能性を考慮し、自国の外貨資産が他国に凍結されるリスクを低減したいと考えるでしょう。インドもまた明確な敵対関係にあるわけではないものの、世界的な政治緊張の高まりの中で安全策を講じておくに越したことはありません。金は物理的な実物資産であり、自国で保管してしまえば他国の司法権が及ばないため、究極の「非常用資産」として有用です。これは米ドルやユーロなどの預金・債券にはない特性です。さらに金は古来「有事の安全資産」と呼ばれ、金融危機や地政学危機の際に価値が維持されやすい傾向があります。現に、新型コロナ危機やウクライナ戦争による不確実性の中で金価格は上昇し、各国中銀もそれに合わせるように金を買い増してきました。制裁リスクへの備えと有事の価値保全という二重の理由から、金保有の戦略的価値は高まっており、中国・インドがこの観点で今後も金を重視するのは十分に合理的です。
最後に、**米ドル基軸体制に対する戦略的挑戦(脱ドル化)という文脈があります。BRICS諸国を中心に、国際貿易や金融取引で米ドルへの依存を低減し、自国通貨や代替通貨による決済を拡大する動きが広がっています。中国は人民元の国際化を積極的に推進し、ロシアや中東との石油取引を人民元建てで行う試みや、上海協力機構・BRICS拡大会合などでドル以外の決済手段の模索を続けています。インドもロシアからのエネルギー輸入をルピー建て決済に切り替えるなど、一部で脱ドル化の動きを見せています。こうした流れの中で、通貨と並ぶ価値の裏付け資産として金が注目されています。特に中国とロシアは、自らが主導する国際秩序において信認を得るため、将来的に金を裏付けとしたデジタル通貨や決済システムを構築する可能性すら指摘されています(例えばBRICS共同通貨のアイデアなど)。そこまで踏み込まなくとも、ドル一極支配に対抗する手段として、各国がこぞって金の保有量を高めておくことは戦略的アドバンテージと映ります。ドルの価値や信用が長期的に相対低下していく懸念(米国の巨額債務や金融緩和の副作用)もあり、「ポスト米ドル」**への備えとして金を蓄える動機も存在します。以上のように、低い金保有比率の是正、外貨準備の分散、リスクヘッジ、そして新たな通貨秩序への備えといった構造的要因が重なり、中国・インドの中央銀行による金購入は戦略的で持続的なトレンドであると論じられます。
アンチテーゼ:一時的要因と考える見方
一方で、こうした金購入の急増は一時的な状況要因によるものであり、必ずしも長期にわたり持続するとは限らないとする反論も考えられます。第一に指摘されるのは、2022年からの金購入の急拡大が新型コロナ後の経済混乱やウクライナ戦争など異例の事態への対応だった可能性です。各国中央銀行は未曾有のインフレや市場変動への対策として一時的に金を積み増しただけで、状況が落ち着けば購入ペースを落とすかもしれません。実際、過去を振り返れば中央銀行の金売買は周期的な傾向もありました。1990年代から2000年代初頭にかけて多くの中央銀行が金を売却していた時期があり、その後2010年代に買い手に転じたものの、常に一方向ではありません。したがって現在の購入ラッシュも、数年スパンで見ればピークを迎え、再び停滞・減少に転じる可能性は否定できません。
第二に、金は利子を生まない資産であり、外貨準備として保有するにはコストも伴います。金保管には保管料や保安コストがかかり、流動性も米国債などに比べれば劣ります。平時において中央銀行が自国通貨防衛や緊急支出に備えるには、いつでも現金化しやすい米ドル建て資産の方が有用です。中国やインドが外貨準備の大半を依然ドルや他の通貨で保有しているのは、金だけでは国際決済や為替介入に対応しづらいという現実的な理由があります。したがって、金の適正保有比率には上限があるとも考えられます。例えば先進国でも金保有比率が極端に高いのは自国通貨が基軸通貨である米国など特殊なケースであり、新興国としてはせいぜい外貨準備の数割程度が上限となるでしょう。中国4%、インド9%という現状は低いようにも見えますが、一部の専門家は「これ以上高めすぎると機動的な準備運用が難しくなる」として慎重な見方を示すかもしれません。つまり、両国中銀が目指す金保有比率にはある程度の目安があり、そこに到達すれば購入ペースは鈍化する可能性があります。
第三に、他の分散策の存在も反論として挙げられます。ドル資産依存を下げる方法は金購入だけではありません。例えば中国は米ドル以外にユーロや円、近年では自国通貨建て資産(人民元建て債券)やIMF特別引出権(SDR)なども選択肢として増やしています。インドも外貨準備の中でドル以外の通貨建て資産や国債への投資を拡大することが考えられます。もし金価格が高騰して割高感が出た場合や、市場流動性のある他通貨資産が魅力を増した場合には、中銀は金よりもそちらを選好する可能性があります。実際、米ドルの金利が上昇し利回りが魅力的になれば、無利息の金よりも利息の付く米国債を選ぶインセンティブも働きます。従って、金だけに固執せず柔軟に資産配分を調整するという見方からは、「金購入の激増は永続的ではないだろう」との主張が出てきます。
第四に、地政学リスクや制裁リスクといった要因も、将来的に状況が変化しうるという点です。現在は米中関係の緊張やロシア制裁の余波で危機感が高まっていますが、仮に将来これらの緊張が緩和し、国際協調体制が回復すれば、各国が感じるリスクも低減します。その場合、リスクヘッジとしての金の重要性は相対的に薄れ、中銀の関心も他の課題(例えば経済成長やデジタル通貨整備など)に移るかもしれません。国際金融システムにおけるドルの地位も、一部で低下傾向が語られるとはいえ、依然として決済・融資・資本市場で支配的です。脱ドル化の試みには限界や時間がかかる面があり、結局のところ各国は当面ドル資産を大幅には減らせないとの見通しも根強くあります。このように、現在の金購入の盛り上がりは様々な特殊要因が重なった一時的な現象であり、中長期的には減速する可能性も十分に考えられるというのがアンチテーゼの立場です。
ジンテーゼ:構造的・戦略的トレンドとしての金保有
テーゼとアンチテーゼの主張を踏まえると、中国およびインドの中央銀行による金購入増加は基本的には構造的・戦略的なトレンドであるものの、その進行速度や規模は短期的状況によって調整されうる、という統合的な見解が導けます。すなわち、地政学的緊張の高まりやドル体制への挑戦といった大局的な方向性が存在する限り、金の重要性は今後も持続すると考えられます。ただし、それは一直線に金保有比率が上昇し続けることを意味するのではなく、経済・市場状況に応じて緩急を付けながら戦略的に進められていくでしょう。
テーゼで挙げたような根本要因――低い金準備比率の是正余地、外貨準備の分散ニーズ、リスクヘッジ、安全保障上の動機、そして国際通貨体制の変革志向――は、一朝一夕に解消するものではありません。中国とインドが直面する経済的・地政学的環境を考えれば、これらの国が外貨準備における金の割合を中長期的に引き上げていく蓋然性は高いと言えます。例えば中国は経済規模で米国に匹敵する超大国となりつつあり、自国通貨の国際化や金融覇権への野心を持っていますが、その裏付けとして**「信用のある資産」**を蓄積する必要があります。同様にインドも急成長する大国として、経済の安定と国際的信用力の強化を図る中で、金は伝統的かつ実質的な価値の保存手段として重要視されるでしょう。
一方、アンチテーゼで指摘されたような短期的要因にも留意が必要です。確かに中央銀行は市場状況や金利動向に応じて臨機応変に資産配分を変えるため、金購入のペースが一時的に鈍化したり逆に売却に転じたりする局面も将来起こりえます。また、適正な金保有比率については各国の事情によって判断されるため、無限に買い増すことはないでしょう。しかし、これらは戦略そのものの放棄を意味するものではなく、長期目標に向けた軌道修正に過ぎません。大局的には、中国やインドが外貨準備のポートフォリオにおける金の存在感を高め、自国の金融・経済の防衛線を強化していく趨勢は変わらないと考えられます。
総合すれば、中国およびインドによる中央銀行の金購入の動きは、目先の景気や市場環境に左右される一過性の現象ではなく、経済構造の変化や国際情勢の戦略的判断に根差した持続的なものです。テーゼが示す複合的な背景事情が依然として存在し、むしろ強まっている現状では、多少のアップダウンはあれど金保有拡大の方向性が大きく転換する可能性は低いでしょう。この弁証法的考察から導かれる結論は、中国とインドの中央銀行による金購入トレンドは構造的な長期戦略の一環として持続するということです。各国の備える金の輝きは、当面失われることなく、その準備高の中で着実に存在感を増していくに違いありません。
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