序論
世界経済の覇権は常に変遷してきた。第二次世界大戦後に成立したドル支配体制(ドルが国際基軸通貨として君臨する体制)は長らく安定していたが、近年その基盤に揺らぎが見え始めている。中国やインドといった新興国が著しい経済成長と科学技術の進歩を遂げ、国際舞台での存在感を高めているのに対し、アメリカ合衆国の経済的・技術的優位は相対的に低下しつつある。このような力関係の変化は、現行のドルを中心とした国際通貨秩序に対する挑戦として現れ、**金(ゴールド)**という古典的な資産が再び地政学的な注目を集めている。本稿では、ヘーゲル的弁証法の観点(正・反・合の弁証法的展開)を用いて、金の保有量が国際的な政治的影響力に与えうる影響について近未来のシナリオを論じる。すなわち、正=現状のドル支配体制、反=新興国による挑戦、合=新しい国際通貨秩序、という構図のもとで議論を展開する。
正:ドル基軸体制の現状とその歴史的基盤
現行の国際通貨体制の「正(テーゼ)」は、米ドルを基軸通貨とする秩序である。ブレトンウッズ体制の下で確立されたドルの支配は、当初ドルを金に兌換する約束(1オンス=35ドル)によって信認を得ていた。しかし1971年のニクソン・ショックによりドルと金の兌換は停止され、以後は管理通貨制度(フィアットマネー)の時代に移行した。それでもなおドルの基軸通貨としての地位は揺らがず、これはアメリカの経済規模・軍事力・金融制度への信頼によって支えられてきた。ドル支配体制は各国の外貨準備の大半がドル建て資産で保有されることで成り立ち、国際貿易や投資の決済にもドルが幅広く用いられている。いわば、米国は「基軸通貨の発行国」としての特権(しばしば「過剰な特権」とも呼ばれる)を享受し、自国の赤字を比較的容易に賄える一方、他国はドルへの信頼を前提として自国経済を運営する状況が続いている。
しかし、この現行体制の内部には潜在的な矛盾も孕まれている。主要な点を挙げれば以下の通りである。
- **第一に、**基軸通貨国である米国が世界に流動性を供給するためには、経常赤字や財政赤字を拡大せざるを得ないというジレンマ(トリフィンのジレンマ)が存在する。
- **第二に、**一国の通貨(ドル)に過度に依存する体制は他国にとって金融面の脆弱性となりうる。米国の金融政策や景気変動は世界経済に直接波及するうえ、米国がドル支配を外交手段として利用(いわゆる「ドルの武器化」)する可能性も指摘されている。実際、経済制裁の一環でドル取引やドル資産凍結が行われれば対象国の経済は深刻な打撃を受ける。
以上のように、現状のドル体制は表面的な安定の下に他国にとって構造的な不公平感とリスクを内包していると言える。
反:新興国の台頭と金に基づくドル体制への挑戦
中国・インドをはじめとする新興国の勃興は、ドル体制への反(アンチテーゼ)として具体化しつつある。経済規模において中国は既に米国に匹敵する水準に達し、インドもまた急速な成長を遂げている。これら新興大国はGDPのみならず、軍事力・外交力そして科学技術の分野でも著しい発展を示している。中国は先端技術(例えば5G通信網や人工知能)の領域で独自のエコシステムを築き、有人宇宙飛行や月探査を成功させるなど技術大国として台頭した。インドもまた宇宙探査や情報技術サービスで存在感を示し、世界の技術革新の一翼を担うようになっている。このような科学技術的進歩は単に国威発揚にとどまらず、金融システムにおける自律性を高める基盤ともなっている。例えば、中国はデジタル人民元という中央銀行デジタル通貨(CBDC)を発行し、独自の決済網(CIPS)を整備することで、米国主導のSWIFT決済網に依存しない経済圏の構築を試みている。技術力の向上は即ち、既存のドル体制に代わるオルタナティブを創出し得る能力の向上でもある。
新興国による挑戦は、通貨・金融面で顕著である。その中心にあるのが金の戦略的保有である。中国やロシアを筆頭に、多くの新興経済国の中央銀行がここ数年で大量の金を買い増している。世界の中央銀行による金購入量は、近年半世紀ぶりの高水準に達し、その主な担い手は米ドルへの依存度を下げたいと考える新興諸国である。彼らが金に注目する背景には、金が「政治的に中立な安全資産」とみなされていることがある。金はどの国の信用にも紐づかない普遍的な価値を持つ資源であり、極論すれば自国の金庫に蓄えておけば、他国による凍結や無効化のリスクがない。実際、米国が自国の覇権維持の手段としてドル決済網からの排除や外貨準備の凍結といった制裁を用いる可能性が現実味を帯びる中(ロシアに対する制裁でそれが示唆されたように)、自国の財産を防衛する手段として金を備蓄する動きが加速したと考えられる。
この「金の再評価」は、ドル体制への直接的な挑戦として作用しつつある。たとえば、中国は公式に報告される金準備を近年急増させており、2020年代半ばには2000トンを超える規模に達したとされる(それでも米国の保有する8000トン超には及ばないが、継続的な積み増しにより差を縮めている)。ロシアも同様に2000トン強の金を蓄え、インドも800トン以上を保有している。
さらに、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)諸国は、国際会議の場で新たな通貨体制の構想を議題に上らせている。その中には、共同で金に裏付けされたデジタル通貨の創設といった大胆な提案も含まれている。これが実現すれば、現在のドルによる信用に替えて、金という実物資産の信用が通貨価値の裏付けとなる可能性がある。金本位制の復活にも似たこの発想は、柔軟な金融政策を制約するとの批判もあるが、新興国側からすればドル体制の呪縛から逃れ自主的な金融秩序を築くための強力な武器と映る。すなわち、金の保有こそが将来の通貨発行権や国際金融上の発言力を高める鍵であるとの認識が広がりつつある。
合:新しい国際通貨秩序と金の役割
ヘーゲル哲学の枠組みに沿えば、ドル体制(正)と新興国の挑戦(反)の相克から、いずれ**合(ジンテーゼ)**として新たな国際通貨秩序が生まれることになるだろう。その合成は、対立する二項の要素を止揚(アウフヘーベン)する形で現れると考えられる。すなわち、新秩序は現行のドル基軸体制が持つ「利便性と流動性」という長所と、新興国側の提起する「公平性と中立資産(金)の重視」という要請とを統合した姿になる可能性が高い。
近未来のシナリオとしては、単一の覇権通貨に代わり多極的な準備通貨体制が現れることが考えられる。そこではドル・ユーロ・人民元といった主要通貨が比重を分かち合い、さらにそれらの価値を裏付ける尺度の一部として金が組み込まれるかもしれない。例えば現在議論されている案として、以下のようなものが挙げられる。
- IMFが発行する特別引出権(SDR)のような通貨バスケットに金やその他コモディティを組み入れ、価値安定の基軸とする案
- BRICS諸国による新たな国際決済通貨を金・資源に連動させる構想
これらはいずれも、金を通貨価値の裏付けに組み入れることで信用の中立性と安定性を高めようとする試みである。
こうした合成的秩序の下では、金は再び国際通貨システムの一角を担う資産として位置づけられ、各国の金保有量はそのまま国際金融における発言権と信用力の源泉となりうる。実際、将来的に各国通貨の信用を担保する仕組みが導入されれば、豊富な金準備を持つ国ほど自国通貨の信認を確保しやすく、国際交渉で有利な立場を得る可能性があるだろう。
新秩序はまた、技術面での進歩とも相まって現れるだろう。ブロックチェーン技術やデジタル通貨基盤を用いることで、複数の国家が共有する透明性の高い決済・準備資産システムが構築されるかもしれない。それは一国が独占的に発行する法定通貨ではなく、参画国が合意したルールに基づいて発行・評価される国際通貨、あるいは相互に兌換性のある複数準備通貨のネットワークとなる可能性がある。この文脈において、金の持つ普遍的価値は技術によってより有効に活用され、デジタル技術と結合した形で通貨価値の安定装置となることが考えられる。要するに、「正」と「反」の対立の中から生まれる合成は、一国支配によらないより多元的で公正な通貨体制であり、そこでは古くから価値の象徴であった金が現代的な形で役割を担うのである。
結論
金の保有量と国際政治的影響力の相関は、歴史を通じて繰り返し顕在化してきたテーマである。近未来において再びそれがクローズアップされるとすれば、それは単なる歴史の繰り返しではなく、現代的な弁証法的発展の所産として現れるだろう。ドル支配体制という「正」は、新興国の挑戦という「反」を招き、両者の緊張関係はやがて新たな「合」を形成する。この過程で、金という普遍的価値資産が脚光を浴びるのは象徴的である。経済規模と技術力を蓄えた中国・インドなどの国家が、自らの台頭に見合う国際的地位を求めて金を戦略的に活用することで、金の保有量と発言力の相関は一段と強まるだろう。そしてその延長線上に、生まれ変わった国際通貨秩序が姿を現す可能性が高い。それは、ヘーゲルが説いたように、対立するものの統合によって一段高い次元へ発展した秩序であり、各国が相応の役割と責任を分かち合う多極的世界と言えるかもしれない。そのとき、金は単なる古色蒼然たる貴金属ではなく、合成された新世界秩序における平衡と信認の礎石の一つとして輝きを放っていることだろう。
以下に要約します。
世界経済はドル基軸体制(正)という安定した秩序を維持してきたが、米国の経済的・技術的優位性の相対的低下や、中国・インドなど新興国の急速な経済成長と技術進歩により挑戦(反)を受けている。その中で、金(ゴールド)への注目が高まり、新興国は政治的に中立で価値の安定した資産である金を戦略的に蓄積し、ドル依存を脱却する動きを強めている。これにより、国際政治的影響力と金保有量が相関する可能性が生まれている。
こうした対立(ドル体制 vs 新興国の挑戦)を経て、近未来には多極的な新しい国際通貨秩序(合)が形成されるだろう。それは単一の通貨による支配ではなく、複数の通貨と金や資源を価値の裏付けとして採用した公平で中立的なシステムである。結果として、金の保有量が国際的な影響力や交渉力を左右する重要な指標となる可能性が高まり、再び国際政治における重要な資産として浮上することが予想される。
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