近世フランス財政赤字とインフレ政策の興亡:ジョン・ローの紙幣制度とミシシッピ会社の弁証法的分析

はじめに

18世紀初頭のフランスは、ルイ14世の長年にわたる戦争と豪奢な宮廷支出により国家財政が深刻な危機に陥っていた。1715年にルイ14世が没し、幼い曾孫ルイ15世が即位すると、莫大な債務と財政赤字がブルボン朝を圧迫していた。新政権を主導したオルレアン公フィリップ2世は、伝統的な増税や歳出削減ではなく、革新的な金融政策によって危機を乗り切ろうと模索する。その救済策として登場したのがスコットランド人の経済思想家ジョン・ローであった。ローは「紙幣経済への移行」という大胆なインフレ誘導策を提唱し、国家の債務圧縮と経済再生を約束したのである。

本稿では、近世フランスにおける財政赤字削減を目的としたインフレ政策の顛末を、ヘーゲル流の弁証法的視座(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ)から分析する。まずテーゼとして、フランス王権が財政危機を背景に採用した紙幣制度導入と金融政策の意図・展開を論じる。次にアンチテーゼとして、その政策が引き起こした社会経済的矛盾、すなわち通貨(紙幣)と金貨・土地など現物資産との価値乖離や階層間の格差拡大、一般民衆・資本家・王権の利害対立について考察する。最後にジンテーゼとして、バブル崩壊による制度崩壊の結末と、それを通じて得られた歴史的教訓やフランス財政構造の転換について述べ、論考を締めくくる。

テーゼ:財政危機下の紙幣導入と「ミシシッピ計画」

ルイ14世の治世末期に累積した莫大な国債と財政赤字を引き継いだフランス王権は、伝統的手段では解決困難な債務問題に直面していた。そこで採用されたのが、ジョン・ローによる斬新な貨幣政策である。ローは重商主義的な金銀蓄積の発想を批判し、経済の活性化には通貨供給量の拡大と信用創造が必要だと主張した。すなわち、金銀の保有量に縛られない管理通貨制度を導入し、紙幣(信用貨幣)の発行によって取引を活発化させることで、経済成長と税収増を図る構想である。王権にとっても、インフレによる通貨価値の下落は実質的に国家債務を圧縮する効果が期待できたため、この「インフレ誘導策」は魅力的な解決策と映った。

ローは1716年に民間銀行「バンク・ジェネラル」(一般銀行)を設立し、政府公認のもと紙幣発行を開始した。1718年にはこの銀行が国有化され「バンク・ロワイヤル」(フランス王立銀行)となり、フランス史上初めて本格的な紙幣制度が導入される。王立銀行券は金銀との兌換を約束されていたが、同時に政府は紙幣流通を促進するための措置を講じた。例えば、王立銀行券での納税を認める法令を出し、国民が紙幣を信用し受け取りやすくする工夫がなされた。紙幣は瞬く間に全国へ流通し、従来の金貨銀貨に代わる新たな流通貨幣として定着し始める。

並行してローは、国家債務の抜本処理を狙った大規模な金融スキームである**「ミシシッピ計画」を推進した。1717年、彼はフランス領ルイジアナの開発独占権を与えられた「西方公司」を設立し、のちに東インド会社など他の特許会社を統合して巨大なインド会社(通称ミシシッピ会社)へと発展させた。この会社はルイジアナの広大な天然資源と貿易独占権を担保に利益を創出する予定であり、ローは自ら総裁に就任して事業への期待感を煽った。当時フランス政府の国債は信認を失い、市場価格が額面を大きく下回っていたが、ローは債権者に対し大胆な提案を行う。すなわち、政府が返済義務を負う国債を、その返済義務のないミシシッピ会社の株式**と等価(額面金額)で交換することを認めたのである。債権者にとっては、本来紙くず同然に低価値化していた国債を額面通りに株式へ替えられる好機であり、多くの貴族や資本家、さらには一般市民までもが競って応募した。

この国債の株式化と並行して、ローの王立銀行は大量の紙幣を増刷し、ミシシッピ会社株の配当支払いに充てた。事実上、国家の巨額債務をミシシッピ会社株に肩代わりさせ、その株価維持のために中央銀行が資金(紙幣)を供給する仕組みである。ローの狙いは、株式市場の熱気と紙幣供給の拡大によって経済全体に好況をもたらし、その中で国の債務問題を解消することであった。思惑通り、この計画当初は驚異的な成功を収める。新興のミシシッピ会社に対する投機熱は瞬く間に広がり、株価は発行時の1株500リーブルからわずか数年で10,000リーブルにまで高騰した。株価上昇に伴い、人々はさらに紙幣を借り入れて株式を買い増すという金融投機が過熱し、市場にはマネーが溢れていった。その結果、1720年初頭までにフランス国内の通貨供給量(紙幣と紙幣に換金可能な株券の合計)は従来の4倍にも達し、市場には未曾有の流動性が供給されたとされる。フランス経済は空前の投機ブームと好景気に沸き、失業の減少や消費拡大など一見すると繁栄の様相を呈した。王権にとって肝要だった国家債務も、国債の株式転換によって表面的には圧縮され、財政赤字は劇的に改善した。**「紙幣を刷れば富が生まれる」**かのような錯覚さえ漂う中、ロー自身は財務総監(大蔵卿)に抜擢され、絶対王政の金融改革は頂点に達したかに見えた。

アンチテーゼ:紙幣経済の矛盾とバブルの社会的影響

ローのシステムが最高潮に達した1720年前後、その内在的な矛盾が徐々に露呈し始める。最大の問題は、通貨としての紙幣価値と現実の資産価値との乖離であった。ミシシッピ会社の株価急騰と紙幣増発によって資産価格や物価は高騰したものの、それは実体経済の裏付けを伴わないバブルであった。紙幣の流通量は爆発的に増えたが、フランス経済の生産力や植民地ルイジアナからもたらされる利益が比例して増えたわけではない。ミシシッピ会社が約束した豊富な金銀財宝や交易利益は誇大に喧伝されたもので、実際には同社の収益は投機熱に見合うほどではなかった。こうして、流通する紙幣の名目価値と、それによって取得できる現物資産(とりわけ金銀や土地)の真の価値との間に次第に開きが生じていったのである。

紙幣への信認低下は、貨幣と資産の交換比率の変動として具体化した。人々は次第に手持ちの銀行券の価値に不安を抱き、安全な現物資産である金貨や銀貨、土地や貴金属へと換えようと動き出した。とりわけ富裕層や外国人投資家は、急騰した株式を売却し利益確定すると、得た紙幣をより確実な資産へ逃避させ始めた。一方、都市の一般商工民や年金生活者にとっては、紙幣流通によるインフレが生活必需品の物価高騰を招き、生活を圧迫する結果となった。急激なインフレは賃金上昇を追い越す速度で進行し、固定収入しか持たない庶民層の購買力を奪ったのである。また農民や地方在住者の中には、王立銀行券を信用せず受け取りを拒否する者も現れ、都市と地方、上層と下層の間で紙幣に対する温度差が広がった。かくして通貨制度への不信と社会的不安が募り、ローの紙幣経済は持続不可能な緊張状態に陥っていく。

1720年当時の風刺版画。ロンドンで出版された『愚者の大祭典(Het Groote Tafereel der Dwaasheid)』に収録されたもので、中央のロバの耳を持つ人物は投機狂乱に浮かれる愚者を象徴している。当時、パリの街路(例えばケ・ド・フェルメ通りや銀行のあったケ・ド・コンティ界隈)では老若男女が株券を売買し、一攫千金を夢見る熱狂に沸いた。しかしその狂騒の陰で、理性ある者たちは紙幣と株券がやがて無価値化しうる危険に気づき始めていた。版画に描かれた舟や瓦礫は、ミシシッピ計画が幻に終わり財産が海の泡と消えることを暗示している。ローの金融システムは、社会の一部に投機による急富をもたらす一方で、多くの者にはインフレによる富の実質目減りや投資損失という形で不利益を強いた。階層間の格差も拡大したと考えられる。すなわち、バブルの早い段階で情報を得て動けた王族・貴族の周辺や一部の大資本家は、上昇相場で株を売り抜けて莫大な利益を上げる者もいた。一方、後から熱狂に乗った市民や中小の投資家ほど、高値掴みの末に暴落で資産を失うケースが多発した。インフレ環境で実物資産を保持していた地主貴族層は借金が実質軽減され恩恵を受ける一方、貨幣価値に依存する年金生活の貴族や小口債権者は大きな痛手を被った。このように王権(国家)・資本家・庶民それぞれの階層で利害の明暗が分かれ、ローの紙幣制度は社会的摩擦と不満を蓄積していったのである。

ローと摂政政府は、紙幣への信頼低下に対処すべく強権的な施策も行った。1720年初頭、ローが財務総監に就任した直後には、紙幣と硬貨の交換を制限し、金銀貨幣の使用を禁止して王立銀行券を唯一の法定通貨とするという極端な布告さえ発された。人々が紙幣よりも金銀を選好する動きを強引に封じ込めようとしたのである。しかしこの策は市民の反発と恐慌的な動きをさらに煽る結果となった。正貨所持の制限命令は実質的な財産権侵害と受け取られ、人々は抜け道を探して資産を守ろうと躍起になった。加えて同年5月には、政府が突如として王立銀行券およびミシシッピ会社株の名目価値を段階的に引き下げるデノミネーション(半減策)を布告し、インフレ抑制を図ろうとした。この政策転換は市場に大混乱をもたらし、紙幣や株券の信頼は決定的に崩壊した。市民はパニックに陥り、発行銀行へ我先にと殺到して紙幣を金銀に交換しようとする取り付け騒ぎが発生したのである。かくして紙幣制度と株式市場の双方に深刻な危機が訪れ、ローの壮大な試みは破局へと向かっていった。

ジンテーゼ:バブル崩壊と制度崩壊から得られた教訓

1720年後半、ミシシッピ会社の株価は暴落し続け、年末には発行時の水準(500リーブル)にまで暴落してバブルは完全に崩壊した。王立銀行も取り付けに耐えられず兌換支払いを停止し、発行した膨大な紙幣は価値を失ってゆく。ジョン・ローは失脚して国外へ逃亡し、革新的だった紙幣制度と金融システムはわずか数年で瓦解した。こうして**「債務解消を目的としたインフレ誘導政策」**は最終的に信用崩壊という形で破綻を迎え、フランス王権は財政再建策のジンテーゼ(止揚)として苦い現実を突きつけられたことになる。

しかしこの崩壊によって、一応の**決着(総合)が得られた側面も存在する。王権は膨張した債務を事実上市場に転嫁し、一種の債務整理(デフォルト)**を実現したとも評される。実際、旧債権者の多くは株式や紙幣の暴落によって債権価値を失い、国家財政から切り離される形となった。1721年以降、フランス政府は緊急措置として財政の再建を図り、膨れ上がった通貨を回収して新たな公債を発行するなど収拾に努めた。結局、国王ルイ15世の下で債務の一部は踏み倒される一方、インド会社は再編を経て海外貿易企業として存続し、税収徴収も旧来の徴税請負制へと戻された。ローの破綻したシステムは完全に放棄され、フランスは再び金銀主体の保守的な金融体制に回帰していったのである。

この歴史的事件から得られた教訓や影響は多岐にわたる。まず、通貨発行によるインフレ効果で財政問題を解決しようとする危うさが人々に刻印された。紙幣という信用貨幣は確かに一時的な繁栄を演出したが、裏付けとなる現実の価値が伴わなければ瓦解は避けられないことが示されたのである。王権にとっても、一時は債務削減に成功したかに見えたものの、その代償として国家信用の失墜と国民の不信を招き、長期的には財政基盤をさらに脆弱にする結果となった。実際、ローのシステム崩壊後、フランス社会には紙幣や金融投機への根強い警戒感が残り、以降しばらく中央銀行や紙幣発行への取組は停滞した。この心理的トラウマは、その後のフランス革命期に革命政府が発行した紙幣(アッシニア assignat)に対する不信や急激なインフレへの恐怖にも影を落としている。経済思想的にも、ローの試みは「信用貨幣による経済刺激」と「投機バブルの危険」というコインの両面を後世に提示した。後世の中央銀行制度や金融規制は、このような無秩序な紙幣増発を戒める方向で発展していくことになる。

さらに長期的視点では、本事件は絶対王政の統治能力に対する社会の認識にも影響を与えた。財政運営の失敗は王権の権威失墜を招き、特に貴族や富裕市民層の間で政権への不満が高まる遠因となった。結果としてローの金融実験は、フランス革命(1789年)の遠因の一つを作り出したとも評される。経済的混乱と国家信用の低下は、18世紀を通じて積み重なった構造問題(旧体制の硬直性や課税の不公正など)を一層悪化させ、最終的に革命という形で既存秩序の清算へとつながったのである。

結論

ジョン・ローの紙幣制度とミシシッピ会社を軸としたインフレ誘導政策の興亡は、近世フランスの財政史における劇的な一章であった。財政赤字という課題に対し、テーゼとして紙幣導入と金融改革による解決策が打ち出され、一時は経済の表層に奇跡的繁栄をもたらした。しかしその背後でアンチテーゼとして通貨価値と実体価値の乖離や社会的摩擦が深刻化し、最終的にバブル崩壊という形でシステムは自壊した。そしてジンテーゼとして訪れた帰結は、債務問題の一応の収拾とともに、王権と国民双方に苦い教訓を刻む結果となったと言えよう。

この歴史的経験は、財政金融政策における信用と現実の均衡の重要性を物語っている。貨幣と現物資産の価値の乖離が拡大すれば、いずれ市場の自己修正作用によって痛みを伴う調整が迫られる。また、国家と国民の信頼関係を損ねるような財政マネジメントは、短期的に成功しても長期的安定を損なうことが示唆された。近世フランスのこの事例は、現代においても財政赤字解消や景気刺激のための金融政策を議論する際に立ち戻るべき警鐘として、生き続けているのである。

要約

近世フランスでは、財政赤字解消を目指しジョン・ローが紙幣制度を導入した(テーゼ)。紙幣増発により経済は一時的に活況を呈し、政府債務も圧縮されたが、やがて実物資産(金・不動産)との価値の乖離が顕著となり、深刻なインフレと社会格差の拡大を招いた(アンチテーゼ)。最終的にミシシッピ会社の株価暴落や紙幣価値の崩壊により政策は破綻したが(ジンテーゼ)、この経験は通貨と現物資産の価値の均衡の重要性を示し、長期的な国家財政や社会安定には信用が不可欠であるという歴史的教訓を残した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました