米国では近年、富裕層が国内を離れて海外に移住したり資産を移転したりする動きが注目を集めている。いわゆる富裕層の「海外逃避」や「大脱出」といった潮流が現実味を帯びつつあり、その実現可能性を検討する意義は大きい。本稿では、この問題を弁証法の視点(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ)から論じ、富裕層の海外逃避の可能性を多角的に考察する。
また、GAFAM(Google、Apple、Facebook〈現Meta〉、Amazon、Microsoft)を中心とするデジタルサービスの世界的寡占構造がドル需要を下支えしている現状を踏まえ、現代アメリカの覇権と過去の覇権国家(スペイン、オランダ、英国など)との構造的な相違についても論じる。さらに、米国が推進する人工衛星の大量打ち上げとグローバル・インターネットサービス(例:Starlink〈スターリンク〉)の支配によって生じる国家的優位性と、それが富裕層の逃避に与える逆説的影響(逃げ場のなさ、米国依存の深化)についても考察する。
テーゼ: 富裕層の海外逃避は実現可能か
近年、富裕層の海外志向が高まっており、多くの米国富裕層が国外での生活基盤確保に関心を示している。ある調査では、米国のミリオネア(資産百万長者)の半数以上が将来的な海外移住を検討中だとされ、特に若年世代の富裕層ほどその傾向が強い。こうした動機として、税負担の軽減や生活の質の向上がしばしば挙げられる。米国では自国民に全世界所得課税を行うため、高税率や将来の資産課税を懸念する富裕層にとって、税率の低い国への移住や非居住者となることは魅力的な選択肢となる。また、医療費や治安、教育環境など生活コストや社会環境の面でも、海外の方が有利だと考える層もいる。
現代では富裕層が海外に拠点を移すハードルも下がっている。投資移民(ゴールデンビザ)や市民権取得プログラムを提供する国が増え、十分な資金があれば比較的短期間で第二の居住権や国籍を得ることが可能だ。実際に、カリブ海諸国や南欧などは米国人富裕層にとって人気の移住先となっており、数十万ドル規模の投資によって永住権や市民権を取得する例も増えている。また、金融資産の国際分散も容易になり、海外銀行口座の開設やオフショア投資を通じて資産を海外へ移転することも現実的な選択肢だ。さらに、インターネットやグローバルなビジネスネットワークの発達により、国外に住みながら米国内のビジネスや資産を遠隔管理することも可能である。こうした条件が揃うことで、米国の富裕層が物理的・財政的に自国から離れて暮らすことは、以前に比べ格段に実現しやすくなっている。
アンチテーゼ: グローバル構造が逃避を制約する現実
しかし、富裕層が米国から完全に離脱することには大きな制約も存在する。最大の障壁は米国の市民権課税制度である。米国は世界でも珍しく、市民に対して居住地に関わらず全世界所得に課税する仕組みを維持しているため、海外に移住しても米国市民である限り納税義務と申告義務が続く。抜本的に税負担を断つには市民権の放棄(国籍離脱)を余儀なくされるが、それには多額のExit Tax(国外転出時の課税)が課される可能性があり、さらに一度国籍を捨てれば米国への再入国や米国内資産の取扱いにも支障が出るおそれがある。また、FATCA(外国口座税務遵守法)によって海外の金融機関には米国人顧客の情報報告が義務付けられているため、米国市民が国外で銀行口座を開設したり資金運用を行うことは煩雑であり、場合によっては取引自体を断られる例もある。
このように法制度上、富裕層といえども米国から完全に経済的紐帯を断つのは容易ではない。実際、米国籍の放棄(市民権離脱)を選ぶ者は近年増加傾向にあるものの、その数は年間数千人程度に留まり、米国の総富裕層人口から見れば一部に過ぎない。多くの富裕層は米国籍がもたらすメリット(高度なパスポートの利便性や政府の保護、自由な帰国など)も重視しており、安易に国籍を手放せないのが実情である。
さらに、現在の米国覇権はデジタル経済に深く根差しており、過去の覇権国家には見られない構造的優位を有している点も見逃せない。GAFAMに代表される米IT企業群は、検索エンジンやSNS、スマートフォンOS、電子商取引、クラウドサービスといった現代生活の基盤を世界的に支配し、デジタル空間における「見えざる帝国」を築いている。これらの企業は全世界から莫大な収益を上げており、その多くはドル建てで計上され米国経済に還流するため、デジタルサービスの寡占構造はドル需要の底上げにもつながっている。その意味で、ドルの国際的地位は単に石油取引や国家間決済に支えられているだけでなく、日常的なデジタル経済活動によっても維持されている。スペイン帝国の銀貨(16〜17世紀)やオランダ・大英帝国の通貨覇権が海上交易や植民地支配に依存していたのとは対照的に、現代の米国はサイバー空間と通信インフラを握ることで新たな形態の覇権を維持している。
加えて、宇宙空間と通信ネットワークにおける米国の主導権も、富裕層の逃避を相対的に困難にする要因となりつつある。米国企業は低軌道衛星通信の分野で先行しており、SpaceX社のStarlink(スターリンク)は既に数千基の通信衛星を軌道上に展開して全世界をカバーしている。Starlinkのようなグローバル・インターネット衛星サービスは、離島や辺境地を含むあらゆる場所に高速通信を提供する一方で、その運用基盤は米国の技術と管理に依存している。つまり、富裕層がどこに逃避しようとも、高速インターネットや近代的通信を必要とする限り米国企業のインフラに頼らざるを得ないのが現実なのだ。
実際、Starlinkは既に世界100か国以上で数百万人規模の利用者を抱え、各国の政府通信や軍事通信にとっても不可欠な存在となりつつある。宇宙から地球全域を網羅する米国主導の通信網は、安全保障上および地政学上の強大な影響力を生み出しており、個人レベルでも「逃げ場」を狭めている。極論すれば、地球上で現代的な生活を送る以上、米国のテクノロジー網から完全に逃れることはほとんど不可能な状況が生まれていると言えよう。
ジンテーゼ: 逃避の現実と展望
以上の議論を総合すると、米国富裕層の海外逃避は「可能ではあるが限定的」と評価できる。資金力と国際的制度を駆使すれば、個人レベルでの移住や資産移転自体は実行可能であり、一部の富裕層は実際に国外へ活動拠点を移し始めている(テーゼ)。しかし同時に、税制上の縛りや米国の揺るぎないグローバル支配の下では、自国との結びつきを完全に断ち切ることは難しく、海外に拠点を移しても結局は何らかの形で米国システムに依存し続けるのが実情である(アンチテーゼ)。結果として、富裕層はリスク分散のため複数の国にオプションを確保しつつも、米国との関係を保った「二重状態」に落ち着く可能性が高い。言い換えれば、富裕層による「脱アメリカ」とは、自身の行動範囲を世界に広げる試みではあっても、米国を取り巻くデジタル・金融ネットワークから離脱することは現状ほぼ不可能であり、むしろ形を変えた米国依存の継続に過ぎない(ジンテーゼ)。今後も米国はデジタル覇権と基軸通貨体制によって世界経済の中枢であり続けると見られ、富裕層の振る舞いもそれに適応したものへと収斂していくと考えられる。
要するに、米国の富裕層による海外逃避は、個人のレベルでは一定の実現可能性があるものの、米国の税制や世界的なデジタル・金融支配の構造によってその効果は大きく制約されている。GAFAMに象徴されるデジタル覇権とドル基軸体制、さらには衛星ネットワークの優位性により、富裕層が真に「米国から逃れる」ことは困難であり、結果として彼らはグローバルに活動範囲を分散させつつも米国への依存を維持するというパラドックスに直面している。
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