暗号資産市場において価格変動の激しさが大きな課題となる中、その解決策として「ステーブルコイン」と呼ばれる新たなデジタル通貨が登場した。本稿では、ステーブルコインと米国債との関係を、ヘーゲル哲学の弁証法的枠組み(正‐反‐合)を用いて考察する。まず、正(テーゼ)として、ステーブルコインがいかに暗号資産の価格変動を抑制し、安定的なデジタル通貨を目指して誕生したかを述べる。次に、反(アンチテーゼ)として、ステーブルコインが安定を実現するために依存する米国債という裏付け資産と、それに伴う中央集権化の問題、規制上のリスク、さらには信用構造上の逆説について論じる。最後に、合(ジンテーゼ)として、これらの矛盾が新たな動態を生み出し、金融システムと国家信用が融合するデジタルドル構想や中央銀行デジタル通貨(CBDC)への橋渡しとなっている現状を展望する。
正(テーゼ):安定したデジタル通貨への希求とステーブルコインの登場
ビットコインをはじめとする暗号資産は価値変動が激しく、通貨として日常的に利用するには不安定であるという課題があった。そこで、そのボラティリティ(価格変動)を抑制し、法定通貨と価値を連動させた安定的なデジタル通貨として生み出されたのがステーブルコインである。典型的なステーブルコインは米ドルなど法定通貨と1対1の比率で価値が連動するよう設計されており、発行体が同等額の資産を裏付け(担保)として保有することで価格の安定性を保証している。例えば現在主要なステーブルコインであるテザー(USDT)やUSDコイン(USDC)は、いずれも1USDT=1ドル、1USDC=1ドルとなるよう管理され、ユーザーは暗号資産市場にいながら実質的に「デジタルドル」を手にすることができる。ステーブルコインの登場によって、投機的な暗号資産の世界に法定通貨の安定性が持ち込まれ、取引所間の送金や決済、さらには分散型金融(DeFi)における基軸通貨としても広く活用されるようになった。安定したデジタル通貨への希求が、このようにステーブルコインというテーゼ(命題)を生み出したのである。
反(アンチテーゼ):米国債依存が生む中央集権化と信用構造の逆説
しかし、ステーブルコインの安定性は、裏付け資産としての法定通貨や国債に大きく依存している。特にドルに連動するステーブルコインの場合、その発行体は顧客から預かった資金を米ドル預金や米国債(短期国債など)といった安全資産で保有することで1ドルの価値を保証している。これは言い換えれば、暗号資産の世界で流通するデジタルドルの信用が、米国政府の発行する債券(米国債)の信用と流動性によって支えられているということである。テザー社やサークル社(USDCの発行主体)など主要ステーブルコイン発行体は、数十兆円規模にも及ぶ米国債等を準備資産として抱え、暗号資産圏における一大「米国債の間接保有者」となっている。安定を維持するために伝統的な金融資産へ依存する構造は、暗号資産が志向した分散・自律という理念と矛盾している。
加えて、この裏付け方式はステーブルコインの信用構造に逆説的な側面を生じさせている。本来、ブロックチェーン技術に基づく暗号資産は中央の信頼主体を必要としない分散型の通貨を目指していた。しかし、法定通貨担保型のステーブルコインでは、ユーザーは発行企業が十分な準備金を保有し適切に管理していることを信頼しなければならない。実際に発行体各社は定期的に準備資産の証明を公表し透明性向上に努めているものの、その運営は一部の企業に集中しており、暗号資産市場に再び中央集権的な管理者を生み出す結果となっている。また、発行体が特定のアドレスの資産を凍結するなど取引を制限することも技術的には可能であり、これは検閲耐性を重視する暗号資産の理念に反する。
さらに、ステーブルコインが事実上ドル建てのデジタルマネーであることから、各国の規制当局もこれを無視できなくなっている。マネーロンダリング防止や金融システム安定の観点から規制を強化しようとする動きが強まっており、無許可・非中央集権的な存在であったはずのステーブルコインが、公的管理や監督の対象として扱われつつある。このように、ステーブルコインの安定の裏には米国債をはじめとする従来型の信用メカニズムへの依存があり、それが暗号資産の理念との齟齬や新たなリスクを露呈させている。これがステーブルコインというテーゼに対するアンチテーゼ(反対命題)と言えよう。安定を得るために国家信用に頼れば頼るほど、暗号資産本来の分散性は損なわれ、システムは中央集権的かつ公的規制に脆弱なものとなってしまうという逆説がここに存在するのである。
合(ジンテーゼ):金融と国家信用の融合、新たなデジタルドルへの展望
ステーブルコインをめぐる正と反の対立は、新たな統合段階へと進みつつある。暗号資産と従来の法定通貨体制との間に生じた緊張関係は、逆に両者の融合を促す契機ともなった。まず、ステーブルコインそのものが金融と国家信用の融合した存在である。民間企業が発行するデジタルトークンでありながら、その価値は国家が発行する法定通貨(ドル)や国債によって裏付けられている。したがってステーブルコインは事実上、暗号空間における「国家信用の媒体」と位置付けられる。言い換えれば、ブロックチェーン上で展開するドル建てステーブルコインは、国家の信用力と暗号技術を結合させた実質的なデジタルドルとみなすことができる。こうした融合の結果、米ドルは暗号資産市場においても基軸通貨的な地位を維持・拡大しており、ステーブルコインの普及は結果としてドルの国際的な支配力を補強する側面すら持っている。
さらに、この動向は中央銀行デジタル通貨(CBDC)への橋渡しともなり得る。各国の金融当局は、ステーブルコインの台頭に触発される形で、自国通貨のデジタル版であるCBDCの検討を加速させてきた。民間が発行するステーブルコインが世界中で流通し支払い手段として利用される状況は、自国の通貨制度や金融政策に影響を及ぼしかねないためである。そのため、政府・中央銀行自らが信頼できるデジタル通貨基盤を提供すべく、CBDC開発に踏み出す国が増えている。一方で、米国では自国通貨ドルの覇権維持を図る戦略として、あえて中央銀行がCBDCを発行せず、民間ステーブルコインを規制の枠内に組み込み「デジタルドル」として機能させる構想も議論されている。いずれにせよ、ステーブルコインを通じて醸成されたデジタル通貨への需要とその技術基盤は、各国の通貨当局と金融システムに大きな変革を迫っていると言えよう。かつて対立するものと見られた分散型の暗号資産と中央集権的な国家通貨の領域は、ステーブルコインという媒体を通じて結合しつつある。新たな金融秩序の姿が模索されているのである。
結論
以上のように、ステーブルコインと米国債の関係は、正‐反‐合の三段階で捉えることができる。暗号資産の価格変動という問題に対する解決策(正)としてステーブルコインが生まれた。しかし、その安定を支えるために米国債や中央管理者への依存という逆説的な課題(反)に直面した。この矛盾を通じて金融と国家信用の融合が進み、デジタルドルやCBDCといった新たな統合(合)へと議論は進展している。ステーブルコインの興隆は、分散と集中、革新と伝統という対立を経て、新たな金融のあり方を模索するダイナミズムを示していると言えよう。
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