テーゼ: 対日輸出比率の低さからドル円は重視されなかった
トランプ政権(2017〜2021年)下では、米国の対日輸出が輸出全体に占める割合は数%程度と小さく、日本は米国にとって第4位前後の輸出市場にすぎませんでした。実際、カナダやメキシコ(隣国)はそれぞれ米国輸出の15〜20%前後を占め、中国も約8%を占めていたのに対し、日本向け輸出はおよそ4%程度にとどまりました。米国経済全体から見れば日本向け輸出のウェイトが低いため、ドルと円の為替レート変動が米国の輸出総額に与える影響は相対的に小さいと言えます。
このような状況下、トランプ政権の政策課題においてドル円相場は優先度が高くありませんでした。トランプ政権は就任当初から巨額の貿易赤字是正を最優先目標に掲げ、特に輸出額や赤字額が大きい相手国との交渉に力を注いでいます。具体的には、最大の貿易相手であるカナダ・メキシコとのNAFTA再交渉(USMCAへの改定)や、対中貿易摩擦への対処(関税措置を含む)に政策リソースの多くを割きました。それに比べれば日本との貿易問題は二次的とみなされ、為替(ドル円)問題に積極的に介入・言及する場面は限られていました。事実、トランプ政権期には中国人民元やユーロ圏の通貨政策が頻繁に議題に上った一方で、円相場が表立って米国政府のターゲットとなることは少なかったのです。
また、日本は米国にとって重要な同盟国であり、安全保障面で不可欠なパートナーです。トランプ政権は同盟国との関係維持にも配慮しており、中国やドイツなどに比べ公然と日本を非難する場面を控える傾向がありました。為替問題で日本を強く批判すれば日米関係が不必要に緊張しかねないため、政権としてもドル円レートを巡る対立は避ける方向にあったと考えられます。さらに、日本円の為替変動は主に市場要因や日本銀行の金融政策(デフレ対策の大規模緩和など)によるもので、米国政府が直接コントロールできる範囲ではありません。以上のような背景から、米国の対日輸出比率が小さいことも相まって、トランプ政権下の米国政府はドル円レートを他の主要通貨ほど重要視しなかったとするテーゼには一理あります。
アンチテーゼ: 米国がドル円を重視せざるを得ない理由
しかし一方で、米国がドル円を全く意識しなかったわけではなく、いくつかの理由から ドル円相場にも一定の関心を払っていた ことが窺えます。
まず、対日貿易赤字の存在 です。米国の対日輸出シェアは小さいものの、対日貿易収支は大幅な赤字が続いていました。2017〜2019年頃、米国は日本に対して毎年約600〜700億ドル(約7〜8兆円)もの財貨貿易赤字を抱えており、この規模は中国に次いで大きい部類でした。とりわけ自動車を中心に日本から米国への輸出が多く、円安は日本車の価格競争力を高め米国製造業に不利に働きます。そのため米国内の製造業・議会からは「日本の円安政策が不公正な貿易優位をもたらしているのではないか」という懸念が根強くあり、政権としても円相場の動向を無視できる状況ではありませんでした。
実際、トランプ大統領自身の発言 からもドル円への関心がうかがえます。就任直後の2017年初頭、トランプ大統領は公の場で「日本や中国は通貨を安く誘導して米国に不公平な貿易上の利益を得ている」と名指しで非難しました。日本に対して「何年も円を操作してきた」という趣旨の発言を行い、当時の菅官房長官が即座に「我が国は為替操作をしていない」と反論する一幕もあったほどです。このエピソードは、トランプ政権が当初から円安による日米貿易不均衡に注目し問題視していたことを示しています。表向き大きな摩擦には発展しなかったものの、政権内部でドル円を懸念材料として認識していたことは明らかです。
さらに、米財務省の為替報告書と監視リスト も重要です。米国財務省は半年ごとに主要貿易相手国の為替政策を分析した報告書を公表していますが、トランプ政権期を通じて日本は常に「為替モニタリングリスト(監視リスト)」対象国に含まれていました。監視リスト入りするのは対米貿易黒字や経常黒字が大きい国で、当時日本はその基準を満たしていたためです。リストに入れるということは、「日本の為替・金融政策を注意深く見ている」という米国政府からのシグナルでもあります。実際、日本銀行の大規模緩和による円安効果についても報告書内で言及されるなど、米当局は円相場を背景で監視し続けていました。これは、ドル円が米国の政策議題から完全に外れていたわけではない証拠と言えるでしょう。
また、日米貿易交渉における為替条項議論 も米国側の関心を示すものです。2018〜2019年の日米物品貿易交渉の際、米国は日本との協定に「為替条項」を盛り込むことを一時検討しました。為替条項とは、双方が自国通貨の競争的な切り下げを行わないことや為替の透明性を確保することを約束する取り決めです。トランプ政権は他の貿易協定(例えば新NAFTAであるUSMCA)でも為替条項を導入しており、日本にも同様の約束を求めようとしたのです。日本側は「日銀の金融緩和はあくまで国内景気・物価対策であり、貿易上の円安誘導ではない」と主張して為替条項に慎重姿勢を示し、最終的に2019年に結ばれた日米貿易の初期合意では明確な為替条項は盛り込まれませんでした。しかし米国がこうした条項を提案した事実自体、円安による貿易上の不公平を抑制したいという意図の表れであり、ドル円レートを意識した行動と言えます。
加えて、安全保障や国際金融上の背景 からもドル円は重視されていました。日本は東アジアにおける米国の最重要同盟国であり、その経済の安定は米国の戦略的利益にも直結します。極端な円高や円安で日本経済が打撃を受ければ地域の安定や米国経済にも悪影響が及ぶ可能性があるため、米国政府は同盟国日本の通貨について一定の安定を望んできました。事実、過去には2011年の東日本大震災直後に急激な円高が進行した際、日米欧が協調介入して円相場を安定させた例もあります。また日本は世界有数の米国債保有国でもあり、円ドル関係が大きく乱高下すれば国際金融市場や米国の金利動向にも影響しかねません。こうした安全保障・金融上の理由から、米国当局(財務省やFRB)にとってドル円レートは決して無視できない要素であり、常にバックグラウンドで関心を払う対象だったのです。
ジンテーゼ: 総合的な見解
以上のテーゼとアンチテーゼを踏まえ、トランプ政権期における米国のドル円レートに対する姿勢を総合的に評価します。結論として、トランプ政権はドル円レートを最重要視していたわけではありませんが、完全に無関心だったとも言えません。 対日輸出の比重が小さいため表面的な政策優先度は低く、人民元やメキシコペソなど他国通貨ほど政治問題化しなかったのは事実です。実際、中国人民元については2019年に為替操作国認定という強硬措置が取られましたが、日本に対して同様の制裁が科されることはありませんでしたし、日米首脳・閣僚レベルでドル円相場が対立点となる場面も限定的でした。これらは米国がドル円を他の懸案より前面には出さなかったことを示しています。
しかし一方で、米国は同盟国との経済関係や自国産業への影響を考慮し、水面下ではドル円動向を注視し続けていました。アンチテーゼで述べたように、米財務省の報告書や貿易交渉での為替条項提起などから、トランプ政権も円安による貿易上の不均衡是正に関心を持ち続けていたことが分かります。表立って圧力はかけないまでも、発言や外交交渉を通じて日本に過度な円安政策を慎むよう牽制するメッセージは発せられていました。日本側も日銀政策の説明や対米投資・輸入拡大を通じて、通貨問題が争点とならないよう配慮していたと考えられます。
総じて、トランプ政権期の米国にとってドル円レートは「他の主要通貨ほどの最優先課題ではないが、なお無視はできない重要事項」という微妙な位置づけでした。対日輸出の相対的な小ささゆえに表面的な優先度は低かったものの、米国は貿易赤字の縮小や国際ルール順守という観点から日本の為替動向をバックグラウンドで監視し、必要に応じて反応する姿勢を崩しませんでした。つまりトランプ政権は、対中・対NAFTA圏への対応に注力しつつも、日米同盟関係や国際金融の安定を損なわない範囲でドル円問題にも目配りを続けたのです。最終的にドル円レートは市場原理に委ねる形が維持され、大きな為替摩擦は表面化しませんでしたが、それは「対日輸出が小さいから放置した」という単純なものではなく、他の懸案とのバランスを取った外交・経済判断の結果だったと評価できるでしょう。
要約
- トランプ政権期(2017〜2021年)、米国の対日輸出は全輸出の約4%に過ぎず、このため米政府はドル円レートを対中人民元などに比べて重視しませんでした。
- しかし、対日貿易赤字は依然大きく、トランプ政権も円安による不公平を懸念して日本を為替監視リストに含めるなど、ドル円相場にも一定の関心を払っていました。また安全保障上、日本経済・円相場の安定は米国にとっても重要でした。
- 総合すると、トランプ政権はドル円レートを最優先課題とはしなかったものの、同盟関係や貿易上の公平性の観点から無視もしなかったと言えます。ドル円は他の懸案とのバランスを図りつつ注視され、結果として大きな摩擦なく推移しました。
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