武田勝頼の北条領攻撃の評価:弁証法的考察

正:攻撃は悪手だったという立場

武田勝頼は天正6年(1578年)の御館の乱で一度越後に出兵し、上杉景勝と和睦して帰還した。当時、甲斐・信濃には織田・徳川勢と合従していた西上武田の影響力が薄れ、勝頼は北条氏政との甲相同盟を事実上破棄した形になった。御館の乱後、北条氏政は織田信長・徳川家康と同盟して武田包囲網を固め、勝頼自身も越後勢(上杉氏)や常陸の佐竹氏との新たな同盟を模索した。こうした状況下、天正7年(1579年)以降、勝頼は北関東(上野国)へ進軍して北条領の侵攻を試みたが、これは結果的に武田領の戦線を拡大し、兵力・財政の分散を招く致命的な失策となった。 

第一に、この攻撃で武田氏は三方を敵に囲まれる状況に追い込まれたことが挙げられる。北条攻めに乗り出した時期、武田家は駿河・遠江を中心に地盤を回復しつつあったものの、北条氏は安宅船を擁する水軍を用い駿河沿岸で武田勢を撃退し、さらに徳川勢とも連携して東海道・伊豆方面で攻勢に出ていたja.wikipedia.orgrekishijin.com。勝頼は東国諸侯との同盟で北上野の制圧を進めたが、武田領の本拠地たる駿遠の国境防衛は手薄となり、駿河・遠江地方で次々に敗北を喫したrekishijin.comrekishijin.com。三方面に広がる戦線を維持するには兵力も経済力も不足し、内政・民政の疲弊や家臣団の不満を増大させた。結果として勝頼政権は長期戦に耐えられず、天正10年(1582年)の武田家滅亡へとつながっている。 

第二に、北条攻めは北条氏との同盟を破棄する結果となり、新たに敵対関係を作り出した。勝頼は御館の乱終結後、上杉景勝・佐竹義重との連携により「甲越同盟」を締結したが、これに激怒した北条氏政はすぐに武田氏との同盟を解消し、織田・徳川と結んで武田包囲網を再構築しているja.wikipedia.orgrekishijin.com。本来は盟友だった北条氏との関係が決定的に悪化し、武田氏は東・西・南から同時に襲撃を受ける形となった。特に駿河海域での武田水軍の敗北や伊豆方面での苦戦は、三方向からの挟撃を許したことを意味するja.wikipedia.orgrekishijin.com。これらの連携した挟撃により勝頼は武田領の守りを固められず、経済面でも大幅な軍事負担を強いられ、武田家の弱体化が加速した。 

さらに戦略的意図の観点から見ても、北条攻めは過大なリスクを伴うものであった。御館の乱直後の勝頼は、織田信長・徳川家康との和平を模索しつつ、北条氏への直接攻撃はなるべく避けたい立場であったが、北条氏政は武田の挙兵と撤退のあいだを見て怒り、武田包囲に動いたrekishijin.comrekishijin.com。しかし北条への攻撃を仕掛けた結果、武田は城を一気に広げるどころか包囲戦で息切れし、最終的には北条・徳川・織田という外敵の大軍の圧力に屈した。攻撃当初に一時的な領土の拡張や上杉氏との結びつきは得られたものの、維持困難な広大な戦線は勝頼の負担を限界まで高め、戦局の逆転を招いた失敗策となった。

反:必ずしも悪手ではないという立場

一方で、北条攻めにも一定の戦略的合理性を認める立場があり得る。第一に、勝頼が北条氏との関係を断たれた以上、待ちの姿勢ではなく先手必勝の発想で北条領に侵攻した可能性がある。北条氏政は織田・徳川と急接近し、武田を敵視していた状況だった。勝頼自身も先に攻め込まれる前に北条勢力を削ぎ、常陸の佐竹氏や上杉景勝との同盟による包囲網構築を有利に進めようとしたとも考えられる。実際、勝頼は佐竹義重と同盟し北上野を攻略、さらに景勝に妹菊姫を嫁がせるなど勢力拡大に努めているrekishijin.comrekishijin.com。このように、北条への攻撃は一種の「奇襲」や牽制と見做せる。強大な北条・徳川連合に対して、防御的に鈍行しているだけでは武田滅亡が早まるとの判断から、攻勢に転じたとも解釈できる。 

第二に、勝頼は御館の乱後も新たな勢力圏獲得を目指しており、北条攻めは領土拡大のチャンスでもあった。当時、勝頼は駿河・遠江支配の強化に加え、上杉氏の外交的支援を得て日本海への出口(西端の根知城・不動山城など)を確保しようとしていたrekishijin.com。北条領に手を伸ばすことで、北上野の南に位置する河越城などを落とし、東上野・武蔵方面の拠点確保や海運交易の利権獲得を狙ったとも考えられる。実際、佐竹氏の後詰めもあって上野国に優勢を広げつつあり、北条軍を後押しする塩田城の奪回(樺沢城攻略)など一定の成功も収めていたja.wikipedia.orgrekishijin.com。たとえ北条本国で大勝利を挙げられなくとも、これにより一時的に北条・徳川の攻勢を牽制できた側面もある。 

また、外交的視点から見ると、北条氏を敵に回したことには打算もあった。勝頼は結果的に天正7年に徳川家康と和睦し、翌年には織田信長とも同盟を結んでいるja.wikipedia.org。北条氏政との対立は、南進する徳川・織田と反目する北条を離反させる一因となり、結果として武田が3方に挟み撃ちされる状況を緩和したともいえる。つまり、北条氏との争いで直接的な被害を受けながらも、それをテコに他勢力との連携を図ったという戦略的意図もあったわけだ。このように考えれば、北条攻めは一種の「悪をもって善を成す」選択であり、完全に回避すべき「悪手」と断じるにはいささか事情が複雑である。

合:総合的評価

以上を総合すると、武田勝頼の北条攻めは短期的には理にかなった側面もあったものの、長期的には致命的な結果を招いたという評価が妥当である。勝頼が御館の乱後に北条領へ侵攻したのは、北条氏政の裏切り的行動への反撃であり、佐竹氏・上杉氏との提携によって拡大する複数の前線を意図的に圧迫する試みだった。実際、上野国では北条勢力を押し込み、北条に対する一時的優位を確立した。しかしその戦略は裏を返せば武田領を北条・徳川・織田に挟撃される地政学的な危険を顕在化させ、結果として甲斐・信濃の防衛がおろそかになった。不運にも勝頼は駿河・遠江で大敗し(安宅船の戦いや伊豆遠征の敗北)、領土と軍資金を大きく失った。加えて、北条との同盟破棄は武田包囲網を形成し、武田家が西・南・東の三方面からの圧力にさらされる状況を作り出した点は否めない。以上の点から、北条攻めは短期的な戦術勝利以上に、長期的には武田氏滅亡の遠因となった悪手だったと考えられる。 

ただし、勝頼の行動には当時の苦しい情勢から発せられた「止むを得ない判断」も認められる。周囲を敵に囲まれ、同盟関係も流動的な中で、戦いを避けているだけでは領国の存続すら危うい状況だった。勝頼自身も家臣団をまとめながら対応に苦慮しており、短期的な領土確保や後詰めの確保と並行して、徳川・織田との均衡策も模索していた。したがって、北条領への進攻は全体的には高リスク・高リターンのギャンブルであり、結果的に大損失を招いたが、当時の彼にとっては完全に非合理とは言い難い決断だったとも言える。

要約

  • 武田勝頼は御館の乱(1578年)後、北条氏政からの同盟破棄を受けて北条領への攻勢を開始したが、三方面からの挟み撃ちを招いて武田家を疲弊させた
  • 北条攻めは一時的に上野国で優勢をとったが、駿河・遠江で敗北が続き、経済・軍事の負担が増大した。
  • 結果的に武田氏は三方に敵を抱えて滅亡へと向かったことから、北条攻めは後世的には**戦略的誤算(悪手)**と評価できる。ただし、当時の困難な状況下では一定の合理性もあった点で、一概に善悪で結論づけられない複合的な判断であった。

引用

御館の乱 – Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1甲相駿三国同盟破棄後の攻防と武田氏滅亡 | 歴史人https://www.rekishijin.com/22924甲相駿三国同盟破棄後の攻防と武田氏滅亡 | 歴史人https://www.rekishijin.com/22924御館の乱 – Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1甲相駿三国同盟破棄後の攻防と武田氏滅亡 | 歴史人https://www.rekishijin.com/22924「御館の乱」で勝頼が犯した戦略ミスと領土再拡大 | 歴史人https://www.rekishijin.com/20328「御館の乱」で勝頼が犯した戦略ミスと領土再拡大 | 歴史人https://www.rekishijin.com/20328御館の乱 – Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1

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