ロシア革命と共産主義は、マルクス主義が採用した弁証法(弁証法的唯物論)に基づく歴史観の中で理解すると、その成立や発展の背後にある矛盾の働きが見えてくる。
弁証法的唯物論とは何か
マルクスとエンゲルスはヘーゲル哲学から「合理的な核」を取り出し、唯物論に結び付けた。スターリンはこの立場を「自然現象に対する研究方法としては弁証法、解釈は唯物論であり、社会の研究へと拡張したものが歴史的唯物論である」とまとめた。弁証法の基本原理は次のように整理される。
- すべての存在は相互に連関し、孤立して存在しない。したがって現象はその条件との関係で理解される。
- 自然と社会は静止ではなく絶えず運動・変化している。量的変化の蓄積が質的飛躍を生み、発展は円環ではなく螺旋のように進む。
- あらゆる事物には内在的な矛盾があり、古いものと新しいものの対立・葛藤が発展の内的内容を構成する。レーニンは「発展とは対立物の闘争である」と述べた。
- レーニンは弁証法の発展原理をさらにまとめ、「過去の段階を高いレベルで繰り返す発展」「螺旋的発展」「飛躍と革命」「量から質への転化」「矛盾による内的衝動」「あらゆる側面の相互連関」を挙げている。
このような考え方は、歴史や社会を固定的な制度ではなく、相互に関わる矛盾と変化の過程とみなす点で特徴的である。
ロシア革命の背景:矛盾の累積
第一次世界大戦前のロシアは、貴族支配と農奴制に依存する後進的な帝国であり、貧困と社会的不平等が蔓延していた。1917年にはわずか数か月の間に二つの革命が起こり、何世紀にもわたる皇帝支配が終わった。しかしその遠因は長く蓄積していた。帝国の農村には巨大な農民人口があり、都市では近代化に伴う貧しい工業労働者が増加していた。産業革命の遅れと都市人口の急増は過密な労働・生活条件をもたらし、冷涼な気候と度重なる戦争による食糧不足も不満を募らせた。1904〜1905年の日露戦争の敗北や食糧危機は、皇帝ニコライ2世の権威を失墜させ、「血の日曜日」事件に代表される1905年革命を引き起こした。これは大規模なストライキや労兵ソヴィエトの結成を伴い、後の革命の「総稽古」と呼ばれる。
第一次世界大戦に参戦したロシアは軍事的にも経済的にも惨敗し、都市や前線での兵士・市民の苦難が頂点に達した。こうして1917年2月(旧暦)には首都ペトログラードでパンを求める労働者のデモが起こり、兵士も加わって皇帝を退位に追い込んだ。一時的に自由主義的な臨時政府が権力を握ったが、土地問題や戦争継続の是非を巡る矛盾は解決されなかった。
革命の飛躍と質的転化
弁証法的な視点では、上述の社会的・経済的矛盾の累積が量的変化として蓄えられ、1917年10月の十月革命という質的飛躍を生んだと理解できる。スターリンの説明では、発展は量的変化が「自然な結果として」質的飛躍をもたらすとされる。2月革命で形成された臨時政府(自由主義勢力)は農民の土地要求や即時停戦という民衆の要求に応えられず、ペトログラードやモスクワでは労兵ソヴィエトが「すべての権力をソヴィエトへ」と要求した。この二重権力状態はまさに矛盾が激化する段階であり、10月革命という飛躍が臨時政府の権力を否定した。
レーニンは帝国主義を資本主義の「最高の段階」と規定し、ロシアのような資本主義の「弱い環」で革命が起こる可能性を強調した。彼の「少数の前衛党が労働者階級を指導して社会主義へ導く」という前衛理論は、矛盾が必ずしも発達した資本主義国だけでなく、後進国でも革命に至り得ると主張した。この理論のもとでボリシェヴィキは権力奪取に成功し、1918年には「社会主義共和国連邦」、1922年にはソ連邦を樹立した。
共産主義の理念と現実
共産主義はリベラル民主主義や資本主義に対抗する経済・政治思想であり、階級のない社会と共同所有を目指す。『共産党宣言』は資本主義におけるブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争を歴史の推進力として描き、労働者階級による世界的な革命を不可避とした。しかしマルクスとエンゲルスにとって共産主義は単なる理想図ではなく、「現存する事態を廃絶する実際の運動」であり、その条件は現実の前提に基づいている。この点に弁証法的な歴史観が表れている。
ロシア革命後のソヴィエト政府は、内戦や外国干渉に対処しながらも、土地の国有化、工場の労働者管理、1928年以降の五カ年計画と農業集団化などを通じて経済を社会主義的に再編した。ただし、急速な工業化と計画経済のもとで労働者の自主性は失われ、党官僚制が肥大化した。スターリン時代には大粛清や強制収容所が広がり、社会主義的理想と現実の間の矛盾が一層深まった。
弁証法の観点からは、こうした矛盾も歴史過程の一部である。スターリン自身が指摘したように、社会制度の価値はその時代と条件によって変化し、一つの社会の内部にも古いものと新しいものの対立が共存する。ソ連の急速な工業化は農業や消費財部門の犠牲の上に成り立ち、社会主義の理想と官僚的統制の矛盾を生んだ。こうした矛盾が解決されないまま蓄積され、最終的に1991年のソ連崩壊という別の質的転化につながったと理解できる。
結論
弁証法的唯物論に基づけば、ロシア革命と共産主義は静的な「完成された状態」ではなく、歴史的条件の中で矛盾が蓄積し、質的転化を経て新しい矛盾を生み出す動的な過程である。ロシア帝国における貧困、戦争、政治的抑圧は量的に蓄積され、1905年の「予行演習」を経て1917年の革命という飛躍に結び付いた。革命は皇帝制を否定し、ボリシェヴィキの指導のもとで社会主義建設が始まったが、その過程でも新たな矛盾が生じ、ソ連国家は官僚制と自由の欠如に陥った。
マルクスが述べたように、共産主義は現実の条件から生まれる運動であり、いかなる制度も特定の歴史的条件下でのみ進歩的な役割を果たす。ロシア革命と共産主義の歴史は、弁証法的な矛盾と変化の論理を具体的に示しており、その教訓は現在の社会変革を考える上でも示唆に富んでいる。
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