はじめに
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』で「各人の自由な展開が万人の自由な展開の条件である」社会を展望しました。その後の経済学的探究では、生産力の発展によって労働時間を短縮し、人間が自由に処分できる時間こそが真の富であると喝破しました。この自由時間は、賃労働や階級支配から解放された社会において、人々が自己の能力を全面的に発展させる基盤になります。一方、新自由主義は民営化や規制緩和、労働市場の柔軟化を通じて資本の自由を拡大し、労働者に長時間労働と不安定な雇用を強いてきました。本稿では、マルクス・エンゲルスの自由時間論を出発点に、新自由主義下の労働と自由時間の矛盾を弁証法的に検討し、自由時間を真の富とする社会への展望を論じます。
1 マルクス・エンゲルスによる自由時間の理論
1.1 自由時間こそ「真の富」
『経済学批判要綱(グルントリッセ)』では、生産力が高度に発展した社会では富の尺度は労働時間ではなく可処分時間であると述べられています。必要労働が減少し、各人が自由に使える時間が増えるほど、人間の発展に資する富は大きくなります。資本主義における「富」は他人の余剰労働時間の強奪によって成立しますが、大工業の発展は労働を機械化し、人間を労働過程の監督者に変えます。このため、労働時間を富の尺度とする価値法則と、生産力の発展によって労働時間を縮減する傾向との間に矛盾が生じるのです。この矛盾から、真の富は労働に必要な時間ではなく、それを超えて自由に処分できる時間であると結論づけられます。
1.2 必然の王国と自由の王国
『資本論』第3巻では、人間の歴史が「必然の王国」と「自由の王国」に分けられます。必然の王国とは生命維持のために必要な物質的生産の領域です。ここでは社会化された人々が自然との物質代謝を合理的に調整し、必要労働を最小限に抑えることが求められます。これを基礎として初めて、芸術・学問・社交といった自由の王国が花開きます。自由の王国は自己目的としての人間的活動の領域であり、真の自由は必然的労働から解放された余暇の中にこそ存在します。この自由の王国を拡大するための前提が労働日の短縮であり、これこそが自由時間が真の富であるとされる理由です。
1.3 6時間労働の理想
19世紀末の経済学者や社会改革者の議論を踏まえ、マルクスは当時12時間かかっていた必要労働を6時間にまで短縮できると論じました。6時間の労働で必要な生産が満たされれば、残り6時間は直接的な生産労働に吸収されない自由な時間となり、享楽や教育、芸術など自己の発展に充てられます。この自由時間こそが真の富であり、人々が自由に利用できる時間を持つという理想は、社会主義的協同組合運動や労働時間法制への要求として現れました。しかし21世紀の今日でも、多くの国で1日8時間労働が標準であり、残業や二重労働によって自由時間が侵食されています。マルクスが展望した自由時間拡大の理想は未完の課題です。
2 新自由主義と自由時間の矛盾
2.1 新自由主義の政策と労働市場
新自由主義は1970年代以降に台頭した政治・経済思想であり、自由市場の重視を特徴とします。民営化、規制緩和、金融の自由化、労働市場の柔軟化、公共支出の削減といった政策が推進され、国家が経済に介入する範囲を縮小し、私企業の役割を拡大しました。労働市場では企業が雇用を自由に調整できるよう労働規制が緩和され、非正規化やアウトソーシングが拡大しました。その結果、労働者は雇用の安定を失い、労働時間や収入が不安定な働き方が広がりました。
2.2 労働時間の延長と柔軟化
新自由主義下では生産性向上と競争力強化を名目に労働時間の柔軟化が進められました。かつて失業防止策として議論された短時間労働は議題から消え、政府と企業は長時間労働と退職年齢の延長を推進しました。OECD諸国では1970~2000年代に年間労働時間の減少傾向が停滞し、多くの国で労働時間が横ばいあるいは再増加しました。労働市場の規制緩和は、集団的労働時間規制を弱体化させ、残業規制の緩和や個別労働契約による労働時間の個別化、「オプトアウト」制度の導入をもたらしました。その結果、一部の労働者は週40時間超の長時間労働を強いられる一方で、短時間労働者や非就業者の増加も進み、労働時間が二極化しました。
2.3 ゼロ時間契約と自己責任の転嫁
英国などでは雇用契約に最低労働時間を定めないゼロ時間契約が急増し、若年層や女性を中心に不安定な働き方が広がりました。ゼロ時間契約は労働者に労働の待機義務を課しながら、企業に仕事を提供する義務を負わせないため、実質的に不安定な労働状態に縛り付けます。新自由主義は政治的自由と市場の自由を同一視し、「労働市場の自由化」こそが労働者の選択肢を広げると主張します。しかし実際には、規制緩和と民営化が労働者を自営業者やギグワーカーとして個別化し、社会保障や労働保護の外側へ追いやっています。労働者の自己責任意識が強調され、個々の時間管理能力が市場価値を生むものとして評価される一方で、その実態は企業がリスクを労働者に転嫁する形です。
2.4 労働時間と社会的不平等
新自由主義は市場競争と効率性を名目に所得格差を拡大させました。経済的不平等が進行すると、高所得層は豊富な資源を背景に働く時間を減らし、余暇を享受できます。一方、低所得層は生活費を確保するために複数の仕事を掛け持ちせざるを得ません。こうした格差は自由時間の分配にも反映され、自由時間が資本と富裕層に集中し、労働者階級は自由時間を奪われます。新自由主義が掲げる自由は市場に参加する自由であり、必要労働からの解放という意味での自由とは異質です。
3 自由時間をめぐる弁証法的分析
3.1 資本主義の内在的矛盾
マルクスは、資本主義の発展に伴って労働時間が削減される傾向と、削減された時間が資本によって余剰労働として搾取される傾向との矛盾を指摘しました。大工業の発展は生産力を飛躍的に高め、必要労働時間を短縮します。しかし資本は、労働者の可処分時間を利潤追求のために包摂し、残業や二重雇用、ギグワークなどによって再び労働時間として回収します。この矛盾は、新自由主義の下で労働時間の柔軟化や自己責任の強調によってさらに深化します。生産力の進歩が人々の自由時間を拡張する可能性を持ちながら、それが資本の利潤追求によって阻害される構造がここにあります。
3.2 自由時間の解放と再包摂
労働時間の短縮が社会的に実現すると、自由時間が拡大し、人間は自分自身の発展のための時間を持つことができます。しかし資本主義はこの自由時間を商品化し、文化産業や娯楽産業が余暇を資本の蓄積手段に変えてしまいます。また、SNSやプラットフォーム経済によるプロシューマー型の時間消費は、余暇さえも労働に転化させています。自由時間は解放されつつも再び資本に包摂されるのです。弁証法的には、自由時間の解放と再包摂の反復は資本主義の矛盾を深め、自由時間を資本による支配から解放するための質的転換の必要性を明らかにします。
3.3 新自由主義との比較
新自由主義は労働の柔軟化と雇用の不安定化を推進し、労働者の自由時間を細分化・断片化しました。労働者は自らの時間を自由に管理しているように見えますが、実際には24時間市場と常時接続のデジタル環境の中で常に仕事を待機しなければなりません。これに対し、マルクス・エンゲルスの自由時間論は、必要労働を合理化して社会全体の可処分時間を増やし、その時間を個々人の創造的活動や教育、政治参加に振り向けることを目指します。新自由主義的な「自由」は市場の選択肢の自由であり、商品と労働力の自由な移動を保証しますが、人間の潜在能力を発展させる自由時間の拡大には必ずしもつながりません。むしろ新自由主義は自由時間を商品化し、労働時間の境界を曖昧にすることで人々の時間を市場に取り込んでいるのです。
3.4 歴史的段階としての止揚
弁証法では矛盾が発展の原動力となり、対立する要素の総合によってより高次の段階が生まれます。自由時間をめぐる矛盾においても、資本主義の発展は生産力の高度化を通じて自由時間の拡大を可能にし、同時にその自由時間を資本の利潤源へと包摂します。この矛盾が深まるなかで、労働者は短時間労働、最低所得保障、労働市場規制の強化、協同組合や労働者管理による生産など、自由時間を取り戻すための闘争を展開しています。この闘争は新自由主義的な規制緩和を止揚し、労働時間の短縮と社会的余暇の保障を軸にした新しい社会的契約へと昇華する可能性を持っています。マルクスが示したように、自由時間を真の富として社会全体で共有することが、人間の全面的な発展を実現する鍵なのです。
4 結論と展望
マルクスとエンゲルスは、生産力の発展によって必要労働時間を短縮し、人々の自由に使える時間を拡大することが自由社会の条件であると唱えました。自由時間は単なる余暇ではなく、自己形成・創造・社会参加の時間であり、真の富です。一方、新自由主義は市場原理に基づく民営化や規制緩和によって労働を不安定化し、労働時間を延長・分散させることで自由時間を資本の支配下に置きました。自由時間の解放を目指すには、労働時間短縮や安定した雇用の確保、社会保障の充実といった政策を通じて自由時間を社会的に保障し、市場から独立した文化・教育・政治の領域を拡充することが求められます。
参考にした主要出典
- マルクスは『グルントリッセ』で、富の尺度は労働時間ではなく可処分時間であると述べ、必要労働時間が短縮されるほど自由時間が増えると論じた。
- 『資本論』第3巻では、労働による必然の王国と余暇による自由の王国を区別し、労働日の短縮が自由の王国の前提となると説明している。
コメント