トリフィンのジレンマとは何か
1950年代にベルギー出身の経済学者ロバート・トリフィンは、基軸通貨国が抱える矛盾を指摘しました。世界の基軸通貨を供給する国は世界の貿易と資本の決済に十分な自国通貨を供給しなければなりませんが、その供給は国際収支赤字(特に財貿易赤字)を通じて行われます。赤字の累積は基軸通貨への信認を損ない、通貨価値の下落や資本流出を招きます。この「供給の必要性」と「信認の維持」という二つの要求が相矛盾する現象はトリフィンのジレンマと呼ばれます。第二次世界大戦後、米国はブレトン・ウッズ体制下で基軸通貨ドルを供給し続け、1971年に金兌換を停止すると、ドル需要は石油取引をドル建てとするペトロダラー体制によって支えられました。米国は1985年には債務国へ転落し、モノの貿易赤字は現在約1兆ドル規模に達しています。この構造的赤字がトリフィンのジレンマの現代版です。米国が世界へドルを供給し続けるほど国内経済は外部への資金流出と債務増大にさらされ、通貨価値への不安が高まるというジレンマが続いています。
現在のドル信認の低下
- 財政赤字と債務膨張
コロナ危機以降の財政出動で米国政府債務は急増し、2020年代半ばに対GDP比で100%を超える水準が続いています。巨額の財政赤字は米国債の供給を増やし、金利上昇圧力と信用力低下への懸念を生んでいます。2023年には格付け会社が米国債格付けを引き下げ、債務上限問題や財政の持続可能性に対する懸念が表面化しました。これはドルへの信認にも影響を与え、各国の準備通貨構成に変化を促しています。 - 国際関係と制裁の武器化
米国が金融制裁を多用することで、対象国や新興国は米ドルへの過度な依存のリスクを意識するようになりました。外貨準備の凍結などをきっかけに、制裁リスクの低い資産への分散が加速しました。世界各国の中央銀行は保有外貨準備の通貨構成を見直し、金など価値の保存手段へのシフトを進めています。
金価格高騰とドル離れ
- 中央銀行の金購入の急増
2020年代に入ってから中央銀行による金購入は歴史的水準に達しました。2024年の金価格は1年で約25%上昇し、ロンドン貴金属市場協会の価格は40回以上史上最高値を更新し、2025年3月には1オンス当たり3,000ドルを突破しました。金価格上昇の主要因として根強いインフレと金融政策の転換が指摘され、中央銀行による金需要が急増しています。世界中の中央銀行の81%が価値保存や危機ヘッジのため金準備の増加を予想しており、2024年には金購入量が3年連続で1,000トンを超え、ポーランドやトルコ、中国、インドが主要な買い手でした。Tempo紙の2025年3月の記事では、世界の中央銀行は2023年に1,037トンの金を購入し、これは2022年の過去最高に次ぐ規模であると報じています。中国人民銀行は2023年に155トンの金を買い増し、ポーランドとシンガポールがそれに続きました。さらに、2024年の中央銀行調査では、70行のうち29%が今後1年以内に金準備を増やすと回答しており、米ドル依存の低減が目的とされています。地政学的不安や景気回復の不均一さにより、中央銀行は相関の低い資産を求め、金が安全資産として再評価されました。2024年11月も中央銀行はネットで53トンの金を購入し、特にポーランドやインド、中国など新興国の銀行が積極的でした。 - ドル資産からの分散
2025年10月の記事では、外国中央銀行の金準備が米国債保有額を1996年以来初めて上回ったと報じられました。中央銀行は強力な金買いと米国の負債リスクを背景に、準備資産の構成をハードアセットへとシフトさせており、この転換はドル建て証券からの分散を象徴する出来事とされています。2022年に公式部門が1,136トンの金を購入し、2023〜24年も強い積み増しが続いたこと、IMFのデータでは2024年に金の世界準備資産に占める割合が18%に上昇したことが挙げられ、主要な買い手は中国・ロシア・トルコでした。中央銀行が金準備を米国債より多く保有することになったのは1996年以来初めてであり、この交差はドル離れとハードアセット志向の流れを示しています。金価格が急伸した背景には通貨の弱体化もあり、米ドルと金価格は逆相関関係にあるためドル安が金需要を押し上げました。FRBの利下げの兆候やドル軟化期待が金を支え、ポンドやユーロでも金価格が過去最高を更新しました。
弁証法による分析
弁証法では、相反する力の対立とその統合による発展を重視します。トリフィンのジレンマは、基軸通貨国の国内安定と国際流動性供給という「矛盾する要求」が同時に存在するところに現れます。現在、ドルの信認低下と金高騰という現象は、この矛盾が新しい局面に入っていることを示しています。
- テーゼ(命題): ドルは依然として基軸通貨
国際決済の優位性 – ドルは国際貿易・金融の大部分で使われ続け、深い債券市場と流動性、高い透明性を誇ります。多くの国はドル建て資産を保有し、経常赤字を抱える米国も世界の需要に応えるためにドルを供給し続けなければなりません。
ペトロダラー・ハイブリッドシステム – オイルや主要コモディティがドル建てで取引されるため、原油決済通貨としての役割が残っています。ドルが基軸通貨である限り、米国債は安全資産と見なされます。 - アンチテーゼ(反命題): ドル信認の低下と金へのシフト
累積赤字と信用力低下 – 米国の財政赤字や貿易赤字が累積し、トリフィンのジレンマが深刻化しています。基軸通貨であり続けるためには赤字を続けざるを得ませんが、巨額の債務は投資家や各国の懸念を高めます。
制裁リスクと地政学的不安 – 米国が制裁を武器化することで、対象国や新興国はドル資産の凍結リスクを認識し、資産分散を図るようになりました。中央銀行が米ドル依存を下げるために金購入を進めていることが示されています。
中央銀行の行動 – 世界の中央銀行は過去3年連続で年間1,000トンを超える金を購入し、2023年には1,037トンと歴史的規模に達しました。中央銀行の金準備が米国債を上回ったことは、ドル建て資産からハードアセットへのシフトを象徴しています。金の世界準備比率は2024年に18%に上昇しました。
金価格の高騰 – 金はインフレ・通貨不安・地政学リスクに対する伝統的なヘッジとされ、2024年に金価格が約25%上昇し、2025年には史上初めて1オンス3,000ドルを突破しました。中央銀行の金需要の急増が価格を押し上げています。 - ジンテーゼ(総合): 多極的通貨体制への移行
トリフィンのジレンマの矛盾は、単一基軸通貨体制では解消できません。ドルは依然として重要な基軸通貨ですが、その信用力への疑念は高まっています。中央銀行がドル依存から多様化を進めることで、今後は以下のような可能性があります。- 多極的な準備通貨構成 – 各国は米ドルの比率を徐々に下げ、ユーロや人民元、円、IMF特別引出権(SDR)などを組み合わせる可能性があります。金は無国籍資産として準備に組み込まれ、通貨バスケットにおける役割を強めます。
- 新しい国際金融制度の模索 – トリフィンが提唱したバンコールのように、世界共通の準備資産やデジタル通貨の活用が議論されるかもしれません。ただし制度変更には政治的合意が不可欠であり、ドル体制の急激な崩壊は各国にとってもコストが高いでしょう。
- 米国の政策調整 – 米国は財政の持続可能性を高め、インフレ抑制と信用力回復を図る必要があります。国内経済と国際通貨供給の矛盾を緩和するには、貿易赤字縮小や多国間の協調が求められます。
最後に
トリフィンのジレンマは1960年代に提起されましたが、現在も形を変えて続いています。米国は世界へドル流動性を供給し続ける一方で、巨額の貿易赤字と財政赤字が通貨の信頼を蝕んでいます。中央銀行は制裁リスクや金融不安から米ドルへの依存を見直し、金を史上最大規模で購入しています。報道では2024〜25年に金価格が史上最高値を更新し、中央銀行の81%が金準備を拡大すると答えています。Tempoや世界金協会の報告も、中央銀行がドル離れを進めている事実を裏付けます。外国中央銀行の金準備が米国債保有を上回ったことは1996年以来初めてであり、ドル支配体制が徐々に揺らいでいることが示されています。こうした趨勢の中で、トリフィンのジレンマは弁証法的に新たな段階に入ったと解釈できます。ドルの役割を維持するには世界へ流動性を供給し続けなければなりませんが、その結果として債務膨張や信認低下が起こり、各国は金や他通貨への分散を進めています。矛盾の激化は、新しい多極的通貨体制や国際金融システム改革を促す契機となるでしょう。しかし、ドルの圧倒的なネットワーク効果は短期的には存続し、金高騰とドル信用低下という対立はしばらく続くと考えられます。

コメント