序論
BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)に、エジプトやサウジアラビア、イランなどを加えた拡大BRICSは、人口で世界の約45%、購買力ベースGDPでは36〜45%を占める新興大国の集合体である。西側が主導するSWIFTネットワークや米ドル決済への依存を減らすため、参加国は独自の送金インフラとして「BRICS Pay」構想や国際送金メッセージング・システムの整備を進めている。これはCIPS(中国のクロスボーダー銀行間決済システム)、SPFS(ロシアの金融メッセージ送信システム)、UPI(インドのユニファイド・ペイメント・インタフェース)、**Pix(ブラジルの即時決済)**といった既存プラットフォームを連結し、域内でリアルタイムかつ低コストの送金を実現することを目指すもので、将来的には各国中央銀行デジタル通貨(CBDC)の相互運用も視野に入れている。しかし実際の進捗は決して単純ではない。本稿では弁証法的手法を用いて、BRICS決済システムの「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」「合(ジンテーゼ)」を整理し、その現状と展望を考察する。
正(テーゼ):新興国主体による金融主権と多極化の推進
- 米ドル依存のリスク回避 — 2022年のウクライナ侵攻後に西側がロシアをSWIFTから排除したことは、ドル支配体制の政治的リスクを世界に認識させた。制裁を回避したいロシアやイランだけでなく、中国やブラジルなども自国通貨建て取引の比率を増やし、独自システムを模索するきっかけとなった。
- 既存インフラの組み合わせによる技術的裏付け — CIPS、SPFS、UPI、Pixなど各国の決済ネットワークはすでに大量の国内取引を処理する能力を持ち、24時間稼働や即時清算を実現している。これらを相互接続し、ブロックチェーン技術や分散台帳技術(DLT)で暗号化・検証すれば、SWIFTに匹敵するスケールで毎秒数万件のメッセージを処理できると期待されている。
- 実利としてのローカル通貨決済の拡大 — エネルギーや農産物などの取引で自国通貨を用いる動きは着実に進み、2024年にはロシアと中国の貿易額2450億ドルの大半がルーブルや人民元で決済された。ブラジルと中国の通貨スワップやインドとUAEのルピー建て決済も拡大しており、BRICS域内貿易の8〜9割がドル以外で処理されつつある。国際通貨基金(IMF)が公表する外貨準備に占めるドルの比率も減少傾向にある。
- 中長期的な金融アーキテクチャの独立 — BRICSは将来的な共通通貨発行も議論しているが、目下の優先課題は自国決済システムの相互接続である。オープンソースかつ手数料無料のメッセージング・プロトコルを採用し、各国が独自にノードを運用する計画であり、米国の金融制裁から自らを守る「自律的なネットワーク」を目指している。
反(アンチテーゼ):技術・政治・経済面の難題
- 統一プラットフォームの不在 — 2024年にモスクワでBRICS Payのプロトタイプが披露されたものの、参加国をつなぐ完全な送金網はまだ存在しない。SPFSと他国システムの接続は部分的にしか実現しておらず、メッセージ規格やサイバーセキュリティの標準化が遅れている。
- 経済規模と政策の乖離 — BRICS加盟国のGDPは中国の18兆ドルからエチオピアの1千億ドルまで幅があり、インフレ率や資本移動規制も大きく異なる。統一決済システムを運営するには、共通の資本市場や預金保険制度、金融監督枠組みが必要だが、現状では各国が主権を手放す気配はない。特にインドやブラジルは独自の通貨政策と外資依存の投資環境を重視しており、一国主導のプラットフォームに慎重である。
- 政治的な駆け引きと対外圧力 — 米国はBRICSによるドル離れを警戒し、2025年7月には加盟国が共通通貨を採用した場合に100%の追加関税を課すと警告した。トランプ政権はBRICS Payの開発を「反米政策」とみなしており、米国市場への依存が大きい南アフリカやブラジルにとってはリスクとなる。また、加盟国拡大に伴い利害が錯綜し、中国・ロシア主導への反発やインドの独自路線が顕在化している。
- 技術的障壁と規制のばらつき — ブロックチェーンやCBDCの導入には各国の規制整備が不可欠だが、資本規制やマネーロンダリング対策のレベルが異なるため共通ルール策定が難しい。デジタル人民元やデジタルルーブルは進んでいるが、多くの国ではCBDCが試験段階であり、国際相互運用に必要なAPIや認証基盤が整っていない。
合(ジンテーゼ):現実的な方向性と今後の展望
弁証法的観点から見ると、BRICS決済システムは「西側中心の金融秩序からの自立」という正の動機と、「加盟国間の統合の難しさ」という反の制約の間で揺れ動いている。この矛盾を克服するために、以下のような「合」が浮かび上がる。
- 段階的な連携の深化 — 一足飛びに共通決済網や統一通貨を実現するのではなく、既存のSPFS・CIPS・UPI・Pix間に二国間または地域的な接続を増やし、貿易決済の一部をローカル通貨で行うことから始める。例えば、ブラジルとインドが相互にPix/UPIの接続を試行する、ロシアと中国がエネルギー取引の決済を全面的に人民元・ルーブルに切り替えるなど、実務的な成果を積み重ねる必要がある。
- 共通会計単位やデジタルバスケット案 — 欧州のECUやIMFのSDRのように、加盟国通貨のバスケットに基づく決済単位を作成し、各国が自国通貨を裏付けとして利用する方式が議論されている。2028〜2030年には、完全な共通通貨ではなく貿易決済向けのユニットが導入される可能性がある。これにより参加国の主権を残しつつ相互決済を円滑化できる。
- 技術革新による飛び地解決 — オープンソースのブロックチェーンやスマートコントラクトを採用し、参加国がノードを運営する形であれば、技術標準化と分散ガバナンスの両立が可能になる。ブラジルのPixやインドのUPIのノウハウを共有し、規格を非営利団体として運営することで信頼性を高められる。
- 政治的コンセンサスの醸成と多極化 — BRICS首脳会議では、ドルに対抗するのではなく多極的な金融環境を目指すことを強調している。インドが2026年の次回サミットで議長国となり、ローカル通貨貿易を強調する見通しである。米国との対立を過度に煽らず、グローバル・サウス各国の参加を促すために、BRICSは柔軟な参加階層(パートナー国やオブザーバー)を設けている。これにより集団内部の多様性と政治的安定を両立させる狙いがある。
結論と要約
BRICS決済システムの構築は、米ドル支配への対抗と新興国の金融主権確立を目指す重要な試みである。各国は自国通貨決済の比率を高め、既存の決済インフラを基盤に相互接続を進めている。しかし、経済規模の違いや金融政策の不一致、対米関係の影響、技術・規制面のギャップなど多くの障壁が存在し、完全な統合は一朝一夕には実現しない。弁証法的に見ると、単純な「脱ドル化」か「絵に描いた餅」かという二元論ではなく、段階的な協力と部分的な成功を積み重ねる現実的な路線が合となる。2020年代後半には、バスケット通貨を用いた共通会計単位や試験的なBRICS Payの導入が期待され、2030年ごろまでに広域的な相互決済網が整備される可能性がある。

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