日本の朝廷が政治から遠ざかった時期と理由


はじめに

日本史における「朝廷」とは、天皇とその官僚機構(太政官など)から成る中央政府を指し、奈良時代の大宝律令で制度化されて以来、祭祀と政務を司る存在でした。しかし、朝廷は一枚岩ではなく、貴族社会の権力闘争や経済的な変化に影響を受け、政治的役割は時代ごとに大きく変化しました。弁証法的な視点(正‐反‐合)から見ると、朝廷の政治関与は「中央集権的な律令国家の確立(正)」と「地方分権化と武士階級の台頭(反)」の対立の中で揺れ動き、やがて新しい秩序へと変化します。

古代~平安期:朝廷と摂関・院政

律令国家の成立と摂関政治

大宝律令(701年)により朝廷は中国風の中央集権的制度を整え、官僚が政治を掌握しました。平安時代初期には藤原氏が娘を皇室に嫁がせて外戚となり、摂政・関白として幼少の天皇を補佐することで実権を握ります。五ableによる歴史ノートでは、藤原氏が皇位継承を操作し、朝廷内の高位を独占することで権力を集中させたと説明されています。

摂関政治は内外の矛盾を抱えていました。内的要因として、藤原氏は婚姻政策に頼りすぎ、軍事力や地方統治力を欠いていました。また、貴族社会の儀礼や文学に傾き、人材の枯渇と政治的無力化が進みました。経済的要因として、貴族や寺社に寄進された免税の私有荘園が増え、公領からの税収が激減しました。外的要因として、荘園の管理を任された地方豪族が武装集団を養い、武士団へと発展し、地方政治に影響力を持つようになりました。保元・平治の乱(1156・1159年)で中央貴族の軍事的脆弱さが露呈したことが、朝廷の基盤を揺るがしました。

院政(インセイ)とその矛盾

11世紀後半から、一部の天皇は政務から退き、出家後に院政を敷いて上皇が幕後から政治を主導しました。世界史エンサイクロペディアによると、院政は藤原家の外圧を避けるために採用され、上皇が自らの側近組織(院庁)を作ることで一時的に権力を回復しましたが、地方の統制力が弱まり、荘園が乱立した結果、政治的対立が激化しました。院政下では地方税収が減り、武士が台頭したため、朝廷は経済的に衰退しました。

鎌倉幕府の成立:武家政権への権力移行

政権交代の時期

平氏政権の後、源頼朝が1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、1192年に征夷大将軍として鎌倉幕府を開いたことが、朝廷が政治権力を失った重要な転換点です。世界史エンサイクロペディアによれば、鎌倉時代(1185–1333)は「武士による政権が天皇・朝廷の権力に対する初めての代替体制」であり、将軍が実質的な支配者となりました。この構造は鎌倉・室町・徳川の各幕府に受け継がれ、日本では約700年間にわたり武家政権が実質的に政治を担いました。

武士政権が成立した理由

  • 軍事の民営化 – アジア研究協会の論文によると、奈良末期から平安期にかけて朝廷が徴兵制を廃止し民間の武装勢力に依存した結果、武士が専門職として出現しました。朝廷は792年に国軍を縮小し、私兵を動員する制度へ移行したため、職業軍人が勢力を伸ばしました。
  • 私人による軍事市場 – 同論文は、貴族や上皇らが家産荘園を守るために武士を雇い、荘園支配を巡る競争が武士の需要を高めたことを指摘しています。武士は自己の武力を商品化し、豪族や貴族は自らの利益のために彼らを抱え込みました。
  • 政治的混乱 – 保元・平治の乱で武士団が中心的役割を果たし、平氏や源氏が朝廷の権力争いに介入しました。朝廷自身は軍事力を持たないため、武士の力を借りざるを得ず、結果的に武士に政治権力が移る「反」的な動きとなりました。

鎌倉幕府下の朝廷

鎌倉幕府成立以降も天皇の神格は保たれましたが、政治権限は幕府に奪われました。世界史エンサイクロペディアによると、将軍は朝廷の形式的承認を得る代わりに事実上の支配者となり、天皇は祭祀と儀礼を担うのみでした。鎌倉・室町・徳川の各幕府により、天皇の認証は幕府の正統性を裏付ける飾りとなり、権力の中心は武家に移りました。

近代への転換:王政復古と明治政府

徳川幕府が弱体化すると、薩長土肥などの雄藩は討幕運動を進め、1867年(慶応3年)に15代将軍徳川慶喜が政権返上(大政奉還)を行いました。形式的には朝廷へ政権が戻りましたが、実際には幕府と公家の両体制を廃し、近代国家を目指す新政府を樹立するためでした。日本語版ウィキペディアによれば、1868年1月3日の「王政復古の大号令」で太政官体制の朝廷が廃止され、明治新政府が中央集権的な太政官制を敷きました。

明治憲法と天皇制

1889年制定の大日本帝国憲法(明治憲法)は、「天皇は国家の元首であり統治権を総攬する」と規定し、議会を設けつつも軍と官僚を天皇の名の下に置きました。しかし実際には、天皇は実務を行わず、軍部や内閣が天皇大権を利用して政策を実施するなど、権力は天皇から分散していました。

戦後憲法と象徴天皇

第二次世界大戦後、連合国による占領統治下で日本は民主化を迫られました。1947年施行の日本国憲法では主権を国民に移し、天皇を「日本国および日本国民統合の象徴」と明確に規定しました。憲法第4条は天皇の国政に関する権能を否定し、内閣が政治を担います。これにより天皇は完全に政治から切り離された儀礼的存在となり、朝廷の政治的役割は完全に終焉しました。

弁証法的考察

  • 正(テーゼ):中央集権的律令国家と朝廷支配 – 奈良~平安初期の朝廷は大宝律令に基づく官僚制を整備し、天皇の名の下に全国を統治しました。これは朝廷が権力を一手に握る状態であり、「正」と言えるでしょう。
  • 反(アンチテーゼ):地方分権と武士階級の台頭 – 経済基盤の変化(荘園の増加による税収減)と朝廷の軍事力縮小により地方の武士が力を増し、貴族社会の政治争いも激化しました。武士は当初、朝廷に雇われた傭兵でしたが、次第に政治への参入を強め、鎌倉幕府の成立によって「朝廷の代替となる政権」を樹立しました。これは中央集権に対する反動であり、朝廷は形式的な儀式機関へ退きました。
  • 合(ジンテーゼ):武家政権と象徴的天皇制 – 鎌倉以降の武家政権では、将軍が軍事と行政を担い、天皇は神聖性の源泉として利用されました。これは朝廷と武家の妥協的な共存であり、新しい権力秩序(合)です。明治維新では一旦天皇親政が宣言されましたが、実際の政治は議会・内閣・軍が担い、戦後憲法はさらに進んで天皇を完全に象徴化し、主権を国民に移しました。こうして武家政権と近代国家を通じて天皇の政治関与は縮小し、象徴的存在としての朝廷が確立します。

おわりに – 要約

日本の朝廷が政治に関与しなくなった時期は、主に2度あります。

  1. 鎌倉幕府成立時(12世紀末) – 源頼朝が1192年に幕府を開いたことで朝廷は軍事力と行政権を失い、天皇は形式上の存在に転じました。藤原氏の摂関政治と院政による朝廷の内部分裂、荘園制による財政悪化、武士階級の台頭と軍事の民営化などが複合的な要因でした。院政は一時的な巻き返しを図りましたが、分権化を加速し、最終的に武家政権に取って代わられました。
  2. 近代国家成立時(1868~1947年) – 1868年の王政復古で太政官制の朝廷が廃止され、新政府が中央集権的な近代国家へ移行しました。明治憲法下では天皇が統治権を有するとされたものの、実質的な決定は内閣や軍が行いました。1947年の日本国憲法では主権が国民に移り、天皇は完全に象徴的存在となりました。したがって「朝廷」が政治的主体として消滅したのは1868年であり、天皇が政治から完全に退いたのは1947年です。

以上が、朝廷が政治から遠ざかった時期とその理由を弁証法的観点から検討した結果です。

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