
はじめに
2010年代半ばから2020年代初頭にかけて、欧州中央銀行や日本銀行などが導入したマイナス金利政策や大規模な債券買い入れによって、マイナス利回り債務と呼ばれる現象が急拡大しました。ピークだった2020年末には世界のマイナス利回り債務総額は18兆ドルを超えました。その後インフレ高進と金融引き締めを受けて急速に縮小し、2023年初頭にはマイナス利回りの国債は存在しなくなりました。2025年10月時点で残存するマイナス利回り債務はわずか280億ドルと報告されています。この現象は「最後のバブル」とも呼ばれます。本稿では、マイナス利回り債務の広がりと崩壊を弁証法的に考察し、正反両論とその止揚を試みます。
テーゼ(正): マイナス利回り債務はバブルである
- 政策により人工的に作られた需要と価格上昇: 欧州中央銀行や日本銀行などがデフレ退治のため長期国債を大量に買い入れ、利回りがゼロ以下になっても価格を押し上げました。債券価格が史上最高水準に達した結果、投資家は元本割れが確実な債券を買わざるを得なくなり、価格が値上がりすること自体が唯一の収益源となったため、バブル的な様相を呈しました。
- 投資家の行動が合理性を欠いていた: マイナス利回り債務が急増した局面では、規制対応やリスク回避、流動性維持などの理由で債券を保有する投資家が多かったものの、期待される利回りはマイナスであり、償還時の損失が確実でした。これを受け入れてまで購入したのは、
- 利回りがさらに低下して価格が上昇するとのモメンタム投資への期待、
- 通貨高による為替差益への期待(円やユーロの上昇を見越して円建てやユーロ建ての債券を買う)
など、資産価格の一層の上昇を前提にしたものです。これは後から振り返れば大きな価格上昇を前提にしたバブル的行動とも解釈できます。
- 出口では急激な巻き戻しが生じた: 2022年以降、世界的なインフレ高進によって米連邦準備制度や欧州中央銀行が大幅な利上げに踏み切ると、債券価格は急落しました。過去に高価格で購入した債券の価値が急減し、元本割れが拡大しました。マイナス利回り債務は急速に縮小し、2023年初にはゼロになりました。この価格の逆転が急激に起こったことは、バブル崩壊の特徴と一致します。
- 資本のミスアロケーションへの懸念: マイナス利回りが蔓延した期間中、企業や政府は低コストで資金調達できました。一方、投資家は実質的な損失を抱え、資本が非効率に配分された面もあります。将来の年金負債や保険債務を負う機関投資家にとっては大きなリスクであり、マイナス利回りのバブルは金融システムの脆弱性を高めたという批判があります。
アンチテーゼ(反): マイナス利回り債務は合理的な政策と投資行動の結果
- デフレ圧力に対する金融政策としての必要性: リーマンショック後、欧州や日本では長期にわたって需要不足とデフレ圧力が続きました。物価と賃金が長期停滞する中で中央銀行はマイナス金利政策や量的緩和で景気を刺激しようとしました。債券利回りの低下は消費や設備投資を促し、政策目標を達成するために必要な措置と考えられました。実際、多くの国ではインフレ期待を押し上げる効果があったと評価されています。
- 規制上の制約と安全資産需要: 銀行や保険会社、年金基金は自己資本規制やキャピタルフロー規制の下で、安全かつ流動性の高い国債を保有する必要があります。中央銀行が国債を買い入れ価格を押し上げると利回りがマイナスになっても、こうした投資家は規制上の要請から一定量の国債を保有し続けます。また市場が不安定な時期にはキャッシュ同等の安全資産への避難需要が高まり、マイナス利回りでも元本の安全を優先する投資家が多数存在しました。ウォールストリート関連の分析によれば、資産価格の急落を回避するための一時的な避難先としてマイナス利回り債務が選ばれた事例が多くあります。
- 通貨と資本規制を考慮した合理的な投資: 為替市場の変動を活用した投資家は、例えば円やスイスフランのような安全通貨が将来上昇すると見込み、円建てやフラン建てのマイナス利回り債を購入しました。期待通り通貨が上昇すれば、利回りのマイナス分を上回る為替差益を得ることができます。このような戦略はリスクを伴いますが、マイナス利回り債務への投資が必ずしも非合理ではないことを示しています。
- バブルではなく時限的な政策効果: マイナス利回り債務は景気や物価の状況によって増減し、中央銀行の政策変更と連動していました。インフレが高進し政策金利が引き上げられると速やかに解消されたことから、バブル的な過剰な信用拡大ではなく、時間的に限定された政策手段と見ることもできます。政策が転換すれば利回りも正常化し、投資家はポジションを調整するため、持続性のある信用膨張を伴ったバブルとは異なるとの見方です。
止揚(総合): 両者の真実を統合した見解
マイナス利回り債務の急増と急減は、単純なバブル論では説明しきれない複雑な現象です。以下のように総合的に捉えるのが妥当でしょう。
- 政策的背景が主因、投資家心理が増幅: デフレを回避するための政策が債券価格を押し上げたことが主要因であり、これは経済安定のために必要な措置でした。しかし、将来的な価格上昇や為替差益を狙った投機的な投資家も多数参入し、債券価格をさらに押し上げていきました。この点で政策の副作用としてバブル的要素が生じたと言えます。
- 合理性と非合理性が併存: 規制や安全資産需要による保有は合理的でしたが、マイナス利回り債務が過去最大規模に膨らんだ背景には、市場参加者が「金利は長期にわたって低いまま」という**共通の期待(ナラティブ)**を抱いていたことがあります。この期待が過度になると、合理性を超えて価格が高騰し、政策転換時に損失が表面化します。従って、マイナス利回り債務は合理的な選択肢でありながら、期待の片寄りがバブル化を招いたと考えられます。
- 教訓と今後の展望: マイナス金利政策は終焉し、世界の金利は正常化に向かいました。残存するマイナス利回り債務はごくわずかであり、今後再び膨張する可能性は低いとみられます。しかし、低金利環境が再び訪れれば類似の現象が起こることも考えられます。金融当局は、
- 過度な資産価格上昇を招かないよう出口戦略を明確に示すこと、
- マイナス金利政策の影響を検証し副作用を抑制する政策手段を開発すること、
- 機関投資家は規制要件とリスクを勘案したポートフォリオ多様化を進めること
が求められます。
- 投資家への示唆: マイナス利回り債務の経験は、利回りがマイナスでも資本損失を厭わず追随する投資行動がいかに危険かを示しました。将来の金利環境が不透明な時期には、短期債や信用スプレッドの分散投資、為替ヘッジなどを活用し、単一のシナリオに依存しない戦略を採ることが重要です。
要約
マイナス利回り債務の急膨張は、デフレ圧力に対抗するための金融政策と投資家の安全資産需要が重なった結果であり、規制や通貨戦略など合理的な理由もありました。その一方で、金利がさらに下がるとの期待や通貨高への投機が価格を押し上げ、ピーク時には世界の債券の多くがマイナス利回りとなる「最後のバブル」と呼ばれる状況に陥りました。インフレ高進に伴う金融引き締めが始まると、このバブルは急速に縮小し、2023年初にはマイナス利回りの国債が消滅しました。現在残っているマイナス利回り債務は微々たる規模であり、低金利政策の副作用と投資家行動の教訓を残しています。

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