中央銀行の物価安定と雇用安定


1. 中央銀行の使命――価格と雇用の安定

中央銀行は紙幣発行権を持つ一国の金融の要である。多くの先進国ではインフレ率を低く安定させることが中心的な使命とされており、欧州中央銀行(ECB)は政策の「第一義的目的は物価安定」であると明示している。物価安定とは、「財やサービスの価格が低く・安定的かつ予測可能な状態」を指し、インフレ目標2%を中期的に目指す。同時にEU条約では、物価安定を損なわない範囲で雇用や社会的進歩を含む総合的経済政策を支援することも求められている。

米国連邦準備制度(FRB)は「安定した物価と完全雇用」という二重の使命を法的に課されている。連邦公開市場委員会(FOMC)は金利目標を設定し、政府短期証券の売買などを通じて準備預金の量を調整することで目標金利に誘導する。日本銀行も「物価の安定を図ることで国民経済の健全な発展に寄与する」と定め、持続的な物価安定のために消費者物価指数(CPI)2%を目標にしている。こうした例は、中央銀行が物価安定と雇用・経済活動安定の双方を意識していることを示す。

2. 弁証法的枠組み:物価安定と雇用安定のジレンマ

2.1 テーゼ(拡張的政策)――雇用と成長の促進

景気後退では家計の支出が落ち込み、企業は生産を縮小し、失業者が増える。国際機関は「総需要の落ち込みには金融政策が景気を逆方向に傾ける反周期的手段として用いられる」ことを指摘する。中央銀行が公開市場操作で国債を買い、準備預金を増加させるとマネーサプライが拡大し、政策金利が低下する。これによりローンや投資のコストが下がり、住宅・耐久消費財の購入や企業の設備投資が増加し、雇用が生まれる。実際、バランスシート拡大や金利引き下げによる量的緩和政策は、長期金利を押し下げることで金融環境を緩和し、経済活動と雇用創出を後押しした。通貨供給量の拡大と低金利は短期的には景気を刺激し、失業率を低下させる点で有効なテーゼ(主張)である。

2.2 アンチテーゼ(引締め政策)――物価上昇を抑える

しかし、過度な金融緩和はインフレを高進させる。国際機関は、景気刺激政策によって需要が拡大すると「生産が能力の限界に近づき、賃金と物価に上昇圧力がかかり、一般的なインフレを引き起こす」ことを警告する。インフレ期待が高まると、家計や企業は賃金や価格を一段と引き上げ、実質賃金が低下する。この状況では、中央銀行は引締め政策をとらざるを得なくなる。中央銀行が国債を売却して準備預金を吸収すれば、マネーサプライは縮小し、政策金利が上昇する。金利上昇は借入コストを高め、住宅や自動車などの消費財や企業の投資需要を抑制し、総需要の抑制によってインフレ率が低下する。中央銀行の利上げはまた、通貨高を通じて輸出を抑え、物価上昇圧力を和らげる。

インフレと失業率の関係を説明する有名な概念にフィリップス曲線がある。フィリップス曲線は「インフレ率が上昇すると失業率が低下し、その逆も成り立つ」という短期的な逆相関を示す理論であり、政府が総需要を刺激すれば雇用は増えるが物価も上がると説明している。1970年代のスタグフレーション(物価上昇と失業率上昇の同時発生)はこの逆相関が常に成立するわけではないことを示したが、短期的には金利引き上げが雇用に悪影響を及ぼす可能性が残る。つまり、インフレ抑制というアンチテーゼには雇用抑制の副作用が伴う。

2.3 シンテーゼ――長期的な均衡と期待の役割

中央銀行が二つの目標の間で揺れ動くこと自体が問題なのではなく、物価安定と雇用安定を両立させる「合」の政策を構築することが求められる。国際機関は、物価安定目標を明確に掲げた上で独立性を確保することが、時間選好の不一致(タイムインコンシステンシー)問題を克服し、低く安定したインフレを達成する手段であると指摘する。政府から独立した中央銀行は短期的な景気刺激圧力に流されず、中長期的な物価安定を重視することで期待インフレを固定できる。その結果、長期的には雇用と物価のトレードオフは存在しなくなり、フィリップス曲線は自然失業率付近で垂直になる。

この合を実現するために、中央銀行は以下のような政策を組み合わせる。

  • インフレ目標設定とフォワードガイダンス:ECBや日本銀行が2%の物価安定目標を公表し、政策委員会がその達成に向けた見通しを示すことで、市場や家計の期待をアンカーする。期待が安定すれば、少々の景気変動でインフレが制御不能になることはない。
  • 政策金利の調節:中央銀行は短期資金取引の金利(政策金利)を操作し、借入コストを通じて総需要を調整する。利下げにより融資コストが下がれば景気が刺激され、利上げにより借入が抑制される。
  • 公開市場操作によるマネーサプライ調整:FOMCは短期国債の買い入れや売却で準備預金を調整し、政策金利を誘導する。買いオペにより準備預金が増加すると金利が下がり(緩和)、売りオペで準備預金が減少すると金利が上がる(引締め)。2008年以降には長期債の大量購入(量的緩和)により長期金利も押し下げた。
  • 期待への働きかけ:利上げを示唆してインフレ抑制の意志を示せば、長期契約の賃金や価格が穏やかになり、実際のインフレも抑制される。逆に失業率が高い場合には利下げや資産買い入れと共に「しばらく緩和的政策を維持する」と示すことで、期待インフレの低下と景気刺激を両立させる。
  • 独立性と透明性の確保:中央銀行の独立性はインフレの低位安定に寄与する。また、透明性や説明責任を高めることで、政策変更が市場に与える不確実性を減少させる。

このように、物価安定と雇用安定の二つの目標は短期的には対立しうるが、中央銀行は政策金利とマネーサプライを巧みに調整し、市場の期待形成に働きかけることで、両立を図っている。インフレ目標を明確に掲げることで期待をアンカーし、景気の過熱や過冷却を避けるために金利や資産買い入れを柔軟に運用する。この総合的な政策運営が弁証法的な「合」として機能する。

3. 通貨供給量と金利による政策手段

3.1 マネーサプライの調整

中央銀行は公開市場操作を通じて通貨供給量を調整する。買いオペは準備預金を増やし通貨供給量を拡大し、売りオペはマネーサプライを減らす。FRBは公開市場操作を主要なツールとしてきたが、2008年以降は長期債購入により長期金利を低下させ、景気と雇用を支える新しい手法を用いた。

マネーサプライの拡大は、短期的には信用供給の増加や株価上昇を通じて需要を刺激し、雇用を増やす。しかし供給能力が追いつかない場合にはインフレ率が上昇するため、中央銀行は供給能力や期待インフレを考慮しながらマネーサプライの調整を行う必要がある。

3.2 政策金利の運用

多くの中央銀行はマネーサプライよりも政策金利に注目して政策を伝達する。中央銀行は一般に短期の政策金利を操作し、それが経済活動に影響する。政策金利は市場のその他の金利に連鎖して波及するため、消費・投資・為替レートを通じて総需要や物価に影響する。

利下げは借入コストを下げ、投資や消費を刺激し、雇用創出を促す。利上げは借入や投資を抑制し、需要と物価上昇を抑えるが、失業の上昇や成長の鈍化を伴うことがある。中央銀行は経済指標(インフレ率、失業率、GDPギャップ)を観察しながら、段階的かつデータ依存的に金利を調整する。

4. 物価と雇用の安定を巡る今後の課題

  • 期待とコミュニケーションの重要性:インフレ期待のアンカーが失われると金利操作の効果が薄れる。中央銀行はフォワードガイダンスや透明な政策説明で期待を安定化し、短期的なトレードオフを緩和する必要がある。
  • 金融政策の非伝統的手段:金利がゼロに近づいた場合、量的緩和や信用緩和などの非伝統的手段が用いられる。これらは金融市場に流動性を供給し、資産価格や長期金利を通じて経済活動を支えるが、中央銀行の独立性への懸念も提起する。
  • 中央銀行の独立性とガバナンス:中央銀行の独立性が低いインフレ率をもたらすことが示されており、政治的圧力からの防衛が政策の効果と信頼性を支える。各国は法制度やガバナンス改革を通じて独立性と透明性を高めている。
  • 金融安定との整合性:物価と雇用を安定させる一方で、バブルや金融脆弱性への配慮が必要である。金融危機後にマクロプルーデンシャル政策の必要性が強調されており、金融政策と金融安定政策を統合し、過度な信用拡大やリスクテイクを抑制する枠組みが求められる。

5. 結論(要約)

中央銀行は物価安定と雇用の安定という二つの目的のもと、通貨供給量と金利を調整する。米国FRBは二重の使命を負い、ECBも物価安定を第一としつつ雇用を含むEUの一般的経済政策を支援する。日本銀行は「物価の安定によって国民経済の健全な発展に寄与する」ことを原則とする。景気悪化時にはマネーサプライを増やし金利を引き下げて需要と雇用を拡大し、インフレが高進すればマネーサプライを縮小し金利を引き上げて物価を抑える。短期的にはインフレと失業率の逆相関(フィリップス曲線)のために両者のトレードオフが存在するが、インフレ期待を安定させ独立した中央銀行が中期的な物価目標にコミットすれば、長期的にはトレードオフは弱まり、物価と雇用の両立が可能になる。中央銀行は公開市場操作、政策金利、量的緩和、前方ガイダンスなどを用いてマネーサプライと利子率を調整し、景気とインフレ率を適正な水準に保とうと努めている。このように、物価と雇用の安定は相互に関係し、中央銀行は弁証法的な思考により政策のテーゼ(拡張)とアンチテーゼ(引締め)を統合し、持続的な経済の発展を目指している。


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