1987年ブラックマンデーとドル政策の関係

1987年10月のブラックマンデー(株価大暴落)は、1980年代を通じて進められたドル政策が行き着いた先に起きた現象である。ヘッジファンドマネージャーのジョージ・ソロスは著書『ソロスの錬金術』において、このブラックマンデーの背景にあったドル高政策とその崩壊過程を市場心理の観点から分析している。本稿ではソロスの視点に基づき、ブラックマンデーとドル政策の関係を弁証法的枠組みで論じる。

テーゼ:1980年代のドル高政策と株式バブル

1980年代前半、レーガン政権下のアメリカは高金利政策と減税・軍拡による財政赤字拡大を背景に世界的なドル高局面を迎えていた。当時は「強いドル」がアメリカ経済の力強さの象徴とされ、ドル高によって輸入物価が下がりインフレが抑制される一方、アメリカの金融市場には世界中から資金が流入した。巨額の貿易赤字と財政赤字という双子の赤字を抱えながらも経済成長が続いたのは、高金利・ドル高によって海外から潤沢な資金を呼び込み、その資金で財政赤字をファイナンスしつつ国内需要を維持できていたためである。強いドルと資金流入による株価上昇が好循環を生み、この時期の米国株式市場は**長期強気相場(ブルマーケット)**に沸いていた。

しかし、ジョージ・ソロスはこのドル高に支えられた景気拡大と市場繁栄がやがてもろく崩れやすい循環であることを指摘している。ドル高自体がアメリカの輸出産業を圧迫して貿易赤字を悪化させ、経済の実体面で歪みを生んでいたからである。それでもなお海外資金の継続的な流入によってバブル的な株高が維持されていたが、この資金流入頼みのバブルはどこかで限界を迎える運命にあった。ソロスの分析によれば、1987年の株式市場暴落(ブラックマンデー)に至る前提条件は、まさにそれまで続いていた過剰な資金流入が減少に転じたことに求められるという。言い換えれば、強いドルを背景としたテーゼ(命題)—「ドル高で資金が集まり株価は上がり続ける」という図式—は、いずれ崩壊する内在的な矛盾を孕んでいたのである。

アンチテーゼ:ドル高の限界、協調介入の混乱と資金流出

レーガン政権下で続いたドル高政策は、1985年頃にはアメリカ自身にとっても行き詰まりを見せ始めた。貿易赤字の拡大や国内製造業への打撃を重く見た当局は、同年のプラザ合意で日本・西ドイツなど主要国と協調し、意図的にドル安誘導(ドル高是正)に踏み切った。この合意によって急激なドル安・円高・マルク高が進み、アメリカの経常赤字是正を図ったものの、ドル相場の下落基調はその後も止まらずに過剰なドル安へと傾いていった。1987年初頭までにドル安が行き過ぎたと判断したG7各国は、今度はドルの下落を食い止め安定させるためにルーブル合意(1987年2月)を締結し、為替相場の安定を図ろうとした。この新たな国際協調では、アメリカが金融引き締め(利上げ)を行い、日本や西ドイツが金融緩和(利下げ)を行うことでドル防衛を実現するシナリオが描かれた。

しかし、このルーブル合意は思惑通りには機能せず、協調体制はほどなく破綻してしまう。背景には、1970年代のインフレの記憶が冷めやらぬ中で主要国にインフレ再燃への警戒感が強かったことがある。とりわけ西ドイツ(当時)の連邦銀行は、自国経済のインフレ圧力を懸念してアメリカの求める利下げに消極的だった。ソロスも指摘するように、日本と西ドイツの金融当局はドル防衛のための市場介入が自国インフレにつながることを恐れ、むしろ金融を引き締め気味に運営した可能性がある。その結果、世界的な金利上昇圧力が生じ、ドル安を止めるどころか債券・株式市場に重荷となってしまった。実際、西ドイツ連邦銀行は1987年9月に政策金利の利上げに踏み切り、協調利下げというルーブル合意の取り決めに反する行動を取ったのである。

西ドイツの利上げはドル防衛シナリオを根底から揺るがした。この利上げによって、ドルを主要通貨に対して安定させるためにはアメリカ側がこれまで以上の追加利上げを迫られる構図となったからである。しかし当時、アメリカ経済も株式市場も金利上昇に敏感であり、大幅な利上げは景気失速や株価急落を招くリスクがあった。そこでアメリカは自国の大幅利上げを避けるため、代わりに同盟国に利下げを要求する圧力外交に出る。1987年秋、株価が不安定化する中でジェームズ・ベーカー米財務長官(当時)はドル下落を食い止めるため西ドイツに利下げを強く求めたと報じられた。しかしこの時点で既に米独間の金融協調は瓦解しており、西ドイツはアメリカの圧力に応じる姿勢を見せなかった。挙げ句の果てに、10月中旬にはアメリカ財務当局者が「ドル安を容認する」と公言し、さらに「株価下落の原因はドイツのせいだ」と非難する記事が週末のニューヨーク・タイムズ紙に掲載される事態となった。公的な場で米政府自らドル安を容認し同盟国を批判したことで、もはや国際協調によるドル支えという前提は完全に崩れ去った。市場参加者は米独の政策協調が破綻した現実を目の当たりにし、ドルに対する信認も大きく揺らぐことになる。

こうしたアンチテーゼ的展開により、強いドルを土台として成り立っていた前提が覆され、市場には不安と動揺が広がった。ソロスの見立てによれば、当時の海外投資家は米国株式への投資に際して為替ヘッジを十分行っていなかったため、ドル相場と株価の動向が直接リスクに結びつく状況にあった。米独協調の崩壊により「利上げをすれば株価が下がり、利上げをしなければドルが下がる」というジレンマが鮮明になると、どの道ドルか株かいずれかが下落する(悪ければ双方が下落する)ため、外国人投資家はどちらに転んでも損失を被りかねない状況が生じたのである。もはや将来の損失回避のために取れる行動はただ一つ、米国資産から資金を引き揚げることだった。そしてその資金流出は連鎖的な売りを呼び込み、市場の弱気心理は自己増幅的に高まっていった。

ジンテーゼ:ブラックマンデーによる危機的帰結と市場の調整

こうして迎えた1987年10月19日、ニューヨーク株式市場は史上例を見ない暴落となった(ブラックマンデー)。ダウ工業株30種平均は一日で20%以上も急落し、アメリカ発の株安は時差の関係で世界各国の市場にも波及するグローバルな金融危機となった。この暴落は、ドル高政策のもと膨れ上がった株式バブルに対する市場の劇的な調整(クリアリング)であり、強いドルというテーゼとドル安への反動というアンチテーゼが衝突した結果、生じた**統合的な帰結(ジンテーゼ)**だと解釈できる。すなわち、長年積み上がった不均衡(双子の赤字や過剰流動性)と、ドル相場をめぐる政策の行き違いが一気に噴出し、株価暴落という形で均衡が強制的に取り戻されたのである。

ブラックマンデー当日の急落は投資家の心理変化とも表裏一体であった。前述のように海外投資マネーに「退路のない」状況が突如突きつけられたことで、パニック的な売りが売りを呼ぶ展開に陥った。ソロスが唱える**市場のリフレクシビティ(反射性)**の理論どおり、一方向に進んできたトレンド(ドル高と株高)が反転するとき、その期待修正は自己強化的な動きを伴って極端な結果を招いたと言える。市場心理は強気から一転して極度の悲観へと振れ、資金流入の潮目が一斉に引き潮へ変わったのである。こうした市場の集団行動の結果、過去数年間の上昇で形成されたバブルは一日のうちに崩壊し、ドル高を基軸とする金融市場の旧い均衡は崩れ去った。

幸いにも、ブラックマンデー後の対応は迅速だった。米連邦準備制度理事会(FRB)は直ちに流動性供給策を表明し主要銀行に資金繰り支援を促すなど市場のパニック沈静化に動いた。また主要国の中央銀行も協調してドル買い介入を行い、為替相場の無秩序な下落を食い止める措置を取った。これらの緊急対応のおかげで株価暴落は短期的なショックで収まり、世界経済は1930年代型の大不況に陥ることを免れた。しかしそれでもブラックマンデーが残した教訓は大きい。強引なドル政策の転換と不十分な国際協調がもたらした市場崩壊を目の当たりにし、各国当局は金融・財政政策の調整の重要性と市場心理の破壊的威力を痛感することになったのである。ブラックマンデー以後、アメリカではFRB議長グリーンスパン主導のもとで金融緩和による市場安定策(いわゆる「グリーンスパン・プット」)が志向されるようになり、ドル高バブル期とは異なる新たな相場環境へと移行していった。

まとめ

1987年のブラックマンデーは、1980年代のドル高政策によって生じたバブルの崩壊として位置づけられる。レーガン政権の強ドル路線(テーゼ)が生んだ資金流入頼みの繁栄は、プラザ合意後のドル安転換と協調失敗という逆の動き(アンチテーゼ)によって揺らぎ、最終的に世界的株価暴落という劇的な形で決着した(ジンテーゼ)。ジョージ・ソロスの分析が示す通り、政策と市場心理が相互作用する過程で資金の流れは一気に逆回転し、強いドルの時代の矛盾がブラックマンデーという形で噴出したのである。要するに、ドル高トレンドが反転して国際協調が崩れたとき、市場参加者の心理は一斉に悲観へ傾き、資金がアメリカから逃避することでバブルは終焉を迎えたのである。

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