書籍の概要: 幻冬舎新書から2025年7月に刊行された本書は、BNPパリバ証券のチーフエコノミスト河野龍太郎氏とみずほ銀行チーフエコノミスト唐鎌大輔氏による対談形式の著作である。両氏は世界経済や国際金融の「盲点(死角)」をテーマに、冒頭から「ドル基軸通貨体制は永遠ではない」という挑発的なメッセージを掲げる。日本経済が株高や輸出増で一見好調に見える一方で、実質賃金停滞や消費者マインド低迷など国民の実感との乖離が深刻化している現状を踏まえ、世界の構造変化や日本固有の課題を多角的に検証する。トランプ政権下の貿易摩擦、国際通貨体制の揺らぎ、グローバリゼーションの弊害、人口・技術変化による産業構造の転換などを縦横に論じ、従来の定説や日本人が見過ごしがちな問題点を洗い出していく。厚さ約416ページにわたる長い対談であるが、対話形式のため比較的読みやすく、両者の得意分野を生かして政治・経済・技術・社会問題を幅広くカバーしている。
主な構成と論点: 本書は序章と5つの章、終章で構成される。各章のタイトルは以下のとおりである。序章「外国人にとって“お買い得な国”の裏側」、第1章「なぜ働けどラクにならないのか」、第2章「トランプ政権で、世界経済はどう変わる?」、第3章「為替ににじむ国家の迷走」、第4章「日本からお金が逃げていく?」、第5章「AIと外国人労働者が日本の中間層を破壊する?」、最終章「変わりゆく世界」。以下、章ごとの要点をまとめる。
- 序章「外国人にとって“お買い得な国”の裏側」: ここではまず、日本の物価やサービスが外国人から見て相対的に「安く感じられる」理由を探る議論から始まる。円安によって日本の物価が割安になったこともあるが、著者らは根本的な要因として日本国内の名目賃金が長期的に上昇してこなかった点を指摘する。生産性は上がっているにもかかわらず、企業が内部留保を溜め込み、従業員に十分な賃上げを行わない「収奪的システム」が背景にあると論じる。また、日本政府が財政赤字縮小のために消費税を急激に引き上げる代わりに、社会保障の保険料や非正規雇用でコストを賄ってきた構造が、国内消費を抑制し日本製品の割安感を強めたと論じる。観光需要を喚起する政策も、結果的に「インバウンドとともにインフレを輸入する」形になり、外貨の引き上げで住宅・物価の上昇圧力が生じた点にも触れている。つまり「安い日本」の実態は、対外的な物価差だけでなく、国内の所得分配や税負担構造に起因するものであり、この死角(盲点)を理解しない限り先行きは予測できないと主張する。
- 第1章「なぜ働けどラクにならないのか」: この章では、働く人々の実質的な豊かさが増さない原因を掘り下げる。冒頭で明示されるのは、「日本は生産性が低い」という一般認識は誤解であるという指摘だ。実際にはこの30年で日本の労働生産性は高水準で上昇したが、その成果が労働者に分配されずに企業内部に留まった。著者らはこの現象を、企業が利益を上げても「実質ゼロベアの常態」が続き、賃金が横ばいで推移している「収奪的な賃金構造」として批判する。一方で失業率は異常に低いままである点に注目し、高齢者や女性の労働参加拡大やインバウンド消費による需要の底上げなど、潜在的な「働く余地」があることも指摘する。税・社会保障制度については、消費税を上げられなかった分が社会保険料や非正規雇用の低賃金化で補われており、結果として家計の負担が重く「豊かさの実感」が得られない仕組みを形作っていると論じる。また、所得分配の歪みが進む中でインフレ政策がとられている現状を「家計へのインフレ税」であるとし、企業と家計の負担配分のズレが次世代の成長余力をも奪っていると警鐘を鳴らす。
- 第2章「トランプ政権で、世界経済はどう変わる?」: 第2章では、主に米国のトランプ政権下で起こる世界経済のパワーバランスや政策の変化を議論する。まず、トランプ主導の保護主義政策(相互関税や中国・EUとの貿易摩擦)が国際分業のルールを揺るがしている点を分析する。著者らは、政治が経済を動かすのではなく、グローバル化と格差拡大が時代を作り、トランプ的なポピュリズム指導者を生み出したと捉える。また、ヴァンス米副大統領らが発言する「リベラリズムやグローバル化への疑念」といった米国内の思想潮流が、米欧関係の亀裂を象徴していると指摘する。この章では米国の動向だけでなく、欧州や中国についても言及がある。欧州については「EUの堅牢性(社会保障の厚さと硬化症)」やパンデミック・財政問題への対処、ウクライナ戦争を契機とする防衛協力(EU防衛債発行)など、欧州共同体の変化について論じる。中国については、過剰な投資蓄積や景気減速への懸念、そしてEVやAI、半導体開発といったハイテク分野での躍進に触れ、米中対立の文脈で中国経済が世界にもたらす影響を検討する。要するに、トランプ政権下で浮上した新たな国家戦略(米国第一主義)や新興国の台頭により、これまで想定されていた国際秩序が大きく変化することを論じる。
- 第3章「為替ににじむ国家の迷走」: 為替・金融の章では、日本の為替相場が示すマクロ経済の歪みを捉える。序盤では、日本の経常黒字に隠れた慢性的な貿易赤字構造と、労働生産性・分配率・交易条件という「実質賃金の3要素」のうち、急激に悪化した交易条件(輸入物価の高騰)によって実質賃金が押し下げられている点が指摘される。また、国内金利が低位にある恩恵は主に政府(国債発行)に行き渡り、家計や企業には十分に還元されていないとされる。日本国債は潜在的に「国民からのインフレ税収」で返済を進める金融抑圧政策下にあり、そのツケを国民が負っている状況とも論じられる。さらに、震災や経済ショック時に安全資産とされてきた「有事の円買い」が観測されなくなっている現象は、既存の対外資産論の崩壊を示唆するとする。実際、超低金利下で家計の資金需要が満たされずに蓄積された海外投資(NISA拡充による個人のドル建て資産保有)は円売り圧力を高めている。長期金利(r)と名目成長率(g)の逆転現象がバブルを醸成しやすい構造や、ジレ・シャツ運動に象徴される経済格差の矛盾も言及されている(ピケティ的なr>gの視点)。ただ、現状のところ円は依然として比較的安全資産だとし、戦後イギリスと日本の比較で「インフレ税」による国債償却のシナリオ、株・不動産の値上がりによる富の偏在についても触れている。
- 第4章「日本からお金が逃げていく?」: 資金フローの章では、デジタル化やサービス交易など、日本が生む付加価値の実態と国際収支の変化がテーマとなる。旅行収支ではインバウンド増加による黒字化を指摘する一方、運輸収支や「その他サービス収支」(いわゆるデジタルサービスの受益輸出)が大幅赤字となっている点を問題視する。特に、保険・年金サービスの受益に伴う外貨支出が大きく、輸出以上に海外資本に支配される「豊かな小作人」の構図が鮮明になっていると論じる。購買力平価の視点では、たとえ円安が進んでも輸出伸び悩みが続く構造的理由があると指摘し、現状の強烈な円安(実質的な賃金目減り)は長期的に解消しにくいと分析する。さらに、家計の貯蓄が金融機関を介さず海外へ直接投資されるようになったことで、従来の間接金融依存から脱却する一方、円キャピタルフライト(投資流出)を助長し、「お金が逃げる」展開になっていることを指摘する。こうした資金流出は、円の行方のみならず、国内投資・消費構造にも大きなインパクトを及ぼすとして警告する。
- 第5章「AIと外国人労働者が日本の中間層を破壊する?」: 最終章手前では、技術革新と人口動態の変化による雇用・賃金への影響を検討する。AIや自動化は平均労働生産性を引き上げるが、初期段階では富の偏在化(富裕層への集中)を加速させやすいと分析する。著者らは、これから豊かさを実感できる社会を実現するためには「包摂的イノベーション」(多くの人に利益が行き渡る技術革新)への転換が必要だと主張する。その条件として、労働者一人当たりの限界生産性の向上、労働需要の増加、そして賃金上昇が求められると論じる。一方でポピュリズムの台頭による「市場からの解答」を迎えるリスクも指摘し、軽率な政策決定を防ぐためには議会や政策プロセスの知恵が必要と警告する。また、ドイツの移民受け入れ政策に学びながら、移民や外国人労働者を経済にどのように組み込み、中間層を守るかも議論される。人の移動・国境を超えた生産性向上については、「労働力と資本が動かなくても貿易で同様の効果が得られる」とする経済学的視点を踏まえつつも、民族的・社会的な要素(ディアスポラの問題や所有権感覚の違い)にも配慮が必要だと論じる。
終章「変わりゆく世界」: 上記の各論点を踏まえた結論的な議論が繰り広げられる。日本はかつて経験したことのない構造変革の時期にあり、従来の世界像や政策常識が通用しなくなっているという危機感を共有したうえで、今後の舵取りの要点が示される。例えば、国内では賃金分配の見直しや企業のガバナンス改革が喫緊の課題とされる一方、国際面では対米従属からの脱却や新たなアライアンス形成など、改革と適応の道筋が示唆される。最終的には、両著者が数カ月にわたり意見を交換し合った結果として、多角的な視座と警告を通じ「予測不能な時代を生き抜くための経済・金融論」を構築しようとする構成となっている。
弁証法的観点からの考察
テーゼ(主張・現状認識)
本書の主張を要約すれば、**「世界経済の現状には重大な矛盾や見過ごされがちな課題(死角)が存在し、従来の楽観論では対処しきれない大転換期にある」**という認識である。著者らは、成熟したグローバル市場であっても、政治経済システムには常に包摂と収奪の両面があり、今や経済成長の果実が一部の企業や富裕層に集中する構造が顕著になっていると見る。日本においては、長期的な「賃金ゼロベア」や雇用の不安定化によって消費者余剰(生活の潤い)が失われ、企業利益が内部留保として蓄積される一方で国民は相対的に貧しくなっていると指摘する(収奪的な構造)。国際面では、米国のドル覇権や既存の貿易秩序が揺らぎつつあり、トランプ主義に象徴されるナショナリズムやポピュリズムが既存のグローバル化の「幻想」を覆し始めたと捉える。加えて、技術革新による生産性向上の陰で起こる所得格差拡大や、少子高齢化が進む中で労働力不足を補おうとする外国人労働力の流入など、日本と世界は大きな構造変化に直面している。これらをふまえ「ドル基軸体制も永続せず、従来の世界観(国際分業・自由貿易・一極支配)は揺らぎつつある」という危機感が、本書の根底に流れるテーゼである。
アンチテーゼ(対立意見・批判的視点)
このテーゼに対して、対立的な見解としては次のような反論が考えられる。「本書は世界経済の変化に悲観的すぎる。実際にはグローバル化やテクノロジーは長期的に経済を活性化させており、米国ドルの優位性も依然堅調だし、日本経済にも回復の余地がある」という主張である。例えば、現在の技術革新が一時的に格差を広げることはあっても、新たな産業や雇用を生み出し得る点で未来志向の側面があると反論できる。また、ポピュリズム的な政策は確かに富裕層批判を煽るが、その背景には不満の火種が存在し、単純に撥ねつけるのは非現実的だとの意見もある。米国についても、「財政赤字やポストドル時代の議論があっても、米連邦準備制度や多国籍企業の信用力は依然高く、トランプ政権が終われば方向転換して安全資産需要は復活する」と見る向きがある。日本国内では、低賃金の問題は高齢化や企業のグローバル競争の帰結であり、「収奪的システム」論は企業責任を強調し過ぎているという批判があるかもしれない。さらには「グローバル投資や貿易は相互補完的であり、日本人が海外資産を保有する動きは、むしろ経済の新たなリスク分散を促す正常なグローバル化のプロセスだ」とも考えられる。要するに、現在の混迷は変動期に付きものだとして、時間が経てば歪みは是正される、または制度改革によって市場メカニズムに任せれば良い、という楽観論がアンチテーゼとなりうる。
ジンテーゼ(統合・止揚された視座)
テーゼとアンチテーゼの対立を踏まえると、両者を包含する統合的な結論(ジンテーゼ)としては、**「世界経済の変化を素直に受け止めつつ、問題に対する適切な政策対応を取ることで、新たな成長の局面を模索すべきである」**という見方が考えられる。具体的には、まずテーゼの指摘する構造的な課題(格差拡大、外需依存のリスク、ドル・米国依存の不安定化)を認めつつ、アンチテーゼの指摘する可能性――すなわち技術革新や世界との交流がもたらす潜在的な恩恵――も積極的に活用する姿勢が必要である。例えば、日本経済においては、生産性向上の成果を働き手に還元する分配改革(賃金上昇や社会保障強化)を行いつつ、高齢化社会を支えるイノベーション創出に注力する。国際面では、米国の政策が変容しても自動的に日本経済が崩壊するわけではなく、多極化する世界で新しいパートナーシップ(アジア圏や欧州などとの連携強化)を構築することが挙げられる。グローバル化の要素(貿易・投資・技術協力)は維持しつつ、国内経済のポテンシャルを高める戦略的アプローチが求められる。さらに、包摂的なイノベーションを目指し、「収奪的な競争」ではなく企業と労働者が共に成長できる経済体制づくり(たとえば労使協調や再分配政策の強化)も統合的視点となる。つまり、世界経済に内在するリスクを過小評価せず、必要な改革(政策・社会制度・国際協調)を行えば、新しい経済秩序の中でも日本は競争力を維持できるという考え方がジンテーゼである。
簡潔な要約
本書『世界経済の死角』は、日本を含む先進各国が直面する経済の「死角」(無視されがちな問題点)を、超人気エコノミスト2人が対談形式で幅広く検証した書である。日本国内では生産性上昇に伴う収益が労働者に行き渡らず「収奪的システム」が温存される一方で、財政・金融政策のゆがみや為替相場の動向が家計を圧迫している実態に光を当てる。国際的には、トランプ政権による保護主義、新興国の台頭、多極化する世界秩序などが伝統的なグローバル経済の前提を揺るがしつつあると指摘する。これらを通じ「ドル基軸通貨体制は永遠ではなく、世界経済の見慣れた構図は大きく変容する」という警鐘を鳴らしている。弁証法的に考えるなら、著者らの主張(国際秩序の崩壊や国内格差の深刻化)に対し「市場メカニズムや技術革新は経済を底上げする」という反論がある。これらを統合すると、世界経済の大変動に対応して、国内外での分配改革や新たな協力関係を模索することこそが、持続的な豊かさにつながるという総合的な視座が見えてくる。
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