カール・ポパーは20世紀を代表する科学哲学者で、科学と非科学を分ける「線引き問題」に取り組みました。彼は、命題や理論が「反証可能(falsifiable)」であることを科学の必要条件と考えました。反証可能とは、理論が経験的にチェックでき、もし事実と矛盾する状況が観測されればその理論を捨てなければならないことを意味します。この考え方の背後には、自然法則を「すべての白鳥は白い」のような普遍命題と見なすと、一つの反例(黒い白鳥)が法則を打ち砕くという論理学の非対称性があります。ポパーは、膨大な観測例が理論を「証明」することはないが、一つの観測が理論を「反証」することはあり得ると指摘しました。
ポパーが問題視した理論の具体例
- 相対性理論と心理学の比較 – ポパーは、アインシュタインの一般相対性理論とフロイトやアドラーによる精神分析を対比しました。相対性理論は、1919年の皆既日食観測のように他の理論と食い違う予測を行い、実際に光の曲がり方を測定する実験で検証されました。このような「大胆な予測と厳しい検証」が科学の特徴だというのがポパーの立場です。一方、精神分析は人間行動のあらゆるケースを説明できる構造を持ち、実験的にどの行動を予測するかという具体性に欠けているため、どんな観察とも矛盾しません。たとえば子供を溺れさせる行為も子供を救う行為も「抑圧された欲動の表れ」として説明できてしまい、「この場合には精神分析は誤っている」と検証できる観察条件を設定できないというのがポパーの批判でした。
- マルクス経済学への批判 – ポパーは若い頃マルクス主義に傾倒しましたが、科学的性格に疑問を抱き離反しました。『資本論』など古典的なマルクス経済学は「資本主義は高度に発達した国から崩壊し、労働者革命が起こる」という具体的な予測を含み、初期には科学的な理論だったと彼は評価しています。しかし現実には労働者革命はイギリスやドイツではなく発展途上国で起こり、資本主義は崩壊しませんでした。にもかかわらずマルクス主義者たちは理論を捨てず、「反革命勢力の陰謀」など後付けの仮説で説明し、反証を受け入れませんでした。ポパーによればこのような理論改変は「アドホック」な修正であり、新しい検証可能な予測を生み出さないので科学的でないとみなされます。
ポパーの理論への反論やその後の議論
ポパーの反証可能性には多くの支持者がいますが、同時に批判もあります。
- 観察の理論依存性 – トーマス・クーンらは観察自体が理論に依存しているため、対立する学派の科学者が同じ現象を別々に記述することを指摘しました。したがって「基本命題」としてどの観測を採用するかも合意に依存するため、反証手続きが単純でないことが論じられます。
- 科学実践の描写としての不充分さ – イミレ・ラカトシュやヒラリー・パトナムなどは、科学者が理論をすぐに捨てることはまれで、長い間既存理論を保持しつつ補助仮説を加えて改良していくと指摘しました。例えばニュートン力学は水星の近日点移動を正確に説明できませんでしたが、アインシュタインの相対性理論が登場するまでは多くの科学者に支持され続けました。この事実は「一つの反例で理論を即座に放棄する」というポパー的イメージに反します。
- 精神分析への再評価 – ポパーの批判以後も精神分析に対する臨床・実験・脳科学研究は続けられており、心理療法として一定の効果を示すデータや、実証的な仮説設定を試みる研究も存在します。一部の研究者は、ポパーが精神分析を誤解し、実際には検証可能な要素が含まれていると述べています。
- マルクス理論の発展 – マルクス主義も20世紀半ば以降に分析的マルクス主義や数理社会科学の影響を受け、歴史的唯物論の命題を具体的なモデルや統計的検証に落とし込む試みが続けられてきました。ポパーの批判は古典的な歴史唯物論の一面に当てはまるものの、全てのマルクス経済学が科学性を欠くとする見方には反論があります。
要約
- ポパーは科学と非科学を区別する基準として「反証可能性」を提唱し、普遍命題は一つの反例があれば棄却すべきだと主張した。
- 彼はアインシュタインの相対性理論のように大胆な予測が実験で検証される理論を科学の理想とし、あらゆる事象を説明できるが具体的な反証条件を定めない精神分析や、外れた予測をアドホックな仮説で補うマルクス主義を「科学ではない」と批判した。
- ただしポパーの理論には「観察は理論依存的で反証の合意が難しい」「科学者は一つの反証で理論を捨てない」「精神分析やマルクス理論の一部には検証可能な要素がある」などの批判や再評価もある。
- 現在では、ポパーの反証主義は科学哲学の重要な一画を占めながらも、多様な方法論の一つとして捉えられており、マルクス経済学や精神分析の評価も単純な二分法ではなく検証可能性や実践的有効性を踏まえた議論が続いている。
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