中原中也が日記に書き残した「天才とは自分自身であった者である」という言葉は、彼の芸術観や人生観を凝縮したものであり、彼自身の生き方からも裏付けられている。彼は詩人として生涯を通じて働かず、履歴書に「詩生活」とだけ記して面接官に「それ以外に私の人生に意味がありますか?」と返した逸話が残っている。このように彼は社会的な成功や出世への野望から距離を置き、詩作に身を捧げた。日記では「天才とは野望の形式から遠かった人」であり、「悪にして野望の形式を持たぬものはない」と綴り、野望(外的な成功への欲望)が人を卑屈にし芸術を悪しきものに変えると考えた。
テーゼ(正):自分自身であることが天才である
中也にとって「自分自身であること」は、周囲の評価や流行、社会的な役割に左右されずに、自らの感受性や魂の声に忠実である姿勢を意味する。恋人に宛てた手紙では「自分自身でおありなさい。弱気のために喋ったり動いたりすることをやめなさい」と書き、周囲に迎合せず沈黙の時間を持つことで、自分の内奥に潜む「アプリオリ(先天的なもの)」が動きだし、歌うことができると励ましている。彼にとって表現とは「描写」ではなく「自分自身であることの褒賞」であり、芸術とは自己の弱みと闘うことだと語る。日記ではさらに、「天才にあって能才にないものは信仰であろう」と述べ、芸術の真価は専門的な技能以上に、永遠を見通す精神や信仰心(広義の内的な絶対への信頼)に基づいていると主張した。こうした考えから、中也にとって天才とは「自分自身であろうとする誠実さ」そのものであり、外的な成功や野望から解放された存在と捉えられる。
アンチテーゼ(反):才能・努力・野望こそが天才を生む
一般的には、天才は並外れた才能や努力、強烈な野心を持つ人物として語られることが多い。社会的な成功や作品の評価が天才の証しとされ、成果を挙げるためには他者との競争に勝ち、多くの人に認められる必要があると考えられている。かつてエジソンが「天才とは1%のひらめきと99%の努力」と述べたように、多くの人が努力や技術の研鑽、綿密な計画を通じて「非凡さ」を獲得すると信じる。野望や功名心は原動力として肯定的に評価され、「自己実現」も社会的承認を伴うことが前提となることが多い。この観点からは、中也のように働かずに親の仕送りで暮らし、酒に溺れて周囲と衝突する生き方は「天才」という称号にふさわしくないと見なされる可能性すらある。自分に忠実でいることが必ずしも実践的な才能や成果につながるとは限らず、放縦や孤立に陥る危険もある。
止揚(合):自分自身の追求と外的世界との弁証法
弁証法は、対立する命題を葛藤の中からより高い次元で統合する思考方法である。中也の命題「天才とは自分自身であった者である」と、社会的成功や努力・才能といった一般的な天才観を対立項として捉えるならば、両者を統合する道は「自分自身の追求と外界との関係のなかで自己を生成し続けること」である。
中也が否定したのは、他者の価値観に迎合する「形式化された野望」であって、自己の内から生まれる願望や表現まで否定したわけではない。彼自身、詩人として名を残したいという願いを持ち、パリでの留学や詩誌への投稿など積極的に活動した。日記では「全ての書は読まれた。それ故人生が始まらねばならぬ」と、新たな役割への挑戦を神に切望している。つまり中也は、外的な野望を盲目的に追うのではなく、内的な衝動に導かれて自己を展開させることを求めたのである。
この視点から見ると、天才とは「自分自身であり続けることを通じて社会と関わり、新たな価値を創造する人」と言い換えられる。自分に忠実であるためには、社会的な慣習や他者との葛藤を引き受け、その矛盾の中で自己を鍛えていかなければならない。中也が酒癖の悪さや激情に悩みつつも詩作を止めなかったように、内面の弱さと向き合いながら言葉を掘り起こす過程自体が弁証法的な営みである。そこで必要となるのが彼の言う「信仰」であり、永遠を見通すような深い確信があるからこそ、外的な評価に左右されずに自己を貫ける。
したがって、弁証法的に考えると「自分自身であった者」とは単に頑固に我を通す人ではなく、内と外の矛盾や葛藤を引き受けつつ自己を生成し直す人であり、野望や評価を否定するのではなくそれらを止揚する人である。中也が残した言葉は、芸術家に限らず誰にとっても、個性と社会の間で揺れ動く自己を高次へと昇華するための指針となり得る。
要約
中原中也は「天才とは自分自身であった者である」と述べ、自分の魂に忠実に生きることこそが芸術家の本質だと考えた。彼は就職や出世といった「野望の形式」から距離を置き、詩作に身を捧げた。その姿勢は恋人への手紙でも「自分自身でおありなさい」と繰り返され、表現は描写ではなく自分であることの褒賞だと説いた。一方で一般には、天才は才能や努力、野心に基づいて社会的な成功を収める人とみなされがちであり、自分の内面に閉じこもるだけでは成果につながらないとの反論も存在する。弁証法的にこの対立を統合すると、天才とは自分自身であり続けることと社会的活動を往還し、内外の矛盾を乗り越えながら独自の価値を創造する存在と位置づけられる。中也の言葉は、自己の弱さと向き合いながら他者との関わりの中で自己を磨くことの重要性を示している。

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