はじめに:
現代のグローバル・ガバナンス(地球規模の統治)においては、第二次世界大戦後のブレトンウッズ体制以来、米ドルを中心とした多国間協調体制が長らく維持されてきた。単一の基軸通貨であるドルが世界経済の潤滑油となり、各国は共通のルールや制度の下で協調してきた。しかし近年、米ドルへの過度の依存を見直し複数の基軸通貨を認める多通貨主義への関心が高まっている。これは国際通貨体制の多極化とも言え、ドル一極体制への批判と、新たな均衡への模索である。本稿では、このドル主導の多国間協調(正)とドル依存脱却の多通貨主義(反)の対立を整理し、両者を統合する将来像(合)を弁証法的視点から論じる。経済的・政治的課題と可能性を踏まえ、より公平で持続可能な国際通貨秩序への展望を示したい。
正:ドル主導の多国間協調体制の役割と意義
20世紀後半の国際経済秩序は、米ドルを軸に据えた多国間協調によって支えられてきた。1944年のブレトンウッズ協定の下では、各国通貨はドルに固定され、ドルは金と交換可能とされた。このドル主導体制により各国は共通の基準で通貨価値を安定させ、戦後復興と世界貿易の拡大を図ったのである。たとえ1971年に金とドルの交換が停止されブレトンウッズ体制が終焉して以降も、ドルはデファクトの国際基軸通貨として機能し続けた。
ドル中心の協調体制には経済的メリットが多く指摘できる。第一に、国際取引の決済や資産保有において共通通貨があることで、為替リスクや取引コストが低減し、世界経済における資本・貿易の円滑化が促進された。企業や国家はドル建てで価格設定や貯蓄を行うことで、異なる通貨への両替を頻繁に行わずに済み、国境を越えた経済活動が容易になった。第二に、グローバルな流動性供給の面でドルは中心的役割を果たした。例えば金融危機時には、アメリカ連邦準備制度(FRB)が世界の「最後の貸し手」としてドルの流動性を供給し、多国間の通貨スワップ協定を通じて国際金融システムを安定させた。こうした協調行動は、単一の強力な通貨が存在するからこそ可能となる側面がある。各国中央銀行がドル準備を蓄積し、非常時に備えることは国際公共財としてのドルの信用を支えてきた。
政治的側面においても、ドルを軸とする多国間協調体制は国際秩序の安定装置となってきた。戦後の国際通貨基金(IMF)・世界銀行体制や、その後のG7・G20といった枠組みでは、米国が経済大国として主導権を握りつつも、多国間の合意形成を重視する仕組みが整えられた。ドルの信用維持という共通利害の下で、各国は通貨政策や貿易ルールについて協議し協調するインセンティブを持ったのである。米国は自国通貨を基盤に世界経済を牽引する代わりに、通貨の安定と市場の開放という責任を負ってきた(しばしば「発券国の責務」とも呼ばれる)。結果的にドル体制は冷戦期から現在に至るまで、自由貿易体制や資本移動の拡大と歩調を合わせ、グローバル・ガバナンスの金融的基盤として機能したといえる。これは弁証法的に見れば「正」としての立場──すなわちドル一極体制と多国間協調の親和性を強調する視点であり、単一通貨による統合が安定と繁栄の礎になっているという主張である。
反:ドル依存の弊害と多通貨体制への希求
しかし、このドル中心の国際体制には長年にわたり蓄積された歪みや不満も存在する。ここに現れるのが「反」としての視点、すなわちドル依存からの脱却を訴える多通貨主義的アプローチである。ドル一極体制の弊害としてまず経済的に指摘できるのは、国際収支の不均衡と金融不安定性の問題である。米ドルが基軸通貨であることにより、アメリカは巨額の経常赤字や対外債務を比較的容易にファイナンスできてしまう(1960年代に仏蔵相ディストアンが指摘した**「法外な特権」**の享受)。これは裏を返せば、世界全体が米国の赤字を吸収しドル資産を蓄積する構造であり、米国経済の動揺がそのまま世界の流動性危機に直結する脆弱性を孕む。実際、1970年代のドル危機や、2008年のリーマンショック時に見られた急激なドル需給のひっ迫は、ドル体制の不安定さを露呈した。また、ドル高・ドル安の変動は新興国に資本の洪水と干ばつを交互にもたらし、各国の金融政策は自国経済よりも米FRBの動向に左右されがちであった。これは一国(米国)の政策に世界が引きずられる不公平さであり、新興国からは「自国の経済運営が他国通貨に縛られる」との不満が噴出してきた。
次に政治的問題として、ドル支配による覇権構造への批判がある。基軸通貨発行国である米国は、その地位を地政学的な影響力の道具としても活用してきた。例えば国際決済網(SWIFTなど)やドル決済機能へのアクセスを制限する経済制裁は、米国の外交戦略の一環として行使されている。ドルが国際金融の基盤である限り、制裁対象国は貿易や金融取引から締め出され大きな打撃を受ける。近年のイランやロシアに対する制裁では、ドル体制への組み込み度合いがそのまま脆弱性となることが明確になった。このように、ドル依存は非米諸国にとって政治的主権や安全保障上のリスクともなりうる。そして米国自身も国内政治の都合で自国優先の金融政策(量的緩和や急激な利上げ)を行えば、世界経済全体へ副作用が及ぶ。これらの点で、単一通貨覇権への反発が各国に蓄積している。
こうした背景から、国際社会では多通貨主義への希求が高まっている。多通貨主義とは、米ドル以外の複数の通貨が国際的な価値尺度や決済手段として併存し、その地位を認め合う体制を指す。例えば欧州連合のユーロはドルに次ぐ第二の基軸通貨として一定の地位を築いており、中国も人民元の国際化を積極的に推進している。各国の通貨当局はドル建て資産から分散するため、ユーロ・円・元・金などへの外貨準備シフトを徐々に進めてきた。下図に示すように、近年20年で世界の外貨準備に占める米ドルの割合は漸減傾向にある(青線は名目シェアの推移を示し、おおむねかつての70%超から60%弱へ低下)。この減少分をユーロや円が完全に肩代わりしたわけではないが、カナダ・豪ドルや人民元など「非伝統的」な通貨への分散が進んでいることが確認できる。各国がドル一極依存からリスクを分散しようとしている証左であり、世界的な**脱ドル化(デドル化)**のトレンドとも呼ばれる現象である。
加えて、新興国主導でドル以外の決済網・金融インフラを整備する動きも顕在化している。例えば中国は独自の国際決済システム(CIPS)を構築し、ロシアもSWIFT代替の通信網やルーブル建て取引の拡大を進めてきた。BRICS諸国(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)は加盟国間で自国通貨による貿易決済を増やす構想を掲げ、共同の決済プラットフォームやデジタル通貨の活用を模索している。これらはドル体制外での相互融資・決済を可能にし、地域・ブロックごとの通貨圏を形成する試みといえる。またIMFにおいても、複数通貨の価値を組み合わせた特別引出権(SDR)の活用が見直され、危機時のSDR増資による国際流動性支援などが議論されている。すなわち「反」の立場からは、国際通貨秩序の多極化こそが不均衡と不公正を是正し、各国にとって安全網を広げる道だと映るのである。
もっとも、多通貨体制にも克服すべき課題があることは認めねばならない。複数の基軸通貨が並立すると、為替相場の変動要因が増し国際取引の複雑性が高まる懸念がある。ドルという単一基準があった頃と比べ、貿易や投資でどの通貨を用いるか交渉やヘッジが必要になる場面も増えるだろう。また主要通貨発行国同士が金融・為替政策で対立すれば、通貨ブロック化や通貨戦争を招き、世界経済が分断される恐れもある。政治的にも、基軸通貨の地位をめぐる競争は国際権力闘争の新たな火種となりかねない。米国はドル覇権を容易に手放さない一方、中国や欧州も自国通貨圏の影響力拡大を図るため、国際ルール作りで衝突するシナリオも考えられる。要するに「反」の主張には正当性があるものの、現行の多国間協調の枠組みを崩してしまえば、かえって世界経済の協調が損なわれるリスクも孕むのである。従って、多通貨主義の理想を追求するにせよ、それを無秩序に進めれば逆効果になりうる点を認識しなければならない。ここに正反両論の緊張関係が存在する。
合:多国間協調と多通貨主義を統合する未来志向の構想
正反二項の対立を踏まえつつ、最終的に目指すべきは多国間協調と多通貨主義の統合である。これは弁証法的な「合」の段階、すなわち両者の長所を活かし短所を克服する新たな国際通貨体制への昇華だと言えよう。具体的には、ドルのような単一通貨による安定と利便性を維持しつつ、複数通貨が公平に役割を果たせるような枠組みを設計する必要がある。キーとなるのは国際的な協調メカニズムの強化によって多通貨体制の秩序を担保することである。以下にその将来的な構想の一端を示す。
- 国際通貨制度のルール整備とIMF改革: 複数の基軸通貨が存在する前提で、IMFなど多国間機関で為替政策協調のルールを策定する。主要通貨国間で過度な通貨安競争を避け、相互に為替安定に責任を負う取り決めを強化する。またIMFのガバナンスも見直し、新興国の発言権拡大や融資枠・SDR配分の改革によって、より包括的な金融セーフティネットを構築する。SDR(特別引出権)の位置づけを高め、各国が外貨準備や決済にSDRを活用できる仕組みを整えることも一案である。ゆくゆくはSDRを拡張したグローバル通貨バスケットを創設し、これを国際決済や準備資産の中核に据える構想も現実味を帯びてくるだろう。そうなれば特定国家の通貨に依存せずに済み、世界全体で価値を支える真の意味で多国間的な基軸通貨が生まれることになる。
- 清算同盟やデジタル基盤の活用: 各国通貨の多様性を前提に、貿易収支の不均衡を調整する国際清算メカニズムを構築する。これはかつてケインズが提唱した国際清算同盟の現代版とも言えるもので、参加国は相互の債権債務を多国間で決済し、過不足を調整する仕組みに合意する。具体的には、多通貨建ての貿易決済を一括管理する決済プラットフォームを国際組織の下で運営し、必要に応じて流動性を供給する。昨今のフィンテック発展を踏まえれば、分散型台帳技術(ブロックチェーン等)や各国の中央銀行デジタル通貨(CBDC)を連携させたデジタル清算ネットワークを構想することも可能である。例えば将来的に「デジタルSDR」や各国CBDCを相互交換できるマルチCBDCブリッジが整備されれば、複数通貨間の決済は安価かつ迅速に行われ、ドルを経由しなくとも信頼性が担保されよう。技術を梃子にしたグローバル決済インフラの刷新は、多通貨主義と多国間協調を両立させる上で有力な選択肢となる。
- 地域協調とグローバル協調の接合: 欧州連合やASEAN+3(東アジア)のように、地域レベルで通貨・金融協力を深化させる動きも多通貨体制移行の足場となる。たとえば東アジアでは各国が資金を拠出して為替防衛に備えるチェンマイ・イニシアティブ(CMIM)が発足しており、これはミニIMFとも評される地域セーフティネットである。将来、こうした地域協定間を連結し、グローバルに協調させる仕組みを作れば、世界全体で複数通貨を支えるセーフティネットのネットワークが形成されるだろう。地域通貨圏ごとの協力が成熟すれば、それらを束ねる形で国際協調を行うことができ、より多層的で強靭な通貨ガバナンスが実現する。これは、一国覇権ではなく多国間の合意による秩序という点で、政治的正統性も高まるメリットがある。各地域の声が反映された調整メカニズムであれば、新興国も自らルール形成に参加している実感を持て、協調へのインセンティブが増す。
以上のような未来志向の構想を実現するには、経済的・政治的課題の克服が前提となる。経済的には、移行期における市場の混乱や投機リスクを抑えるため、各国が一定の規律(マクロ経済政策の対話、資本規制の協調等)を守る必要がある。政治的には、主要国の利害調整と信頼醸成が不可欠である。米国にとってはドル覇権の相対的後退を受け入れる代わりに、他国と負担や権限をシェアする覚悟が求められる。一方、新たに台頭する国々も、自国通貨の国際化に伴う責任(為替の安定維持や透明性向上)を果たさねばならない。要は、相互承認と妥協の上に成り立つ協調体制へのアップデートが必要なのである。これは簡単ではないが、不可能でもない。過去を振り返れば、戦後の多国間体制も各国の妥協と英知によって築かれた経緯がある。同様に21世紀の現状に即した新秩序も、現体制への「反」の提起を糧にしつつ、「正」の知見を活かした形で創造される余地があるだろう。
結論:
グローバル・ガバナンスにおける多国間協調体制と多通貨主義の整合性は、一見すると単一通貨主導 vs. 通貨多極化という対立に映る。しかし、弁証法的に考えれば、この対立はより高次の統合へ向かう契機となりうる。ドル中心の協調体制が提供してきた安定と、複数通貨体制が志向する公正さを両立させるには、国際社会の創意と協調が求められる。未来志向で考えるならば、単一の覇権通貨に依存しないがゆえにより強靭で包摂的な多元通貨秩序を、多国間のルールと制度によって築き上げることが可能だ。それはドル一極と決別するだけでなく、各通貨が責任と役割を分かち合う新しい協調モデルである。経済的・政治的困難は伴うものの、その克服に向けた対話と制度設計こそが次代のグローバル・ガバナンスの課題と言えよう。正・反・合のプロセスを経て生まれるこの統合的ビジョンは、国際社会に公平さと安定をもたらす新たな地平を拓く可能性を秘めている。
要約
以下に要約を示します(約500字):
現代の国際通貨体制は、米ドルを基軸とした多国間協調(正)によって安定を支えてきたが、ドル依存の弊害(反)――例えば経済的偏在、金融不安定性、制裁手段としての通貨使用――への反発から、**多通貨主義(複数基軸通貨体制)**が台頭している。しかし無秩序な多通貨化は、通貨間の競合・不協調を招きかねない。
これを克服するためには、**弁証法的統合(合)**として、秩序ある多通貨体制を多国間協調の下で構築する必要がある。SDRやIMF改革、CBDC連携によるデジタル清算ネットワーク、地域協調とグローバル協調の接続などにより、ドルの安定性と多通貨主義の公平性を両立させる国際制度を目指すべきである。
このような統合的ビジョンは、ドル一極支配の限界を乗り越え、多元的・包摂的な通貨秩序の創造へと道を拓く新たなグローバル・ガバナンスの形である。
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