正:安全資産としての米国債と高金利の魅力
米国債(米国政府債券)は世界で最も信用力の高い安全資産の代表格です。米国政府の「完全信認」(full faith and credit)によって裏付けられており、法的にも強固な履行保証があるため、デフォルト(債務不履行)の可能性は極めて低いとみなされています。この絶対的な信頼性に加え、市場規模が桁違いに大きく流動性(売買のしやすさ)が高いため、いつでも現金化できる点も魅力です。中央銀行など各国の公的機関から民間の機関投資家まで、多様な海外投資家がこうした米国債の流動性と信頼性に価値を見出し、外貨準備や資産ポートフォリオに組み入れてきました。実際、全米国債の約30%(約8兆ドル)を外国人投資家が保有しており、この厚い需要基盤が米国債市場の安定を支えています。
さらに近年は、米国の金利水準の上昇も投資マネーを引き付ける大きな要因となっています。インフレ高進に対応する米連邦準備制度理事会(FRB)の利上げなどにより、米国債の利回り(市場金利)は長期債で数十年ぶりの高水準に達しました。例えば2025年には30年物国債利回りが一時5%台に乗せ、2007年以来の高い水準となっています。欧州や日本の金利が相対的に低い中で、こうした米国債の高利回りは魅力的な投資収益源です。「安全性が高く、なおかつ利息も多くもらえる」資産として、世界中から資金が米国債に向かう構図が強まっています。実際、市場の不確実性が高まる局面では**「有事のドル買い・米債買い」と呼ばれる現象が繰り返し起きており、最近数年間も市場変動が激しい局面で海外投資家が米国債保有を増やす動きが確認されています。たとえ為替ヘッジ(為替変動リスクの遮断)によって利回りメリットが薄れても、安全で流動性の高い米国債への需要は根強いことが示されています。以上のように、「米国債は世界で最も安全で、しかもいまや利回りも高い」という魅力が、多額の海外マネーを引き寄せる命題の肯定面(正)**と言えます。
反:財政赤字・債務膨張による信認低下と市場リスク
しかし、その米国債の「安全神話」にも揺らぎが生じつつあるのが現状です。背景にあるのは、米国の巨額財政赤字と債務残高の膨張という構造問題です。近年、米国政府は歳出拡大と減税の組み合わせなどにより年間で約2兆ドル規模の赤字を計上しており、国債発行残高は累計で約36兆ドル(約10年前の4倍)に達しています。金利上昇に伴って国債の利払い負担も急増し、2025年度には利払いだけで約1兆ドルと、歳出の大きな部分を占めるまでになっています。これは国防費に匹敵する規模であり、政府財政を圧迫する要因です。こうした状況に対し、信用格付け機関も懸念を強めています。2023年にはフィッチが米国債の格付けを引き下げたのに続き、2025年5月にはムーディーズも米国の信用格付けを引き下げました。ムーディーズは、財政赤字の固定化や債務の膨張が信用力を低下させるリスクを指摘しており、米国債の絶対的な信頼性に疑問符が付き始めたことを示しています。
このように財政面の脆弱性が露呈する中で、米国債市場に対する信認も徐々に変化しています。著名投資家のレイ・ダリオ氏は2025年、「米国は今すぐ財政赤字削減に取り組まなければ、数年以内(おおよそ3年後)に深刻な債務危機、いわば経済の“心臓発作”に見舞われるリスクがある」と警鐘を鳴らしました。実際その頃、米議会では大型減税・歳出法案(通称「ビッグ・ビューティフル・ビル」)が審議されていましたが、これが今後10年間でさらに数兆ドル規模の赤字を追加するとの試算も出ています。ダリオ氏は「状況は急速に変化しており、今後3年程度で手に負えない危機的状況に陥る可能性がある」と述べ、米国債の需給バランスが崩れることを特に懸念しました。政府が膨大な国債を追加発行せざるを得ない一方で、「おそらく(それを買い支えるだけの)十分な需要はないだろう」と指摘し、米国債の売りオーバー(供給過剰)状態による金利急騰や市場混乱のリスクを示唆しています。つまり、「安全資産」であるはずの米国債が量的拡大と収益悪化によって信認を失いかねないという逆説的な状況が現れているのです。投資家にとっても、米国債が本当に安全なのか再評価を迫られる局面になりつつあります。
信認低下の兆候は、国際資金の流れにも表れています。従来、地政学リスクや市場不安が高まると資金が集まっていた米国債市場ですが、最近では米国の財政ファンダメンタルズ悪化や政策の不透明感から、外国人投資家が米国債への過度な依存を見直す動きも出ています。実際、2025年4月には米国債・米国株からの海外資金の純流出が約142億ドル記録されるなど、一部では資金引揚げの兆しも報告されました。また、米国の財政悪化やインフレリスクを嫌気して、投資資金の分散が進んでいます。例えばヨーロッパの機関投資家は米国債からドイツ国債(ブンド)やフランス国債といった代替先へのシフトを検討し始めています。ドイツは主要先進国で唯一政府債務残高が対GDP比で100%未満に抑えられており、財政健全性という観点で相対的に安心感があることが背景にあります。日本やシンガポールなどアジアの投資家も、自国通貨建て債券や他国の高信用国債などへの分散投資を模索する声が聞かれます。さらに、米国の政治的要因も無視できません。赤字削減策として本来必要とされる増税や歳出カットは政治的に極めて困難であり、与野党の対立が激しい現在の状況では抜本策が打ち出せないでいます。ダリオ氏も「共和・民主双方とも問題は認識しているが、政治があまりに硬直化し妥協ができないため、持続可能な解決策が取れない」と指摘しています。この政治的限界は市場にとっても不安材料であり、将来的に米国債の信用低下に拍車をかける可能性があります。
以上のように、「米国債の安全性と高金利による資金流入」という命題には、**その基盤を揺るがす反対要因(反)**が存在します。財政赤字と債務累増による米国債の信認低下、市場での需給バランス悪化リスク、そして政治的な対策不能状態という三重苦が、米国債市場に暗い影を落としているのです。
合:矛盾の中での市場均衡と今後の展望
米30年国債利回りの推移(2005〜2025年)。2025年5月時点で約4.9%に達し、2007年以来の高水準となっている。低金利時代に積み上がった巨額債務に対し、市場は金利上昇という形でバランスを取り始めたことを示す。
安全資産として資金を集めながら、一方で債務膨張により信認低下の懸念も生じている――この矛盾の中で、市場は微妙な均衡を保とうとしています。現在の米国債市場では、巨額の国債を消化するために投資家が納得するだけの金利上昇が起きています。利回りが上昇すれば債券価格は下落しますが、投資家にとっては将来の利息収入が増えるため、多少の信用不安があっても「これだけ利回りが良ければ買おう」という動機付けになります。実際、2025年時点で米長期金利は約15~20年ぶりの高水準となり、市場は「財政赤字で増えた国債をさばくには、それだけ高い金利(リターン)を提示せざるを得ない」ことを示唆しています。言い換えれば、国債の供給増大と信用低下リスクを織り込んだうえで、金利水準を引き上げることで需要との均衡を図っているのが現在の市場と言えます。この過程では、国債利払い費用の増加という形で米国政府の財政負担も増しますが、少なくとも当面は市場メカニズムが機能することで急激な破綻は回避されている状況です。
もっとも、この均衡は綱渡りであり、長期的に持続可能とは言えません。米国債に対する需要が将来にわたって安定的に確保できるかは未知数であり、債務残高が経済規模に対してさらに膨らめば、いずれ投資家の信頼が限界を迎える可能性も指摘されています。「外国人投資家による米国債離れ」は今のところ段階的・限定的であり、「分散こそすれ一斉売却には至っていない」という分析もあります。これは、米国債に代わる十分な受け皿が直ちには存在しないことや、ドルが基軸通貨として依然支配的であることが背景にあります。事実、米国債市場にはFRB(米連邦準備制度)が最後の貸し手・買い手として介入する手段も用意されています(例えば海外当局向けのFIMAレポファシリティなど)。極端な金利急騰や流動性枯渇の際には中央銀行が市場安定化を図る余地があるため、一定の安心感が残っています。こうした要因により、市場は「今すぐに米国債が信認崩壊する」とまでは織り込んでいません。リスクプレミアム(信用リスクを反映した上乗せ金利)がじわじわと高まる形で、現状の矛盾を市場は受け止めていると言えるでしょう。実際、米国債のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)など信用リスク指標も、他の先進国より高めではあるものの、現時点では市場が完全に米国債を見放した水準には達していません。
しかし、将来に向けては二つのシナリオが考えられます。第一のシナリオは、米国が超党派の政治決断によって財政赤字を縮小させ、債務残高の増加を経済成長に見合う範囲に抑制する道です。増税や歳出削減によって赤字を減らし、債務の対GDP比を安定させられれば、市場の信認は回復し金利も適正水準に落ち着く可能性があります。ダリオ氏も「赤字をGDP比3%程度に削減し、税収増と歳出減、さらには低金利政策によって持続可能性を回復させる必要がある」と提言しています。もっとも、この道筋は政治的ハードルが高く、実現には国内の強いコンセンサスと指導力が求められます。
第二のシナリオは、財政改善が進まないまま市場の信頼が限界を迎えるケースです。この場合、市場発のショックによって均衡が崩れる可能性があります。例えばインフレが再度高進し国債利回りが急騰する、あるいは何らかの政治的不測事態で米国債の債務不履行リスクが意識される、といった状況です。ダリオ氏は最悪の場合として、米政府が債務の維持に行き詰まり「債務の再編(実質的なデフォルト)に踏み切る可能性」さえ指摘しています。極端な例では、海外の大口保有者(外国政府など)に対して制裁的に利払い停止や元本繰延べを行う、といったシナリオです。現実にそこまで至らなくとも、中央銀行による事実上のマネタイゼーション(国債の貨幣化=大量の紙幣発行による国債引受け)はインフレとドル安を招き、米国債の実質的価値を損なう危険があります。いずれにせよ、市場の信頼という見えざる支柱が折れるとき、世界の安全資産の象徴であった米国債も大きくその地位を揺るがすことになるでしょう。
結論として、米国債は「安全だからこそ世界中から資金が集まる」が、「集まりすぎた結果、膨張した債務がその安全性を脅かす」というジレンマを抱えています。現状、市場は高金利を通じた資金誘引と中央銀行の支援余地によって辛うじて均衡を保っていますが、その裏でリスクプレミアムは高まりつつあります。米国債の信用低下が臨界点を迎えるのか、それとも政治・政策対応でソフトランディングするのか——その行方は世界経済にとって極めて重要な関心事となっています。読者としては、米国債という一見堅固な土台にも綻びが生じ得ることを念頭に、グローバルな資金フローの動向や政策当局の舵取りを注視する必要があるでしょう。
要約
- 米国債の魅力(正): 米国債は米政府の信用によって支えられた安全資産であり、流動性も高く、近年は金利上昇で利回りも魅力的になっています。そのため世界中の投資マネーが集まり、外国人保有比率も高水準です。不安定な時期には安全な避難先として資金流入が強まる傾向があります。
- 信認低下の懸念(反): 一方で、米国の財政赤字拡大と債務膨張が進み、国債の利払い負担も急増しています。政治的対立で財政健全化策が進まない中、信用格下げや海外投資家の米国債離れなど信認低下の兆候が現れています。レイ・ダリオ氏は「このままでは数年以内に債務危機(経済の心臓発作)が起こり得る」と警告しています。
- 市場均衡と展望(合): 現在、市場は金利上昇(高い利回り提示)によって国債への需要を維持し、均衡を保とうとしています。ただしこの均衡は不安定で、財政改善がなければ将来的な危機の可能性は排除できません。今後は、①財政改革によるソフトランディングか、②市場の信頼喪失によるハードランディングかの岐路に立っており、米国債市場の動向は引き続き世界経済のリスク要因として注目されます。
コメント