権限と予算の関係は、古くから「財布の紐を握る者が権力を握る」といった言い回しに象徴されるように密接である。つまり、財政を掌握することは、その集団や組織の意思決定を左右する力を持つことを意味すると考えられてきた。「権限は扱える予算の量である」という命題は、この考えを端的に表現したものと言える。本稿では、この命題をヘーゲル的な弁証法の枠組みに従い、定立(テーゼ)→反定立(アンチテーゼ)→統合(ジンテーゼ)の三段階で論じる。
定立:権限は扱える予算の量である
まず、「権限は扱える予算の量である」という定立について考える。この命題は、組織や社会において権限(公式に与えられた力や役割)が実質的に管理できる予算規模によって測定されるという見解を示している。実際、多くの組織では、役職ごとに承認できる予算の上限が定められており、より高位の役職者ほど大きな額の支出を決定する裁量が与えられている。例えば、企業では部長や役員が数千万のプロジェクト予算を承認できる一方、平社員にはごく小額の経費しか判断できない。また政府においても、大臣クラスは数兆円規模の予算を動かせるが、一担当官が自由にできる財源は極めて限られている。
こうした例は、扱える予算の大きさがその人の地位や影響力、すなわち権限の大きさを示す有力な指標になっていることを裏付けている。権限とは言い換えれば、資金配分や財源をコントロールする力であり、ゆえに「どれだけの予算を動かせるか」によってその力の強弱が測られるという考え方が成り立つ。
反定立:権限は予算だけでは測れない
しかし、「権限=扱える予算の量」という見方には、重要な側面が見落とされているとの反論も成り立つ。権限とは本来、組織や集団内での意思決定権や影響力を意味し、その本質は必ずしも金銭に還元できるものではない。
第一に、権限を持ちながら予算を直接扱わないケースも多々存在する。例えば、裁判官や警察官の権限は法律や規則を執行し人々の行動を左右する力だが、その行使にあたって自身が自由にできる予算額は問題とならない。また、知識や専門性に基づく「権威」は金銭とは無関係に人々に影響を与える力である。同様に、人望やカリスマ性によるリーダーシップも公式な予算権限が無くとも集団を動かし得る。
第二に、大きな予算を任されていても実質的な裁量が小さい場合がある。例えば、特定のプロジェクトで巨額の予算を管理する経理担当者は、その予算の使途をルール通りに配分する役割に過ぎず、創造的な決定権は制限されていることがある。つまり、予算の大きさが常に意思決定の自由度や影響力の大きさと一致するわけではない。以上のように、権限の本質は単なる予算の額では語りきれないという反定立が浮かび上がる。
統合:権限と予算の統合的見解
定立と反定立の双方を踏まえると、権限と予算の関係は一面的な図式では捉えきれず、両者を統合した包括的な見解が必要となる。統合の段階では、「扱える予算の量」は権限の重要な要素ではあるが、それだけが権限の全体ではないという理解に至る。すなわち、権限とは資源を配分し意思決定を行う力であり、金銭予算はその資源の代表的な一つに過ぎない。多くの現代社会の組織では、予算という形で資源を数値化・割り当てするため、権限の大小が予算額として可視化されやすい。しかし、統合的な視座から見れば、資源には人材、時間、情報、社会的信用など金銭以外のものも含まれる。真の権限は、こうした多様な資源を動員できる能力であると言えよう。この観点からは、「扱える予算の量」とは、権限の一側面——それも測定可能で客観的な側面——を表しているに過ぎない。
権限の本質は、予算配分権と意思決定権、さらにそれを正当化し遂行する責任や信頼といった要素が組み合わさった総合力である。したがって、予算を扱う力とその他の無形の力を兼ね備えてこそ真の権限と言えるし、権限を委譲する際には単に予算額だけでなく、その責任や影響範囲も考慮されるべきである。以上の統合的見解によって、私たちは「権限は扱える予算の量である」という命題を部分的に肯定しつつも、その限定を理解することになる。権限と予算は確かに強い相関関係にあるが、イコールではなく、権限の量を測る一つの物差しが予算なのだと総合できる。
まとめ
権限と予算には密接な関係があり、扱える予算の規模は権限の大きさを示す一指標となる。しかし同時に、権限は予算額だけに還元できない幅広い概念でもある。テーゼとアンチテーゼの検討を経て、権限とは「金銭を含む様々な資源を配分し意思決定する総合的な力」であるとの理解に至った。このように考えることで、「権限は扱える予算の量である」という命題の意味するところを適切に位置づけることができるだろう。
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