序論
良好な人間関係の築き方は、哲学者や心理学者の関心を集めてきました。人は関係の中で相反する欲求を抱えます。レスリー・バクスターとバーバラ・モンゴメリーが提唱した「リレーショナル・ダイアレクティックス理論」は、親密な関係には矛盾する傾向が常に存在し、その矛盾を扱うコミュニケーションが関係の質を決定すると説明します。同理論は、関係は単線的ではなく、変化と矛盾が常に存在し、コミュニケーションが矛盾を整理するために不可欠であることを前提としています。本稿では「良好な人間関係は相手への期待ではなく、自らの覚悟によって築かれる」という主題を、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの弁証法的手法で検討します。
テーゼ:自らの覚悟が人間関係を支える
カウンセラーのベッキー・レノックスは、カップルが関係を維持できない最大の要因は「個人の責任感の欠如」であると指摘し、感情や行動などに対する自己責任を持たないと関係の基盤が不安定になると述べています。さらに、個人の責任を欠く姿勢が「対立、混乱、停滞、被害者意識、ガスライティング、孤独」などの温床になると強調します。心理学者マレーらの研究は、パートナーに理想化された期待を抱くほど失望しやすく、期待と現実のギャップが不安や不満を高めることを示しています。つまり、相手に何かを求めるよりも、自分の覚悟と行動に責任を持つ姿勢が関係の安定につながります。
家族システム理論のボーエンによれば、健康な関係には「一体感」と「個の確立」という二つの力のバランスが必要です。『Psychology Today』の記事では、他者の期待に応えることと自己の幸福を育むことを両立させるために、「別個の自己として機能しながら他者と結びつく能力」が重要だと述べられています。自分の価値観や信念を維持しながら周囲の要求に対応できる「分化」を高めることが、他者への過度な依存や自己犠牲を防ぎ、関係維持に役立ちます。
リレーショナル・ダイアレクティックス理論は、矛盾する力の間での実践的な選択(プラクシス)が関係そのものを形成し、変えていくと説明します。人は関係の中で「開示するか秘密にするか」など対立する価値を調整しながら決断し、その主体的な選択が積み重なって関係が形作られるのです。したがって、他者を変えることよりも自らの覚悟と実践が良好な関係を支えるといえます。
アンチテーゼ:期待は関係に積極的な役割を果たす
一方で、適切な期待が関係を向上させるという研究も存在します。ジョン・ゴットマンは、心理学者ドナルド・バウコムの研究を紹介し、「人は期待した通りの扱いを受ける」と述べています。低い期待を持つ人はパートナーに粗末に扱われがちであり、高い期待を持つ人は相手から尊重されやすいことが示されています。これは、愛情や敬意を期待することが健全な関係構築に不可欠な基準であることを示します。
同記事では「十分に良い関係」において、互いに愛情と敬意を示し、誠実であることを期待するのが正当であるとされ、暴力や侮辱を容認しない高い基準が健全な境界の確立に役立つと説明しています。さらに、ローゼンタールとジェイコブソンによるピグマリオン効果の研究では、教師が生徒の能力を高く見積もると生徒の成績が向上することが示されており、ポジティブな期待が相互の努力や成長を促す可能性があることを示唆します。
弁証法的考察
「覚悟」と「期待」は相反するものに見えますが、実際には相互依存的な矛盾です。リレーショナル・ダイアレクティックス理論では、自律性と結びつきの軸として理解されます。自律性(覚悟)は、自分の価値観や行動に責任を持ち相手に依存しすぎない姿勢であり、結びつき(期待)は他者とのつながりを求め相手からの尊重や愛情を期待する心です。この二つは分離できず、互いに影響し合ってバランスを保ちます。
期待が極端に高すぎると現実とのギャップが広がり不満や不安が増します。逆に期待をすべて手放して覚悟だけに頼ると、パートナーからの不当な扱いを受け入れたり、自分のニーズを押し殺したりする危険があります。したがって、覚悟と期待の弁証法的な均衡が関係のダイナミズムを維持します。
総合:覚悟と健全な期待の統合
弁証法的に考えると、良好な人間関係は「自らの覚悟」と「健全な期待」を統合したものと理解できます。自己責任や自立心を持つことは関係の基盤を支え、他者を変えようとするより先に自分の行動を変える力を与えます。しかし同時に、パートナーに対して尊重や愛情を求める健全な期待を持つことは関係の質を高め、不適切な扱いを防ぎます。
実践のための方策
- 自己内省と境界設定: 自分の価値観や限界を見つめ直し、他者に対して明確に伝えることで、過度な期待や自己犠牲を避ける。
- オープンなコミュニケーション: ニーズや感情を率直に伝え、相手と協働して解決策を見つける姿勢が重要。
- 感情の自己調整と自己ケア: 他者に依存せず感情を調整し、自分を大切にすることで相手に健全なエネルギーを提供する。
- 柔軟性と相互依存: 関係は静的ではなく変化するものだと認識し、状況に応じて期待や覚悟を調整する。互いに頼り合いながらも個々の自立性を失わない「相互依存」の関係を目指します。
覚悟は自律性を支え、健全な期待は相互尊重を促します。両者のバランスを取ることで、矛盾や変化に満ちた人間関係を動的に調整しながら成長させることができます。
要約
- リレーショナル・ダイアレクティックス理論では、人間関係は変化と矛盾に満ち、コミュニケーションと実践が関係を形作るとされます。
- テーゼでは、個人の責任感と自己決定が関係の安定に不可欠であり、他者に責任を転嫁する姿勢が混乱や対立を生むことを示しました。
- アンチテーゼでは、適切な期待が関係を向上させることを指摘し、高い基準を持つことでより良い扱いを受けやすいと論じました。ただし、理想化された期待が高すぎると不満や不安を増大させます。
- ジンテーゼでは、覚悟と健全な期待をバランスさせることの重要性を示し、自己内省・境界設定・対話・感情調整を通じて関係の矛盾を乗り越えられると結論づけました。
人間関係において他者を変えることは難しいですが、自分自身の覚悟や行動は選択できます。自らの覚悟を持ちつつ健全な期待を抱き、その両極を統合することで成熟した関係を築くことができるでしょう。
コメント