序論
小林秀雄(1902–1983)は昭和期の文芸評論家で、日本における近代批評の確立者と呼ばれています。彼はボードレールやランボーらフランス象徴派の詩人に影響を受け、従来の談論風な批評や社会科学的なマルクス主義批評とは違い、批評行為そのものを意識化しました。本稿では、小林秀雄の歴史的役割を弁証法的に考察するため、功績と批判点を整理し、それらを総合して評価します。
テーゼ:近代批評の創始者としての功績
自覚的な文芸評論の誕生
昭和初期まで、日本語の文芸評論は随筆や論争文の延長で、作家が自身の作品や文学観を語るものが主流でした。小林秀雄は1929年、雑誌『改造』に発表した「様々なる意匠」で、文学の問題を言葉そのものの問題として捉え、従来の評論文が問題を提示・解決しようとするものだったのに対し、あえて問題解決を拒み、批評そのものの意義を問いました。彼は「文芸批評家も詩人や小説家と同様、批評を書くことが希(ねがい)である」と述べ、批評を創作に近い行為として位置づけたのです。
言葉の魔術への洞察
「様々なる意匠」で小林は「世に一つとして簡単に片付く問題はない」と述べ、言葉が持つ眩惑的な魔術を指摘しました。彼は「問題を提出したり解決したり仕様とは思わぬ」と言い、既存の文芸批評が見逃してきた事実を拾い上げようとしました。この姿勢は、文学を言語そのものの働きとして捉える象徴主義的な立場を示しており、後に彼が訳したランボーやボードレールの詩とも共鳴します。
近代批評の確立と影響
神奈川県立図書館の資料では、当時の印象批評やマルクス主義批評と異なり、小林の批評が批評行為自体を明確に意識化した点を強調しています。詩人でも小説家でもない「批評家」が登場したことは文学界に大きな衝撃を与え、彼の批評は文学者や思想家に広く影響を与えました。三島由紀夫は『文章読本』で、小林を「日本における批評の文章を樹立した」と評し、文体を持つ批評は芸術作品になると述べています。小林の批評は作品の意味を解説するものではなく、創造的営為として後続の批評家に範を示しました。
古典・芸術へのまなざし
小林はドストエフスキー論、モーツァルト論、ゴッホ論などを通じ、文学・美術・音楽の天才の精神に迫ろうとしました。資料によれば、彼は志賀直哉やドストエフスキーだけでなく、モーツァルトやゴッホ、セザンヌ、国学者本居宣長など幅広い人物を論じ、近代の文芸批評に欠かせない存在となりました。代表作『無常といふ事』では日本古典への志向を示し、無常観を通じて生の深層を捉えます。晩年の『本居宣長』では国学者の思想変遷を追い、源氏物語や古事記を読む過程を解読することで自身の批評を総合しました。こうした古典批評は、戦後の日本文学が西洋近代から日本の精神史へ視点を移すきっかけとなりました。
アンチテーゼ:批判される側面
戦争協力と政治的態度
小林秀雄の評価には、戦時下の活動が大きな批判対象として存在します。第二次世界大戦中、彼は「文藝春秋」特派員として中国大陸を訪れ、文学報国会の幹部として「文芸銃後運動」に参加し、戦争を支援するため日本国内や朝鮮・満州国を巡りました。真珠湾攻撃後には、開戦のラジオ放送を聴いて「清々しい気持ち」と感じ、「日本国民である自信が一番大きい」と述べています。1942年の座談会「近代の超克」では、京都学派の議論に参加し、近代科学を批判しました。
彼の思想はイデオロギーを無意味とする反理論主義であり、戦時中の講演では主義の不毛を説きました。こうした態度は、左翼批評家や自由主義者から「現実の社会矛盾から目を背け、宿命論に逃げ込んだ」と批判されました。
「戦争と平和」:戦争を人生と同一視
彼の戦争協力的な姿勢は、評論「戦争と平和」(1942年)に顕著です。研究者尾上新太郎によれば、小林は真珠湾攻撃の航空写真を見て「戦争と平和は同じものだ」と述べ、艦船が白い煙を上げる姿を「模型軍艦のようであり、驚くべき写真に驚くべきものが少しもない」と冷静に描写しました。そして縁側に座って青い海を眺めながら「太陽は輝き、海は青い。戦の時も平和の時も同じだ」と記し、戦場の兵士たちを仏の眼を得た人々のように讃えています。こうした戦争観は、戦争を倫理や政治の文脈から切り離し、自然や人生の一部として美化する危険性があると指摘されます。戦後、多くの文学者が戦争責任を問われる中、小林は「政治的には無智な一国民として黙って事変に処した」と語り、反省しませんでした。
反理論主義と宿命論への傾き
小林は主義や理論への不信から、マルクス主義や科学的思考を批判し続けました。神奈川県立図書館の評価では、彼の態度が政治党派的理解に対する批判の源泉となった一方、人間を超える状況を「宿命」と捉え、分析的な批評になっていないと指摘されています。批評の対象を自我の内面や歴史の必然と捉える姿勢は、後に吉本隆明らから「観念的で非歴史的」と批判されました。
ジンテーゼ:歴史的役割の再評価
小林秀雄の歴史的役割は、近代日本における批評の創始者としての功績と、戦時協力や宿命論的思考に象徴される問題点の両面から理解されるべきです。彼は象徴主義的感性によって文学の言葉に潜む魔術を暴き、評論を創作行為へと高めて近代批評の地平を切り開きました。その一方で、戦争を人生と同一視し、理論やイデオロギーを否定して宿命論に傾く姿勢は、批評家としての倫理と政治的責任の欠如を露呈させました。
弁証法的に見ると、彼の思想にはヨーロッパ近代思想の受容と日本的精神の回復という二つの極が存在します。初期にはランボーやベルクソンの思想を通じて「言葉の魔術」に自覚的であるべきだと主張し、近代的主体の探求を行いました。戦時下には「運命」「宿命」という言葉で歴史の必然を受け入れ、主義や理論を超えた実践を重んじました。晩年には本居宣長や日本古典へ回帰し、日本文化固有の感性に救いを求めました。これらは相互に矛盾しつつも、近代化と伝統回帰の間で揺れる日本の精神史そのものを映し出しています。
最後に要約
小林秀雄は、日本語による初の自覚的文芸評論を生み出し、批評を創作行為として定立した点で近代批評の父と呼ばれます。彼の批評は言葉の魔術への洞察に満ち、象徴主義の影響を受けながら文学者や思想家に大きな影響を与えました。しかし、戦時下には文学報国会の幹部として従軍し、真珠湾攻撃を「清々しい」と感じ、戦争と平和を同一視する宿命論的な文章を残しました。主義や理論を否定し、歴史の必然を受け入れる姿勢は政治的責任の回避と批判されました。弁証法的に捉えれば、彼は近代日本の批評精神を創出しつつ、その限界も体現した存在であり、近代化と伝統回帰の葛藤を象徴する歴史的役割を担ったと評価できます。
コメント