序論
20世紀末以降の新自由主義的政策では、政府の規制撤廃や金融市場の自由化に加え、中央銀行による金融緩和が資本主義の主な安定手段となった。特に2008年金融危機以降は各国の中央銀行がゼロ金利政策や量的緩和(Large‑Scale Asset Purchases, LSAPs)を続け、潤沢な流動性を金融市場に供給した。この政策は株式市場の上昇に大きく寄与している。2025年の研究では、米連邦準備制度の通常・非通常の金融政策(政策金利の変更、フォワードガイダンス、資産購入など)が米国株価に統計的に有意な影響を持つことが示され、LSAP のサプライズが株価に短期的な上昇を与えることが確認された。しかし、実体経済が弱含む中でも株価は上昇を続けており、この乖離は矛盾として社会に影響を与えている。本稿では新自由主義的マネタリズムが引き起こす株高と不況の共存を弁証法的に分析し、矛盾がどのように展開・解決される可能性があるかを考察する。
正:金融緩和と株価上昇
弁証法の「正」(テーゼ)として、中央銀行の金融緩和が株価を押し上げるメカニズムを整理する。
- 金融緩和の効果:米連邦準備制度の研究では、政策金利の引き下げやフォワードガイダンス、量的緩和などの「金融サプライズ」が米国株価に経済的に大きく、統計的に有意な影響を与えることが示されている。特に政策金利の目標レートや将来の金利見通しを示すフォワードガイダンスへのサプライズは株価上昇を持続させ、LSAP に関する予期せぬ発表は短期的な株価上昇をもたらすことが分かる。
- 低金利が株式を魅力的にする:長期にわたるゼロ金利政策や量的緩和によって借り入れコストが低下し、企業は低金利で資金を調達して株式自社買い戻しやM&Aに資金を使った。専門家は、中央銀行の低金利と量的緩和が資金供給を増やし、「実際の経済活動が必要とする水準を上回る貨幣増加は金融資産への需要を高め、価格を押し上げる」と説明する。資金供給が豊富な間、リスク資産はサイクルの前半で強く上昇する傾向がある。
- 企業業績の下支え:2025年第三四半期の米国企業収益はS&P500から“マグニフィセント7”を除いた 493 社で12%増益、マグニフィセント7企業でも23%増と堅調であり、資本市場はこの収益を株価に織り込んでいる。低金利環境は企業の財務コストを抑え、コスト削減・価格決定力・多様化したサプライチェーンなどを通じて高水準の利益を確保できる。
- 投資家心理とモメンタム:低金利で債券利回りが低い状況では、投資家はより高いリターンを求めて株式に資金を移す。あるファイナンシャルプランナーは、現在の金融政策が株高を支え、低金利が株式投資の魅力を高めていると指摘する。この環境では短期的な楽観やモメンタム追随が生じやすい。
反:実体経済の停滞と矛盾
弁証法の「反」(アンチテーゼ)として、株高が実体経済の停滞を覆い隠していることを挙げる。
- 株式市場は経済ではない:金融プランナーは「株式市場は経済そのものではなく、ウォール街が新高値を更新してもメインストリートは苦戦している」と指摘し、株価は企業収益に反応するが、中小企業や労働者の状況を反映していないと説明する。大企業は在庫やサプライチェーンを多様化し、コスト削減と資金調達力によって利益を維持している一方、関税やインフレは中小企業をより強く打撃し、これらの企業は指数に占める比率が小さいため株価に反映されにくい。
- 資産価格インフレとバブル:GISレポートは、資産価格インフレが低金利と量的緩和、過剰な借り入れによって引き起こされ、株価が企業の実質収益を超えて上昇していると分析する。中央銀行の量的緩和は人工的な流動性を生み出し、企業の借入と株式買い戻しを促進して株価を膨らませるが、この上昇はGDPなどの実体経済の指標を反映していない。資産価格インフレの典型的なメカニズムはカンティヨン効果であり、新しく創出された貨幣が銀行や大企業など貨幣供給源に近い主体に先に行き渡り、資産価格を押し上げるが、一般の消費者が受け取る頃には物価がすでに上昇している。この結果、資産を持つ富裕層が恩恵を受け、所得・資産格差が拡大する。
- 実体経済への影響と小企業の苦境:関税・インフレ・労働者不足や信用供給のタイト化は、中小企業にとって大きな負担であり、在庫を積み増す余裕もなく、大企業ほど指数への影響力を持たない。金融業界の見解として、金利上昇局面では借入コストの高騰が企業の利益を圧迫し、実体経済に逆風が吹くことが強調される。特に金利上昇は消費者の購買力を減少させ、住宅・自動車・消費財などの需要を冷やし、企業収益を低下させる。
- 不安定な社会影響:資産価格インフレは富裕層と一般市民の格差を拡大し、政治的不安や社会的亀裂を生む危険があると報告されている。大量の資金が金融市場に流入し続ける一方で、労働者の賃金や雇用は停滞し、社会不安が高まる。
矛盾の展開
株式市場と実体経済の乖離は、資本主義の矛盾が金融領域で露わになったものと考えられる。この矛盾は以下のような要因で拡大する。
- 貨幣供給と資産価格の循環:マネーサプライが実体経済の需要を上回ると余剰資金は金融資産に向かい、価格を押し上げる。しかし、実体経済が弱い場合、企業の投資や賃金上昇は抑えられ、需要不足のため景気回復が遅れる。この矛盾はバブル期の繁栄と不況期の逆転を繰り返す。
- 政策依存と市場の脆弱性:投資家が中央銀行の政策期待に依存するようになると、市場は政策変更に過敏に反応し、不安定性が増す。2025年10月の金融市場では、米連邦準備制度の追加利下げの確率が急低下したことで株式市場が一時急落し、政治や経済データに対する過度の敏感さが露呈した。政策が市場心理を左右する構造は、市場が実体経済からさらに遊離する要因となる。
- 利上げ局面の逆転:10年以上続いた超低金利が終わりを迎え、世界的に利上げが進むと、企業や消費者は高い借入コストに直面する。市場解説では、この利上げによって「超低金利の時代が終わり、安価な資金が資産価格インフレを生んでいた環境が変化している」と指摘される。過剰なバリュエーションで推移していた株式は、利上げにより割引率が上昇することで調整を迫られる。
- 金融中心の経済の持続可能性:金融市場中心の成長は、実体経済の産業・雇用創出を疎かにし、経済全体の基盤を弱める。企業が低金利を利用して自社株買い戻しに資金を投じることは、長期的な技術投資や設備投資を怠る原因となり、産業競争力を損なう可能性がある。
止揚:矛盾の解決に向けた展望
弁証法の「止揚」(アウフヘーベン)は、矛盾する要素を包含しつつ新しい段階に昇華させることを指す。株高と実体経済の不況の矛盾を解決するには、金融政策だけではなく構造的な改革が必要となる。
- 金融政策の正常化と協調:過度な金融緩和はバブルと格差を生むため、中央銀行は物価安定と金融安定のバランスを取りながら段階的に正常化を進める必要がある。市場解説は、2024〜25年に世界的な利上げが超低金利時代に終止符を打ち、金利が概ね3.5%程度に落ち着くと予想している。ただし、急激な利上げは不況を悪化させる可能性があるため、財政政策や規制政策との協調が不可欠である。
- 財政・産業政策による実体経済の強化:貨幣供給だけでは需要不足を解消できない。中小企業や労働者を支援する財政政策、産業政策、教育投資が必要である。例えば、公共投資や社会保障の強化により、総需要を押し上げ、金融市場以外の投資機会を増やすことで資本が実体経済に向かうよう促す。
- 規制改革と再分配:資産価格インフレが格差を拡大することを踏まえ、富の再分配や金融規制が求められる。カンティヨン効果により新たに創出された貨幣が銀行や大企業に集中する現象を抑えるには、富裕層や大企業への税制を強化し、所得移転を通じて資金を社会全体に循環させる必要がある。また、企業の自社株買い戻しに対する規制を強め、投資が研究開発や設備更新に向かうよう誘導することも一案である。
- 新しい金融秩序の模索:金融化の進展により「マネーが市場を動かす」状況が続く中、貨幣制度や金融システムのあり方そのものを再検討する必要がある。過剰な貨幣供給が資産価格のみを押し上げる現状に対し、デジタル通貨や公共銀行など新しい貨幣構造を活用して資金を実体経済に直接流す仕組みが検討されている。学者は、貨幣供給と経済活動の長期的な調和を図る金融改革が必要だと指摘している。
要約
新自由主義的マネタリズム下では、中央銀行の金融緩和により株価は長期的に上昇してきた。研究によれば、政策金利のサプライズやフォワードガイダンス、量的緩和などは株価に有意な影響を与え、低金利環境が株式投資を魅力的にしている。しかし、この株高は実体経済の停滞を覆い隠しており、関税やインフレ、信用条件の厳格化が中小企業や労働者を直撃している。低金利と量的緩和による資産価格インフレは企業の実質的な生産や雇用を伴わないまま株価を膨らませ、格差拡大やバブルを引き起こしている。
この矛盾は、余剰資金が金融市場に向かい続ける限り拡大し、政策に依存する脆弱な市場構造を生む。利上げが進めばバブルは調整を迫られ、実体経済の脆弱さが露わになる。矛盾を解決するには、金融政策の正常化と財政・産業政策の強化、再分配と規制改革、新しい金融システムへの移行など、広範な政策の組み合わせが求められる。株価と経済の乖離は単なる短期的な現象ではなく、現代資本主義が抱える構造的な矛盾であり、その止揚には経済制度全体の見直しが必要である。

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