はじめに
年末調整や源泉所得税の事務では、事業者が税務署や市区町村へ提出する多くの書類が存在する。所得税法などの法令に基づき提出が義務付けられているものは「法定調書」と呼ばれ、代表的なものとして源泉徴収票や各種支払調書、法定調書合計表などがある。一方で、**「給与等の支払状況内訳書」**という書類がしばしば実務に登場する。この書類は従業員ごとに月別の給与支給額・源泉徴収額などを一覧にした内訳表であり、一部の税務署が年末調整の際に提出を求めてきた経緯がある。しかし、この書類については法定調書か否か、提出義務があるのかといった疑問が現場で根強い。本稿では弁証法的な観点からこの内訳書の提出義務について論じ、最後に要点をまとめる。
テーゼ:提出義務があるという立場
「給与等の支払状況内訳書」に提出義務があると主張する立場の主な根拠は以下のとおりである。
- 税務署からの通知・慣行
歴史的に、特に大阪国税局や近畿地区の税務署では給与等の支払状況内訳書の提出が「お願い文書」として各事業者に送付され、法定調書合計表に添えて提出するよう求めてきた。源泉所得税の納付状況と年末調整後の過不足税額を確認するための資料として利用されてきたため、税務署からの案内を受けた事業者は事実上提出を強いられてきた。このような慣行の下では、提出しなければ税務署から問い合わせが来たり、源泉税の滞納者に対する督促資料が不足する恐れがあると考えられていた。 - 過不足税額の管理手段
年末調整では、一年間の源泉徴収税額の過不足を精算する。その結果、納めすぎた税額は翌月納付分から控除され、不足している場合は追加で納付する。従業員が年の途中で入社・退職した場合や副業・兼業で複数の支払者から給与等を得ている場合には、他社で支払われた給与と源泉徴収額も加味して年末調整を行う必要がある。内訳書は月別に給与と源泉徴収税額を一覧にするため、税務署にとって過不足税額の確認資料として便利であり、その提供を要請することに合理性があると言える。 - 滞納者への徴税強化
国税庁は源泉所得税の滞納管理を厳格化しており、滞納事業者に対しては過去の納付状況や従業員ごとの徴収状況を詳しく聴取することがある。給与等の支払状況内訳書は、源泉税の未納部分を明確にする資料として有効であるため、税務署が提出を指導するケースが残っている。実際、近年の企業向けQ&Aでも「源泉税を滞納している従業員に限り記載するよう書面に記載されている」という記述があり、滞納管理のために資料を求める事例があることが示唆されている。
こうした理由から、一部の実務家や税務署職員は内訳書の提出を当然と考え、事業者に対し提出義務があるように扱ってきた。
アンチテーゼ:提出義務はないという立場
これに対し、「給与等の支払状況内訳書」の提出は法的には義務ではないとする反論がある。主な論拠は以下のとおりである。
- 法令上の根拠が存在しない
所得税法や租税特別措置法などの関連法令には、源泉徴収票や各種支払調書を税務署に提出すべきことが明記されている。一方で、「給与等の支払状況内訳書」という名称の書類は法定調書の一覧や国税庁のパンフレットには登場しない。国税庁が公表する『給与所得の源泉徴収票等の法定調書合計表の書き方』など最新の手引でも、この内訳書に関する記載はなく、提出書類として列挙されていない。したがって、内訳書は法令に基づく法定調書ではなく、提出義務は存在しないと解される。 - 2009年以降の運用変更
2009年頃から国税局における運用が改められ、給与所得等支給状況内訳書の提出を求める運用が廃止された地域がある。当時の税理士向けニュースでは「今年から給与所得等支給状況内訳書の提出はなくなった」と明記されている。これは、以前に任意提出を求めていた地域が運用を見直し、不要としたことを意味する。実際、会計ソフトメーカー各社も給与等支払状況内訳書の作成機能を削除または「提出を要する国税局が少なくなっているため内訳書印刷機能のみ提供」といった形に変えている。 - 国税庁の電子申告・e‑Taxで受付対象外
e‑Taxの手引や国税庁の電子申告ソフトでは法定調書の電子提出が推奨されているが、内訳書は電子で送信するメニューが用意されていない。国税庁が電子申告の対象としないこと自体、法定調書ではないことの傍証になる。 - 他の法定調書で代替できる
源泉徴収票や法定調書合計表には、受給者ごとの支払金額や源泉徴収税額の合計を記載する欄が用意されている。給与支払報告書(個人別明細書)や従業員ごとの源泉徴収簿を見れば、月別の給与額や源泉徴収税額を把握することも可能である。このため、別途内訳書を提出しなくても税務署は必要な情報を取得できる。内訳書を提出させる必要性は薄いと考えられる。
このように、法的な規定が無い点や最近の運用状況を理由に「提出義務は存在しない」という見解が有力である。
総合:弁証法的な整理
弁証法は、相反する主張(テーゼとアンチテーゼ)を対立させ、その矛盾を乗り越える形で新たな合意(ジンテーゼ)を導く考え方である。本件については、次のように整理できる。
- 内訳書の歴史的背景 – かつては地域ごとの運用により、給与等支払状況内訳書が提出されていた。源泉徴収税額の過不足管理や滞納者の把握という行政的目的があったことは否定できない。
- 法的義務か行政指導か – 法令に基づく義務ではなく、税務署による行政指導やお願い文書として提出が求められていたことが確認される。このため、提出しなくても直ちに罰則が科されるわけではないが、求められた場合に協力しないと税務署との関係に影響する可能性がある。
- 現行運用の実態 – 国税庁の最新の手引や多くの税務署ではこの内訳書を不要としており、会計ソフトでも対応機能を削除している。提出を求める国税局は非常に限定的となったため、全国的には事実上提出不要と考えることができる。しかし、源泉税を滞納している場合や特定の事情がある場合には、税務署が資料の提出を求めることがある。この場合、内訳書形式の一覧表を任意で提出すれば合理的な説明資料になるため、事業者は柔軟に対応することが望ましい。
- 企業が取るべき姿勢 – 法的義務がないことを認識しつつも、源泉税の管理を円滑に行う観点から、社内では給与・賞与支給額と源泉徴収税額の月別一覧を整備し、求められた場合に迅速に提出できるようにしておくことが必要である。電子申告が主流となる中で、法定調書や源泉徴収票の作成・提出が適正に行われていれば、内訳書の提出の有無にかかわらず税務署から不備を指摘されることは少ないであろう。
おわりに
「給与等の支払状況内訳書」は、法令に基づく法定調書ではなく、歴史的に一部の税務署が行政指導の一環として提出を求めてきた資料である。近年は国税庁が公表する手引にもこの名称が登場せず、多くの税務署で提出が不要となっている。したがって、事業者に法的な提出義務が課されているとは言い難い。一方で、源泉所得税の過不足や滞納者の管理という行政目的から、特定の事情がある場合には税務署が提出を依頼することがあり得る。企業はこの経緯を理解し、必要に応じて内訳書を作成・提出できる体制を整備しておくことが適切であろう。
要約
- 「給与等の支払状況内訳書」は源泉徴収票や支払調書のような法定調書ではなく、法律上の提出義務はない。
- 過去には大阪国税局などが行政指導として提出を求め、源泉税の過不足確認や滞納管理に使われた経緯がある。しかし2009年頃から提出不要に改められ、現在はほとんどの税務署で求められていない。
- 国税庁の最新の手引や電子申告ソフトでは内訳書の作成・提出に関する記載がなく、会計ソフトメーカーも対応機能を削除していることから、全国的には提出義務が存在しないと考えられる。
- ただし、源泉所得税の滞納がある場合などには税務署が資料の提出を依頼することがあり、企業側が月別の給与支給額と源泉税額を整理しておくことは重要である。

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