金なき通貨の宿命:ニクソンショックからインフレ再来まで

1971年、ニクソン米大統領が金とドルの交換を停止し(いわゆるニクソンショック)、戦後続いたブレトンウッズ体制が崩壊しました。この出来事により世界の通貨制度は金本位制という錨を失い、各国通貨は変動相場制のもとで 管理通貨制度(不換紙幣制度)へと移行しました。その結果現れたのが、1970年代を特徴付ける世界的な高インフレの時代です。以下では、このインフレの時代とその後のディスインフレ(インフレ率低下)の時代を振り返りつつ、管理通貨制度に内在する課題について**弁証法的(テーゼ・アンチテーゼ・総合)**に論じます。

テーゼ: 管理通貨制度はインフレを招きやすい

金本位制から管理通貨制度への移行直後、各国でインフレ率が急上昇しました。米国ではニクソンショック後、ドルの信認低下や景気刺激策もあって物価が上昇し、1970年代後半には スタグフレーション(インフレと景気停滞の共存)に陥ります。これに対し、1979年に就任した米FRB議長ポール・ボルカーは、インフレ退治のため政策金利を一時20%近くまで引き上げるという強力な金融引き締め策(いわゆる「ボルカー・ショック」)を断行しました。その結果、1980年代前半にかけて米国のインフレ率は沈静化へと向かいました。

日本でも同様に、管理通貨制度への移行は深刻なインフレをもたらしました。ニクソンショック後の急激な円高に対応するための金融緩和策や、田中角栄内閣による列島改造論に基づく積極的な財政支出が重なり、さらに1973年の第1次石油危機が追い打ちをかけて、1974年には消費者物価が前年比20%超という異常な上昇(いわゆる「狂乱物価」)を記録しました。これは、日本経済において戦後初めてのマイナス成長と高インフレが同時に起きた例であり、管理通貨体制下で政策運営を誤ると激しいインフレに陥り得ることを示しています。

これらの事実が示唆するテーゼ(命題)は明確です。すなわち、実物資産(例えば金)の裏付けを欠く管理通貨制度では、通貨の価値が政策次第でいくらでも希薄化し得るため、放漫な政策をとればインフレ(通貨価値の減価)を招きやすいということです。1970年代の各国で起こったインフレの高騰は、管理通貨制度が持つインフレ誘発のリスクを如実に示したと言えます。

アンチテーゼ: ディスインフレ要因と物価安定の可能性

しかし一方で、管理通貨制度の下でも長期的に物価安定が保たれた時代が存在しました。1980年代後半から2010年代に至るまで、先進国を中心にインフレ率が低位で安定するディスインフレの時代が続いたのです。例えば米国では、ボルカー以降のFRBや各国中央銀行がインフレ目標の設定や金融政策の高度化を図り、過度なインフレを抑制しました。また、ITの進展やサプライチェーンの効率化など技術革新も生産コストを引き下げ、物価抑制に寄与しました。つまり、適切な金融政策運営と技術進歩により、管理通貨制度下でも通貨の信認を維持し、物価を安定させることは可能だとも考えられます。

特に注目すべきは、1990年代以降に進展したグローバル化(経済の全球統合)がもたらした構造的な物価低下圧力です。冷戦終結を象徴する1989年のベルリンの壁崩壊以後、市場経済に参入する国が急増しました。中国や旧東欧諸国、インドをはじめ、労働力人口の大きい新興国が世界市場に加わった結果、先進国企業は低賃金の労働力や安価な製造拠点を容易に活用できるようになりました。これによって世界全体で財や労働力の供給力が高まり、安価な輸入品の流入や生産コストの引き下げを通じて物価上昇圧力が和らいだのです。まさにグローバル化は 「安い労働力の供給」という形でディスインフレ(低インフレ)をもたらした と言えるでしょう。その結果、先進各国ではインフレ率が歴史的低水準となり、日本では物価上昇率がほぼゼロ%前後にまで低下しました。

この状況下で日本では、物価がほとんど上がらない状態を指して**「デフレ」と称し、経済停滞の要因とする見方が広がりました。1990年代後半以降の長期停滞(いわゆる「失われた20年/30年」)を経験する中で、「デフレからの脱却」が政策目標と掲げられ、政府・日銀には物価を押し上げる積極的な財政出動や大胆な金融緩和(量的緩和策など)を求める声が噴出しました。事実、多くの経済学者は持続的なデフレは需要を減退させ経済を停滞させる**と指摘し、物価上昇率2%程度の適度なインフレを維持することが望ましいと主張してきました。つまり、管理通貨制度には柔軟な金融政策運営によって不況時に大胆な景気刺激策を講じる余地があり、むしろ金本位制では実現し難い景気安定化が図れるというポジティブな側面もあるのです。実際、2008年の世界金融危機や2020年の新型コロナウイルス危機では、各国が大規模な金融・財政緩和を迅速に実行し、深刻なデフレ圧力や大不況を回避することに成功しました。これは管理通貨制度下だからこそ可能だった柔軟な対応であり、過度なインフレさえ抑制できれば、紙幣制度の下でも経済安定と物価管理の両立は可能であることを示しています。

以上のように、アンチテーゼ(反命題)としては「管理通貨制度=常にインフレ」という単純な図式には当てはまらず、中央銀行の適切な政策運営やグローバル化・技術革新などの構造要因により、長期にわたり物価安定が達成された事実を踏まえるべきだという点が挙げられます。また、低インフレすぎる状況(デフレ)は経済に弊害をもたらすため、一定のインフレ率を維持することも政策上重要だとの見解も存在するのです。

総合: インフレ抑制に向けたバランスある政策の必要性

テーゼとアンチテーゼの議論を踏まえ、管理通貨制度下のインフレ問題について総合的に考察します。まず明らかなのは、実体経済の裏付けなく通貨供給を拡大すればインフレを招くリスクが高いということです。1970年代の教訓、および近年では2020年代初頭に世界的にインフレ率が急上昇した事実(コロナ禍後の需要急回復や金融緩和による副作用、さらにはウクライナ危機に伴う資源高などが重なり、先進国でも数十年ぶりの高インフレに直面しました)は、通貨発行や財政出動の過度な拡大に対する警鐘となりました。とりわけ**近年の地政学的緊張や保護主義的傾向による「グローバル化の後退(デグローバリゼーション)」**は、かつて世界的な低インフレを支えていた安価な供給源の縮小を意味し、構造的に物価上昇圧力が高まりやすい環境に変化しつつあります。こうした状況では、従来以上に慎重なマクロ経済運営が求められるのは確かです。

しかし同時に、アンチテーゼで指摘したように、管理通貨制度は適切に運用すれば危機時の柔軟な対応を可能にし得る利点も持ち合わせています。したがって重要なのは、インフレ抑制と経済安定化策とのバランスをとることです。具体的には、各国の財政政策・金融政策は景気に対して過度に拡張的(刺激的)になりすぎないよう注意深く設計されるべきです。例えば財政支出拡大や中央銀行による低金利政策も、インフレ圧力が高まっている局面では速やかに是正し、通貨への信認を揺るがすようなインフレ期待の醸成を防ぐ必要があります。一方で、需要崩壊によるデフレ圧力が生じる非常時には、機動的な財政出動や金融緩和で経済を下支えし、深刻な不況やデフレスパイラルに陥ることを防ぐという柔軟性も維持しなければなりません。要するに、管理通貨制度下ではインフレとデフレの双方のリスクを認識しつつ、状況に応じた舵取りを行うことが肝要なのです。

総合すると、ニクソンショック後の50年余りに及ぶ歴史は、管理通貨制度が一長一短であることを示しています。一方では通貨発行の自由度が高い分インフレの火種を孕みやすく、グローバル化という追い風がなければその弱点が露呈しやすい制度です。他方では、その柔軟性ゆえに適切な政策対応次第で物価と景気を安定させることも可能な制度でもあります。現在、世界経済はグローバル化の退潮と地政学リスクの高まりの中でインフレ圧力が再び問題化していますが、本来インフレに傾きがちな管理通貨体制の下でこれまで低インフレを享受できていたのは特殊な環境(グローバル化など)が寄与していたことを改めて認識すべきでしょう。その特殊要因が薄れた今、各国は従前以上に慎重かつ聡明な経済運営を心掛ける必要があります。具体的には、財政・金融両政策ともに安易な拡張路線に走ることなく、中長期的な物価安定と通貨価値の信頼維持を最優先に据えるべきです。そのためには、各国のリーダーや政策当局者が過去の歴史と現状変化を深く理解し、インフレの危険性と経済安定化のジレンマを的確に捉えた判断を下せることが重要となります。言い換えれば、管理通貨制度下で繁栄を持続するには、高度な専門知と責任感を備えた指導力が不可欠なのです。

要約

  • ニクソンショック以降の1970年代は、金本位制崩壊による管理通貨制度への移行と石油危機などが重なり、日米を含む世界で高インフレ・スタグフレーションが発生した。特に日本では「狂乱物価」と呼ばれる年20%以上の物価高騰を経験した。
  • 1980年代以降~2010年代は、各国の金融引き締め策やインフレターゲット導入、さらに冷戦終結後のグローバル化による安価な労働力供給や技術革新の進展により、世界的にディスインフレ(低インフレ)が実現した。日本では長期にわたりほぼゼロインフレ・軽度のデフレ状態が続き、物価上昇の停滞が課題視された。
  • 管理通貨制度の利点とリスク: 金や実物資産の裏付けがない通貨制度は、柔軟な金融・財政政策を可能にする反面、放漫な政策運営によって通貨価値が下落しやすい(インフレを招きやすい)というリスクを常に内包する。グローバル化による物価低下圧力が和らいだ現在、そのリスクが顕在化しつつある。
  • 望ましい政策姿勢: デグローバリゼーションや地政学リスクの高まりでインフレ圧力が強まる中、各国は財政・金融政策を慎重に運営し、インフレ期待の高進を防ぐ必要がある。一方で景気悪化時には適切な緩和策も躊躇すべきでない。インフレ抑制と景気安定のバランスをとりつつ、通貨制度への信認を維持することが肝要であり、各国リーダーにはその深い理解と舵取りが求められる。

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