ブレークイーブンの罠:中央銀行と物価連動債の距離感

テーゼ:物価連動債を買わない理由

  1. 経済の全面的なインデックス化への懸念
     歴史的には、政府が物価連動債を発行すると民間の契約や賃金まで指数連動が広がり、物価上昇が止まりにくくなるという懸念がありました。理論モデルでは、インフレ連動債の普及が財政赤字と結びついてインフレ・スパイラルを引き起こす可能性が指摘され、中央銀行はインフレ目標の達成が困難になると考えられていました。また、インフレ連動債の発行が「インフレを気にしなくてよい」というシグナルとなり、国民や政治家の物価安定への支持を弱めるとの指摘もありました。
  2. 市場規模・流動性の制約
     物価連動債市場は通常の長期国債市場よりも取引量が少なく、スプレッドが大きいという特徴があります。中央銀行が大量に買い付けると市場価格が急変し、年金基金や保険会社などがインフレリスクをヘッジするための重要なツールを奪ってしまう恐れがあります。イギリスでは2022年の負債主導投資(LDI)危機の際、年金基金がインフレ連動債を大量に売却しようとして価格が急落しました。イングランド銀行は財政安定目的で一時的に買い支えましたが、通常の金融政策では「市場が脆弱で中央銀行の購入が混乱を深める可能性があるため買わない」と説明しています。このような流動性の低さから、中央銀行は市場機能の悪化や特定参加者への過度な影響を避けるために購入を控える傾向があります。
  3. インフレ期待の指標をゆがめる懸念
     物価連動債と名目債の利回り差から得られる「ブレークイーブン・インフレ率」は、金融市場が織り込むインフレ期待を示す主要な指標の一つです。しかし、この指標には流動性プレミアムが含まれ、中央銀行の大量購入が入ると流動性プレミアムが低下して指標が過度に変動します。米連邦準備制度のTIPS市場(米国債のインフレ連動債)は流動性が薄く、過去の買い入れは流動性プレミアムの縮小を引き起こし、インフレ期待が上昇したように見えたことがあります。このため、中央銀行は政策判断の基盤となる市場価格情報をゆがめるリスクを避けるべきだと考え、物価連動債の定期的な購入をためらうことがあります。
  4. インデックス設計の問題と技術的制約
     物価連動債はどの物価指数に連動させるかが大きな設計問題です。消費者物価指数やGDPデフレーターなど、どの指標も完璧ではなく、計測誤差や公表の遅れが伴います。その結果、名目債と物価連動債の価格差から読み取れるリアル金利やインフレ期待にはバイアスが含まれます。さらに、指数反映の遅れにより投資家が完全にインフレから保護されるわけではありません。中央銀行は、こうした不確実性を抱える資産を大量に保有することに慎重になりがちです。

アンチテーゼ:物価連動債を買う意義

  1. 市場安定化および危機対応
     金融市場が混乱したとき、中央銀行が流動性供給や市場機能回復のためにインフレ連動債を購入することには十分な合理性があります。2022年のイギリスでは、イングランド銀行が年金基金の売り圧力による価格暴落を防ぐため、一時的にインフレ連動債を買い入れ、市場の信頼を回復しました。このような購入は金融安定目的であり、中央銀行が平時に行う量的緩和政策とは区別されます。
  2. 政策情報の補完
     インフレ連動債は市場が期待する将来のインフレ率や実質金利を観測するための重要なツールであり、その市場規模が十分でないと信頼できる指標が得られません。欧州中央銀行(ECB)やスウェーデン国立銀行のように、物価連動債を資産買い入れ対象に含める中央銀行もあります。これらの銀行は、購入を市場中立的に配分し、流動性への影響を最小限に抑えながら市場をサポートすることで、期待インフレ率の指標を育成しています。強固な物価安定の信頼を獲得している中央銀行にとっては、インフレ連動債の保有がインフレ目標に悪影響を与える可能性は低いと考えられます。
  3. 流動性改善による便益
     米国では2010〜2011年の量的緩和第2弾(QE2)で連邦準備制度がTIPSを購入しました。その結果、TIPS市場とインフレ・スワップ市場の流動性プレミアムが縮小し、市場の機能が改善しました。流動性が高まり、取引コストが低下すれば、民間投資家がインフレリスクをヘッジしやすくなり、中央銀行もより正確な市場情報を得られます。このような事例は、物価連動債購入が必ずしも市場をゆがめるわけではなく、適切な規模と方法によっては逆に市場健全性を高めることを示しています。
  4. 財政のリスク管理支援
     物価連動債は政府の名目債務と比べてインフレリスクの配分が異なり、実質金利の安定化に役立ちます。中央銀行が購入を通じて市場を支えれば、政府は多様な債務構成を維持でき、財政運営に柔軟性が生まれます。特にインフレ率が目標付近に安定している環境では、物価連動債の発行や保有がインフレ期待を大きく動かす心配は少ないため、中央銀行が中立的な立場から購入することも可能です。

ジンテーゼ:バランスの取れた判断

弁証法の観点からは、中央銀行が物価連動債を「買うべきか買わないべきか」という二元論ではなく、目的と状況に応じた戦略を採用すべきだという結論に至ります。独立性が高く物価安定への信認を確立している中央銀行にとって、インフレ連動債の存在そのものがインフレ圧力を高める根拠は乏しく、平常時は市場中立的な買い入れを行っても支障はないと考えられます。他方、流動性の極端に低い市場で無差別に買い入れると、民間投資家のリスク管理手段を奪い、将来の政策判断の拠り所となる市場価格をゆがめる恐れがあります。このため、多くの中央銀行はインフレ連動債を定常的な量的緩和の対象には含めず、必要な場合に限って金融安定目的で介入する姿勢をとっています。つまり、物価連動債の買い入れは「適切な時期・規模・目的」を守れば有益ですが、無差別な買い入れは慎むべきだという折衷的な結論に落ち着きます。

最後の要約

中央銀行が物価連動債を買わない理由は、インデックス化の拡大による物価安定への懸念、流動性の低さから来る市場混乱とプライスシグナルのゆがみ、インフレ期待の指標を読みづらくする可能性、そして指数設計の技術的な問題などです。一方で、市場混乱時の安定化や流動性向上、政策情報の充実といったメリットから買い入れが適切な場合もあります。総合的に見ると、物価連動債の買い入れは恒常的に行うものではなく、中央銀行の独立性や市場状況、金融安定の必要性に応じて柔軟に用いるべき政策手段と位置付けられます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました