はじめに
世界経済が米国第一主義や保護主義の波に揺れる中、日本企業は従来の前提が崩れた「新常態」に直面しています。米中貿易摩擦や通商摩擦に加え、主要国の政治的リーダーシップやサプライチェーンの地政学的再編が絡み合い、企業は前例のない不確実性と競争圧力に晒されています。本稿では、その状況を弁証法的に捉え、保護主義の波を単なる脅威ではなく、機会としても捉えるための戦略を論じます。
テーゼ:米国の保護主義と世界秩序の変容は一過性ではない
米国政権交代でも継続する対中関税
多くの企業は米国の保護主義を「トランプ政権の特殊な政策」と見なしてきましたが、実際には政権を越えた構造的現象です。2024年選挙でドナルド・トランプが再び大統領に選出されたことで米中通商摩擦はむしろ強化されました。バイデン政権期にも対中「第301条関税」は維持され、2024年には電気自動車(EV)関税が25%から100%へ引き上げられ、非EV用リチウムイオン電池の関税も2026年に25%へ引き上げる計画が発表されました。2025年以降は半導体や太陽電池などにも50%の追加関税が課され、半導体製造装置など一部品目には2027年以降段階的に新関税が導入される予定です。政策当局は「技術覇権の確保」と「製造業回帰」を掲げ、関税政策を安全保障政策として位置付けています。
平均関税は高水準のまま推移
PIIE の調査によると、バイデン政権期(2021〜2025年)は対中関税水準がほぼ固定され、2024年9月と2025年1月の微増により平均関税が19.3%から20.7%へわずかに上昇しました。2025年1月20日の第2次トランプ政権発足後には関税が急増し、早くも5月には平均関税が127.2%に達しました。このデータは、政権が変わっても保護主義的な潮流が継続し、むしろ強化されていることを示しています。したがって「任期が終われば元に戻る」という楽観は現実的ではありません。
USMCA 見直しという新たなリスク
北米自由貿易協定(NAFTA)を改定した米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)は、2026年7月に再評価を迎えます。この「レビュー」は形式的なものではなく、トランプ政権がメキシコやカナダに譲歩を迫る交渉に転化する見通しが強いとされています。レビューが貿易赤字、移民、麻薬問題など非貿易課題を含む高リスク交渉になると指摘されており、交渉の破綻は北米の製造業やエネルギー協力に深刻な影響を与えると警告されています。USMCA を前提に工場間輸送を繰り返す自動車・電子産業にとって、関税ゼロが崩れることはコスト構造の根底を揺るがします。
サプライチェーンの脆弱化
米国の関税引き上げは、単に輸出入コストを押し上げるだけでなく、既存のサプライチェーンに断裂を生み出します。自動車部品や電子機器のように国境を何度も往復する生産システムでは、少しの関税でも累積的なコストが大きくなります。そのため、一部の企業は米国内に生産拠点を移す「地産地消」戦略や、関税率の低い第三国から米国に迂回輸出する戦略を模索しています。しかし後者は、USMCA の見直しや第三国を経由した迂回輸出規制により規制強化の対象となる可能性が高いのが現状です。
アンチテーゼ:自由化の潮流と新たな機会
EU–インド自由貿易協定の成立
保護主義の高まりと同時に、大規模な自由貿易協定が成立しつつあります。2026年1月27日、欧州連合(EU)とインドは約20年にわたる交渉の末、自由貿易協定(FTA)を締結しました。この合意により世界人口の4分の1、GDP の 25% を占める経済圏が誕生しました。EU とインドは年間 1,800 億ユーロ超の貿易を行っており、この協定は EU からインドへの物品輸出額の 96.6% に対する関税を撤廃または削減し、2032 年までに輸出を倍増させることが期待されています。インドが他国に与えていない車両関税の大幅引き下げ(110% から 10% へ)や機械・化学品・医薬品関税の撤廃が盛り込まれ、EU 企業に歴史的な優位性をもたらします。これに対し、EU はインド産農産品の大幅な関税削減を約束し、双方は中小企業支援や知的財産保護、持続可能性など広範な協力枠組みを構築しました。
米国・インドの暫定貿易枠組み
米国は保護主義一辺倒ではありません。2026年2月6日、米国とインドは包括的貿易協定に向けた暫定枠組みを発表し、関税引き下げやエネルギー協力を進めることを明らかにしました。この枠組みでは米国のインド製品に対する関税を 50% から 18% に引き下げる代わりに、インドがロシア産原油の購入を停止し米国やベネズエラ産原油に切り替えると約束しました。さらに、インドは今後 5 年間で米国から 5000 億ドル相当の石油・天然ガス・航空機・半導体技術などを購入し、米国市場へのアクセス拡大に対する報酬とするとされています。米国もインドの工業製品や農産物に対する関税を引き下げ、農産品の非関税障壁の解消や安全基準の相互承認に取り組むとしました。このような大国間の新たな通商協定は、世界の供給網と関税環境を再構築する大きな力となります。
他国間の FTA/EPA 活用とサプライチェーン多角化
日本の近隣地域でも自由貿易協定が進んでいます。例えば、ASEAN 諸国やオーストラリアなどを含む地域的包括的経済連携(RCEP)や日英 EPA などです。また、最近まで関税率が高かったインドへの輸出も、EU–インド協定や米国–インド枠組みによって相対的に有利となり、第三国を通じた米国向け輸出の新たな選択肢が生まれます。通商政策は各国の国家利益や地政学的優先順位に左右されるため、企業は各国の FTA/EPA を組み合わせて柔軟にサプライチェーンを再編し、関税面で有利な拠点を選定する必要があります。
ジンテーゼ:不確実性の中で日本企業が取るべき戦略
サプライチェーンの可視化とリスク管理
不確実な環境下で漫然と構えることは最大のリスクです。まず必要なのは、自社のサプライチェーン全体を可視化し、どの部品や拠点が事業の「チョークポイント」となっているかを特定することです。この可視化により、米国の新関税や USMCA 見直しがどこに影響するか、EU–インド協定や米国–インド枠組みがどの製品カテゴリーにメリットをもたらすかを把握できます。チョークポイントに直接関わる政策が発表された場合は迅速に対応し、それ以外は過度な反応を避けるメリハリが重要です。
地産地消とフレンドショアリングの両立
米国向け事業は、関税負担を回避するため米国内での生産や調達比率を高める「地産地消」へのシフトが求められます。同時に、EU–インド協定や米国–インド枠組み、ASEAN 諸国との FTA などを活用し、友好国(フレンドショア)に分散したサプライチェーンを構築する戦略も有効です。例えば、関税が高騰した半導体や EV 部品を EU やインドの生産拠点から米国や欧州市場に輸出する、あるいはインドで生産した医薬品を EU 経由で世界展開するなど、国別の優位性を巧みに活用することが考えられます。
国内政治の安定と国際リーダーシップ
日本の政治は安定しており、外交の継続性が確保されています。2026年2月の衆議院選挙では自民党の高市早苗首相が率いる連立与党が大勝し、465 議席中 316 議席を獲得、連立パートナーを含めると全体の 3 分の 2 を超える多数を得ました。国内政治が安定している国は国際社会でリーダーシップを発揮しやすく、日本は CPTPP 拡大や友好国との FTA/EPA 締結を主導できる立場にあります。これは日本企業が有利な通商ルールの形成に関与する機会でもあり、自社だけでなく国内産業全体の声を国際交渉に反映させることが重要となります。
情報戦と人材育成
関税率や FTA の発効状況は日々変化します。企業は海外拠点・業界団体・政府機関とのネットワークを強化し、最新情報を収集・分析する能力を磨かなければなりません。海外の専門人材や現地政策に精通した人材を採用・育成し、関税・法規制・政治リスクを複眼的に判断できる体制を構築することが求められます。デジタル技術を活用したサプライチェーン可視化や貿易管理の高度化も不可欠であり、生成 AI やデータ分析によるシナリオ策定が競争力の源泉となります。
結論
米国主導の保護主義や米中対立は、一過性の現象ではなく長期的な構造変化として受け止めるべきです。同時に、EU–インド自由貿易協定や米国–インド暫定貿易枠組みなど自由化の動きも進み、サプライチェーンの再編を通じて新たな機会が生まれています。弁証法的に見るなら、保護主義(テーゼ)と自由化(アンチテーゼ)の緊張関係の中から、日本企業はサプライチェーンの可視化・多角化、地産地消とフレンドショアリングの組み合わせ、政治安定を活かした国際交渉の主導など、状況をチャンスに変える戦略(ジンテーゼ)を導き出せます。重要なのは、刻々と変わる外部環境に振り回されず、自社の軸を持ちながら柔軟に適応することです。そのためには情報戦を制し、リスクと機会を見極める洞察力を高めることが不可欠でしょう。

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