トリフィンのジレンマと日本円の価値希薄化

はじめに
世界の金融資産において米ドル建て資産が占める割合は依然として突出しています。基軸通貨ドルの地位のもと、各国は国際取引や外貨準備の主要手段としてドルを利用し、日本もまた巨額のドル資産を外貨準備として保有しています。この状況を前提に、ドルが国際的流動性を供給するために大量発行される結果、ドル自体の価値が希薄化するという「トリフィンのジレンマ」を取り上げます。そして、この宿命的構造の下で、日本円も価値の希薄化から逃れられないという命題について、哲学的弁証法(正・反・合)の観点から論じます。

正:ドル基軸体制の成立と円の従属的安定

米ドルは第二次世界大戦後、ブレトンウッズ体制を経て公式に世界の基軸通貨となりました。現在でも世界全体の外貨準備の約6割をドルが占め、国際貿易決済や資本取引でもドルは卓越した地位を保っています。米国の経済規模・信用力に支えられた単一通貨ドルの利便性は各国に共有されており、ドル建て資産は「安全資産」として各国中央銀行に大量に蓄積されています。

日本においても外貨準備高は約1.3兆ドルに達し、その運用資産の大半が米国債をはじめとするドル建て資産です。ドル基軸体制下で円は対ドルで相対的に安定した価値を保ち、国際金融における信用を享受してきました。日本はドルを潤沢に保有することで、自国通貨である円の対外的な安定を確保し、国際的な信用不安時にもドル準備を活用して円を防衛できると考えてきたのです。

反:過剰なドル供給と価値希薄化の矛盾

しかし、ドルの支配的地位はその内に矛盾を孕んでいます。世界経済の流動性需要を満たすため、米国は基軸通貨国として巨額のドルを供給し続けざるを得ません。この構造的要請は「トリフィンのジレンマ」として知られ、一国の通貨を世界の準備通貨にすると不可避的に発生する問題です。実際、アメリカは長年にわたり経常赤字と対外債務の累積を重ね、2008年の金融危機後や2020年のパンデミック時には前例のない規模でドルを増発しました。その結果、米国内では2020年代初頭に高インフレが発生し、基軸通貨ドルの購買力低下が現実の懸念となりました。過剰なドル供給による通貨価値の希薄化は、基軸通貨体制への信認低下を招きます。各国中央銀行が保有する外貨準備に占めるドルの比率も少しずつ低下し、かつて70%以上あった水準が近年では60%を下回っています。米国の財政赤字拡大と巨額債務への不安、さらには金融制裁乱用への反発から、中国やロシアをはじめ一部の国々で「脱ドル化」の動きが進み、国際通貨体制は徐々に多極化の兆しを見せています。

ドル価値の希薄化は、ドル資産に依存する国にも直接波及します。ドルの実質価値が下がれば、莫大なドル建て資産を抱える日本の外貨準備も目減りし、日本の国家資産の実質的な後ろ盾が揺らぎます。さらに、ドル安が進行すると通常は円高が生じますが、日本経済は過度の円高による輸出競争力低下を警戒するため、当局は市場介入や金融緩和で円安を維持しようとする傾向があります。その結果、日本も自国通貨を増刷してドルを買い支えるという形で、円の価値を自ら希薄化させるジレンマに直面します。すなわち、ドル体制の矛盾が表面化すればするほど、円もまたその影響から逃れられなくなるのです。

合:円価値希薄化の不可避性と新たな展望

以上の正・反両面の考察を統合すると、基軸通貨ドルの価値希薄化という宿命的状況において、日本円もその影響から逃れられないことが明らかになります。ドル基軸体制下で日本は巨額のドル資産に依存しており、ドルの信認低下やインフレによる価値減少は円の裏付け資産を蝕みます。さらに、日本が円高を抑制するためにドルと歩調を合わせて金融緩和を行えば、円の通貨量拡大によって円自体の価値も薄まります。結局のところ、現在の国際金融システムに深く組み込まれた円は、ドルの運命と無縁ではいられないという命題が浮かび上がります。

しかし同時に、このジレンマは新たな通貨体制の必要性も示唆します。ドルの価値希薄化が進行し基軸通貨としての支配力が揺らぐならば、日本を含む各国は外貨準備や決済通貨の多様化を模索せざるを得ません。例えば、ユーロや人民元など複数の主要通貨、さらには国際機関主導のデジタル通貨や金などを組み合わせた多元的な準備資産構成が検討されるでしょう。そうした変化が実現すれば、円もドル一極依存から幾分解放され、自律的な価値維持の余地が生まれる可能性があります。ただし現時点では、ドルを中心とする国際通貨秩序が根本的に改まっておらず、円は依然としてドルに従属する地位にあります。したがって、トリフィンのジレンマが示す構造的矛盾が解消されない限り、円の価値希薄化は宿命的に避け難いと言えます。

要約

  • 正(テーゼ): 米ドルは世界の金融資産・外貨準備の中核を占める基軸通貨であり、日本もまた外貨準備の大半をドル建て資産で保有してきた。ドルの覇権的地位に支えられ、円は対外的に安定した価値を享受している。
  • 反(アンチテーゼ): 基軸通貨ドルを維持するための過剰なドル供給と米国債務の拡大は、ドルの価値希薄化と信認低下を招く(トリフィンのジレンマ)。ドル価値の低下はドル資産に依存する日本の外貨準備を目減りさせ、円高抑制のための日本の金融政策も含めて、円の価値も間接的・直接的に希薄化してしまう。
  • 合(ジンテーゼ): 現行のドル基軸体制下では、日本円はドルの運命と不可分に結びついており、ドル価値希薄化の影響から逃れられない。しかし将来的には通貨体制の多極化や準備資産の分散によって、円がドル依存の宿命から部分的に解放される可能性も示唆される。現状においては、ドルの価値希薄化に伴う円価値の希薄化は構造的に避け難い局面にあると言える。

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