違法な長時間労働や低賃金といった劣悪な労働環境の下で、労働者が企業の成長を自らの生きがいと信じて苦しい労働に耐えている姿は、今日「やりがい搾取」として批判されている。これは企業側が「仕事のやりがい(働き甲斐)」を巧みに利用し、労働者に自己犠牲を厭わぬよう誘導する構図である。この構図は、中国・秦の宦官趙高による有名な故事「指鹿為馬(鹿を指して馬と言う)」──権力者が真実をねじ曲げ、周囲の者がそれに盲従するという場面──と通底するものがあるように思われる。以下では、この**「やりがい搾取」**の構造を、テーゼ(正)・アンチテーゼ(反)・**ジンテーゼ(合)**という弁証法的三段階に沿って分析し、最後にその考察を総括したい。
テーゼ: 企業への献身が生み出す「やりがい」
ブラック企業においては、社員が企業の理念や成長目標に強く共感し、献身的に働く姿勢がしばしば美徳として奨励される。労働者は自らの長時間労働や低賃金を顧みず、「会社のため」「社会のため」という大義に身を捧げることで、生きている実感や充実感を得ているように見える。例えば、新興企業などでは「自分たちの手で会社を大きくすることこそが生きがいだ」と信じ、休暇や私生活を犠牲にしてまで仕事に没頭する若者もいる。彼らにとって、困難な労働は単なる苦役ではなく**「やりがい」すなわちやる意義のある尊い挑戦であり、賃金や労働条件の悪ささえも将来の成功のための投資や自己成長の糧と考えられる。このようにテーゼ(命題)**の段階では、「仕事に打ち込むことで得られる高揚感や自己実現」が強調され、労働者自身も企業への貢献を誇りに感じている。企業側もまた、「若いうちから大きな仕事を任せる」「君たちの情熱が会社を動かす」といった賞賛や物語を与えることで、労働者の献身を引き出そうとする。表面的には、組織全体が一致団結し高い志を共有しているかのように見え、そこには一種の理想や夢が語られている。
アンチテーゼ: 権力による真理の歪曲と搾取の現実
しかし、その光輝く理想の陰では、看過できない矛盾と現実が横たわっている。労働者の献身や情熱は本当に自主的で報われるものなのか、それとも企業側の都合によって作り出された幻想なのか――ここに**アンチテーゼ(反命題)が立ち現れる。実際、ブラック企業の経営者や管理職は労働者に対し「これは君たちの成長の機会だ」「好きで選んだ仕事なのだから頑張るのは当たり前だ」というように語りかけ、過酷な労働を正当化する。これはちょうど、秦の趙高が鹿を指して「これは馬だ」と言い張った「指鹿為馬」の故事を想起させる。すなわち、本当は「低賃金・長時間労働」という鹿(真実の姿)**が目の前にあるのに、権力者である上司や企業はそれを「やりがいという名の馬(価値あるもの)」だと言いくるめるのである。
このような権力による真理の歪曲の下で、労働者たちの多くは上司の言葉に公然と逆らうことができず、それに盲目的に従う傾向を生み出す。周囲の空気を読んで「確かにこれは馬(貴重な経験)です」と迎合する者もいれば、内心の疑念を押し殺して沈黙する者もいるだろう。万一、「これは鹿ではないか(劣悪な労働環境ではないか)」と正直に指摘すれば、趙高が臣下を粛清したように、現代でも「やる気がない奴」「甘えている」などと烙印を押され、左遷や解雇、あるいは職場での孤立といった制裁を受けかねない。こうして組織内には不満や疑問を口に出せない空気が支配し、真実を知りながらあえて目をつぶるという同調圧力が強まる。
だが、どれほど巧妙にごまかしたところで、現実の疲弊や搾取の痛みそのものを完全に消し去ることはできない。慢性的な睡眠不足や健康悪化、メンタルの不調といった形で、労働の現実は否応なく表面化する。理想に燃えていた労働者自身が、やがて極度の疲労や不公平感に直面し、「自分は何のためにこれほど働いているのか」という根源的な問いに突き当たることもあるだろう。こうしてテーゼで掲げられた「崇高なやりがい」の物語は、現実の過労死や離職率の高さ、労働基準法違反といった事実によって鋭く批判され、自己崩壊的な様相を見せ始める。理想と現実の激しい葛藤が露わになったとき、それは次の段階への契機となる。
ジンテーゼ: 真のやりがいの回復と新たな視座
労働者の情熱を利用した幻想と、隠しきれなかった搾取の現実。この二項対立が明らかになったとき、そこから新たな統合の道筋が模索される。**ジンテーゼ(総合)**の段階では、単なる元の状態への回帰ではなく、テーゼとアンチテーゼ双方の本質を踏まえた上での高次な解決が目指される。
まず必要なのは、真実を直視することである。権力によって歪められた真理を正し、「鹿はやはり鹿である」つまり「劣悪な労働環境は事実として搾取である」と認める勇気が求められる。労働者自身が自らの置かれた状況を冷静に見つめ直し、「やりがい」という言葉の裏に何が隠されているのかを理解することが出発点となるだろう。その上で、本来の意味での**「やりがい」**とは何かが再定義されねばならない。仕事における充実感や誇りは、適正な労働条件や公正な評価と両立して初めて持続可能なものとなる。言い換えれば、真のやりがいとは搾取の言い訳ではなく、労働者の自己実現と人間的な尊厳が守られた環境でこそ得られる充足感である。
この新たな視座に立てば、企業の側にも変革が求められるだろう。労働者に一方的な犠牲を強いるのではなく、働き甲斐と待遇改善を両立させる経営こそが長期的に見て組織と個人双方の繁栄をもたらすという認識が生まれる。かつて指鹿為馬を演じた権力者が没落したように、嘘に基づいた組織文化は持続不可能であることが歴史にも示唆されている。ジンテーゼの境地においては、支配と盲従の関係から脱し、上司も部下も真実に基づいて対話し協働できる労働環境が理想として浮上する。そこでは労働者は自らの熱意や創造性を搾取されるのではなく、正当に評価され活かされる。結果として、労働そのものが単なる苦役から人間的成長と社会的意義を持つ活動へと昇華しうるのである。
このようにして、当初は対立していた「企業への献身という理想」と「搾取の現実」という二つの側面は、相互批判を経て**止揚(アウフヘーベン)**される。つまり、働く意義を見出したいという人間の熱意そのものは否定されるべきではないが、それが権力によって悪用される構図は乗り越えられねばならないという結論に至る。その過程で、労働者は主体的に自らの「やりがい」を問い直し、組織もまた労働環境の改善を通じて本当の意味で従業員のモチベーションを高める道を選ぶようになるだろう。これが、テーゼとアンチテーゼの対立を経た先に見出される、新たな総合的展望である。
まとめ
ブラック企業におけるやりがい搾取は、劣悪な労働を「働き甲斐」という美名で覆い隠す点で、権力が真実を歪める**「指鹿為馬」の構図と重なる。弁証法的に分析すると、まず企業への無私の献身というテーゼが提示され、それに対し搾取の現実というアンチテーゼが衝突する。最終的に、両者の対立を乗り越えて真実と人間性を取り戻すジンテーゼ**へ到達し、働くことの意義と労働環境を調和させる新たな視点が導かれるのである。
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