背景と文脈
香港は1842年の南京条約以降にイギリス領となり、1984年の英中共同声明によって1997年に中国へ返還された。返還後も“一国二制度”の下で金融センターとして発展したが、2019年の抗議活動や2020年の国家安全維持法の施行を契機に外資金融機関がシンガポールなどへ拠点を移し、香港市場は長期低迷期に入った。2024〜2025年にかけても不動産市況や経済成長の鈍化が続き、香港政府の報告書によると住宅市場の取引は前年比で増加したものの、価格は2021年のピークから約27%下落し、オフィス価格も2023年11月〜2024年12月にかけて24%下落、賃料は5%下落し、空室率は16.3%と長期平均(9.3%)を大きく上回った。2025年上半期には香港のグレードAオフィスのリース面積が前年同期比30%減となり、空室率は17.4%と依然高水準で、賃料も年初から2.8%下落している。一方で、シンガポールのオフィス市場は堅調で、2025年第2四半期のCBDグレードAオフィスの空室率は5.2%、賃料は月当たり11.07Sドル/平方フィート(約米ドル8.59)であり、新規供給が限られているため賃料は年率0.6%上昇した。このように香港とシンガポールのコスト差は縮小しており、香港に再び注目が集まる背景となっている。
ETFの基本情報と構成
iShares MSCI香港ETF(EWH)は香港株式市場を対象とするETFで、37銘柄に投資している。2025年9月時点でのトップ保有銘柄はAIAグループ(保険)21.97%、香港交易所15.97%、CKハチソン4.37%、Techtronic Industries4.36%、BOC香港4.33%である。セクター配分では金融が約48%、不動産が約17%、工業が約15%、公共事業が約9%などとなっている。したがって保険会社・銀行・取引所と並んで、不動産デベロッパーが大きなウェイトを占める。
正(ポジティブな要因)
- バリュエーションの魅力と反転可能性
- コロナ禍後の景気低迷と規制強化により香港の商業用不動産価格は大幅に調整した。2025年半ばにはグレードAオフィス価格がピークから51%下落し、抵当処分価格もほぼ60%減少している。小売や工業用物件の価格もそれぞれ39%・32%下落し、割安感が強い。価格が大きく下落したことで自社利用目的の買い手(エンドユーザー)がオフィスや高級住宅の購入に動き始め、2025年上半期のオフィス投資額は前年同期比65%増の91億香港ドルに達した。
- 香港の住宅市場は2018年以降28%程度調整して底入れの兆しがあると指摘される。米国の利下げが始まれば香港の住宅ローン金利のほとんどがHIBORまたはプライムレートに連動しているため、金利低下が住宅需要を刺激する可能性がある。
- 供給制約と賃料回復余地
- シンガポールに比べ香港のグレードAオフィスは空室率が高く、賃料が低下しているが、新規供給は限られている。CBREによると2025年上半期の新規供給不足とプラスの純吸収により空室率が17.4%へわずかに低下し、中央地区では四半期ベースで最大のリース成約が見られた。供給が制限されるなか、需要が回復すれば空室率は縮小し賃料の反転が期待できる。
- 香港の賃料はシンガポールとほぼ同水準(シンガポールCBDグレードAオフィスの平均賃料はS$11.07=米$8.59/平方フィート/月)まで下がっており、空室率が低いシンガポールで賃料が上昇し続ければ相対的に香港のコスト競争力が高まる。
- マクロ環境の改善
- ASEAN+3マクロ経済研究事務所(AMRO)は2025年の香港成長率を2.1%、2026年を1.9%と予測し、輸出と観光の回復が成長を支えると指摘している。物価上昇率は2025年1.8%と低く、金融緩和余地が残る。
- 香港ドルは米ドルに7.75〜7.85香港ドルのバンドで連動し、香港金融管理局(HKMA)は2025年7月時点で米国準備高に相当する4254億ドルの外貨準備を保有し、これは流通貨幣の5倍超に相当する。HKMAはペッグを守るため5月に78億ドルの買い入れを実施し、通貨制度の維持に強い意欲を示している。外貨準備が潤沢であることは金融システムの安定と投資家信頼を支える。
- 米国が利下げに転じれば香港ドルペッグにより香港の短期金利も低下する。住宅ローンの8割が変動金利であるため利下げは住宅市場を下支えし、不動産株への追い風となる。
- ETFの構成銘柄の利点
- EWHの最大保有銘柄であるAIAグループはアジアで強い保険ビジネスを展開し、資産運用規模の拡大や香港・中国の保険需要の回復の恩恵を受ける可能性がある。香港交易所もIPOや資産運用サービスの復活により手数料収入が増加する余地がある。
反(ネガティブな要因)
- 不動産市場の長期低迷と供給過剰
- 香港政府によると住宅取引数は増えたものの、価格は2021年のピークから約27%下落し、賃貸および物件価格は依然として低迷している。オフィス市場では価格が24%下落、空室率が16.3%に上昇しており、2025年Q2の空室率も17.4%と高止まりしている。この高水準の空室率は賃料回復を遅らせる可能性がある。
- CBREは2025年上期の純吸収がプラスに転じたとしながらも、賃料は前年同期比で2.8%下落し、下期も下落基調が続くと予測している。需要が金融中心部に集中する一方で周辺地区の空室率が高く、供給過剰の調整には時間がかかる。
- 経済の構造的な弱さと外部リスク
- AMROは香港の成長が1.9%程度にとどまると予測し、保護主義の高まりや地政学的緊張が輸出・投資を抑制すると警告している。香港ビジネス紙によると、弱い内需と不動産投資の低迷により2024年の成長率は2.5%に減速し、2025年も1.9%、2026年は1.7%と伸び悩む見通しである。
- 高齢化と労働力不足も長期的な制約となる。人口の高齢化が進むことで住宅需要が縮小し、医療・福祉コストが増加する可能性がある。
- 香港の政治・規制環境は引き続き国際投資家の懸念材料である。国家安全維持法の施行や言論の自由の制限により欧米資本の撤退が続き、金融センターとしての地位に陰りが見える。地政学的緊張が高まれば、海外企業の香港離れが進み株価が抑制される恐れがある。
- ETF特有のリスク
- EWHの保有銘柄は金融(約48%)と不動産(約17%)に偏っており、香港経済と不動産市場の動向に強く影響を受ける。セクターの集中度が高く、広範な分散効果は限定的である。
- トップ銘柄のAIAや香港交易所は規制変更や資本流出、IPO市場の不振などに敏感であり、市場全体が回復しない場合は株価がさらに下落する可能性がある。
合(統合と展望)
香港の経済・不動産市場は依然として多くの逆風に直面している。住宅価格はピークから大きく下落し、オフィスの空室率は17%台と高止まりしている。外部環境では米中関係や世界的な保護主義の高まりが輸出や投資を抑制し、国内需要も力強さを欠く。しかし、価格調整が進んだことでバリュエーションに割安感が生じているのも事実である。グレードAオフィス価格はピークから半分以下になり、住宅市場も長期調整局面から底入れの兆しがみられる。シンガポールとの賃料格差が縮まり、香港の競争力が回復すれば需要が戻る可能性がある。また、香港ドルは米ドルにペッグされ、4254億ドルの外貨準備によって安定が維持されている。米国の利下げによる金利低下が実現すれば、HIBORやプライム・レートに連動する香港の住宅ローン金利が下がり、不動産需要の回復を促すことも期待できる。
こうした状況を踏まえると、EWHは短期的にはボラティリティが高く不動産市場の調整に引きずられるリスクが大きい。一方、長期投資家にとっては金融センターとしての基盤や政府の支援策、割安なバリュエーションに着目したコントラリアン投資の機会ともいえる。投資判断は、米中関係・米国金利動向・香港政府の景気刺激策・香港取引所のIPOパイプラインなど外部環境を慎重に見極めた上で行うべきであり、単一地域・セクターへの集中リスクを軽減するため他の地域や資産クラスとの分散が望ましい。
要約
- 香港の住宅・オフィス市場は2018年以降大幅に調整し、2024年時点で住宅価格はピークから約27%、オフィス価格は約24%下落、空室率は16〜17%と高止まりしている。その結果、グレードAオフィス価格はピークから51%低下し、割安感が顕著になっている。
- しかしCBREは賃料が年初来2.8%下落し、今後も下落基調が続くと予想しており、香港の成長率も2025年1.9%、2026年1.7%と低成長が続く見通しである。政治的・地政学的なリスクや高齢化、外部需要の弱さが長期的な制約となる。
- シンガポールのCBDグレードAオフィス空室率は5.2%で、賃料は米ドル8.59/平方フィート・月と香港に近づきつつあり、相対的に香港の競争力は改善している。香港の外貨準備は4254億ドルで通貨ペッグの維持能力は高く、米国が利下げに転じれば香港の金利も低下し不動産需要を押し上げる可能性がある。
- EWHは金融と不動産への集中度が高く、短期的には不動産市場の低迷に影響されやすいものの、長期的には割安なバリュエーションと金融センターの復権期待から反転余地を秘めている。投資の際は外部環境と地域分散を踏まえ慎重に判断することが重要である。
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