中立金利の定義
中立金利(neutral rate of interest)は、景気や物価に対して中立的な名目短期金利の水準を指す。これは実質的に中立的な金利(自然利子率)と将来の予想物価上昇率を合計したものである。自然利子率は、経済が潜在成長率で成長し物価が安定しているときに実質金利が持つべき水準と定義される。自然利子率は実際には観測できず、推計手法によって値がばらつく。名目の中立金利はこの自然利子率にインフレ予想を加えることで求められ、中央銀行が政策金利を引き上げてもその水準が中立金利を下回っている限り金融政策は依然として景気に対し緩和的と考えられる。
日本銀行のワーキングペーパーによる推計では、2023年時点の自然利子率は–1.0%〜+0.5%の幅を持つ。インフレ率2%を加えると名目中立金利は+1.0%〜+2.5%のレンジとなる。このように推計には不確実性が大きく、推定レンジは時期やモデルによって変わる。
国際的にも、中立金利は実体経済の潜在力と均衡貯蓄・投資関係によって決まると理解されている。米国ではブルッキングズ研究所が「中立金利とは、完全雇用と安定物価の下で短期金利がとるべき水準であり、金融政策が景気を刺激も抑制もしない利率」と説明している。実質金利からインフレ率を除いた形で論じられ、直接観察できないため推計が必要である。米クリーブランド連銀による解説でも、中立金利を「短期金利が景気刺激的でも抑制的でもない水準」と定義し、政策金利がこの水準より高ければ金融政策は引き締め的、下回れば緩和的と捉えられると述べている。
弁証法的視点から見た中立金利
弁証法とは、対立する命題や現象の矛盾を通じてより高次の統一を導き出す思考法である。ヘーゲル哲学における「正–反–合」の枠組みでは、ある概念(正)はその内部に矛盾や限界(反)を孕み、それらの対立がやがて新しい統一(合)へと昇華される。中立金利を巡る議論にもこの弁証法的構図が見て取れる。
正:不変で客観的な均衡金利という理想
経済学では長らく、実体経済には一定の均衡金利が存在し、それが中立金利として政策判断の拠り所になると考えられてきた。新古典派的な視点では、貯蓄と投資の需給均衡によって実質金利は一意に決まり、中央銀行の役割は政策金利をその水準に合わせることだとされた。自然利子率が観念上存在するという前提の下で、物価を安定させるには名目金利を「自然利子率+インフレ率」に設定することが理論的な「正」となる。
この立場からは、中立金利を推計するモデル(Holston–Laubach–Williamsモデルなど)が開発され、各国中央銀行は潜在成長率やインフレ期待を用いて中立金利を数値化しようとしている。近年の推計によれば、米国の実質中立金利は0.5〜0.6%程度と推測されており、日本では0%前後とされる。政策担当者はこの数字を基準に政策金利の適切な水準を議論している。日本銀行では短期金利を少なくとも1%まで引き上げることが、物価上振れリスクを抑え物価安定目標を持続的に達成するために必要だと主張されている。
反:中立金利は不確実で時間変動するという現実
一方で、中立金利はそもそも観測できない概念であり、その推計値はモデルや前提によって大きく変わるという反論も存在する。日本銀行のワーキングペーパーでは自然利子率の推計モデル間に大きなばらつきがあることが指摘され、みずほ銀行はそのレンジの広さや推計値の古さを問題視している。クリーブランド連銀も「中立金利は観測できないため、推計手法や仮定によって大きく異なる」と述べ、推計値は時間とともに変化すると強調している。
実際、近年の人口構造の変化や生産性の低迷、所得格差の拡大などは貯蓄・投資の均衡条件を変化させ、中立金利を低下させてきた。クリーブランド連銀の報告では、趨勢的な潜在成長率の低下や人口高齢化、所得格差の拡大が中立金利を押し下げる要因とされる。また、世界的な安全資産需要の増大やグローバルな貯蓄過剰も中立金利を低下させている。これらは時代ごとに変わる長期的な構造要因であり、固定的な均衡金利という発想を揺さぶる。「中立金利」という概念が示す数値自体が時間変動的で、不確実性を伴うことは、均衡金利の客観的存在を疑問視する立場にとって重要な論点である。
合:ダイナミックなガイドポストとしての中立金利
弁証法的な視点からは、上述の「理想的で一定の均衡金利」という正と、「不確実で時間変動する中立金利」という反の対立を統合する必要がある。中立金利は固定的な値ではなく、経済構造や期待が絶えず変化する中で推定される動的なガイドポストとして理解すべきである。この統合は、次のような考え方に結びつく。
- 概念の柔軟性を認める: 中立金利は特定の値としてではなく、「政策金利が経済に与える効果を測るための相対的な尺度」として活用する。推計値の幅や不確実性を前提としつつ、政策当局は物価や需要の動向に応じて中立金利の見直しを継続する必要がある。日本銀行総裁が中立金利の下限を引き上げる意向を示し、適宜公表する姿勢を取っているのはその一例である。
- 時間変動を内包するモデル: 中立金利の推計には、長期トレンド(潜在成長率)と非成長要因(安全資産需要や人口構造など)を同時にモデル化する動学的な手法が発展している。米クリーブランド連銀が紹介する Zaman モデルのように、中立金利を他の経済変数と共に推定するアプローチは、変動する中立金利を政策に生かすための合となる。
- 政策対話のツールとしての役割: 中立金利の概念は、金融政策が過度に緩和的か引き締め的かを議論するための共通言語として機能する。推計の不確実性を認識しながら、当局と市場の対話を促進することが重要である。日本銀行が中立金利推計を公表し、市場参加者が利上げの可能性を評価する材料としていることは、その役割を示している。
このように、弁証法的な視点は、「中立金利は存在しない」という極端な否定でもなく、「唯一無二の正しい数字がある」という極端な肯定でもない中間的な立場を提供する。中立金利を動的かつ相対的なガイドポストとみなし、その推計と更新のプロセス自体を政策議論の一部として位置付けることで、理論と現実の矛盾を乗り越えることができる。
まとめ
中立金利は、景気・物価に対して中立的な名目短期金利の水準を意味し、自然利子率と予想物価上昇率の合計として定義される。自然利子率は直接観測できずモデルにより推計されるため、中立金利の推定値は時期や手法によって幅広い。日本では2023年時点で自然利子率が−1.0%~+0.5%と推計され、名目中立金利は1.0%~2.5%と考えられている。中立金利は政策金利が景気を刺激しているのか抑制しているのか判断するためのガイドポストとして利用される。
弁証法的に見ると、中立金利には「客観的に存在する均衡金利」という理想と、「時間とともに変動し不確実性を伴う」という現実の矛盾があり、この対立は動的で柔軟な中立金利概念という合へと昇華される。中立金利を固定的な値ではなく、経済構造や期待の変化を反映する相対的な尺度として用いることが重要である。モデルの精緻化や推計の透明性、政策当局と市場の対話を通じて、中立金利の役割をアップデートし続けることが求められる。

コメント