ドルの信認とインフレの相克

はじめに
米ドルは第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制によって基軸通貨となり、その後も世界貿易と金融システムの中心として用いられてきました。しかし1970年代以降、ドルの価値や物価動向は経済政策や国際協調によって大きく揺さぶられてきました。本稿では、1971年のニクソンショックに端を発するインフレとドルの弱化、1980年代初頭のポール・ボルカー議長による利上げとドル高、1985年のプラザ合意によるドル安誘導という歴史を概観し、2025年のトランプ政権による大規模関税がドルの信認低下によるドル安・インフレを引き起こす可能性を弁証法的に検討します。その上で、今後10年程度にわたってドル安インフレ局面が続くかを展望します。最後に考察をまとめます。

歴史的背景:ニクソンショックからプラザ合意まで

ニクソンショックとインフレの高進(1970年代)

ブレトン・ウッズ体制の崩壊では、ドルは1オンス=35ドルで金と交換できると定めた固定相場制でしたが、1960年代末には海外に流通するドルが米国の保有金を大幅に上回り、ドルへの信認が揺らぎました。1971年8月、米国政府はドルと金の交換停止や賃金・物価の90日凍結、輸入品に10%の追加関税を課す「ニクソン・ショック」を発動しました。金との交換停止でドルは事実上の紙幣となり、1970年代には石油ショックなども重なってインフレ率が急上昇します。米連邦準備制度の統計では、1964年に約1%だったインフレ率は1980年には14%超に達しました。

ボルカーの利上げとドル高(1979~1982年)

インフレ抑制を目指したポール・ボルカー連邦準備理事会議長は、政策目標を短期金利からマネーサプライに切り替え、フェデラル・ファンド金利を急激に引き上げました。その結果、1980年と1981~82年に景気後退が起き、失業率は11%近くまで上昇しましたが、インフレ率は1982年末には5%未満に低下しました。金利上昇と米国資産への高いリターンは資金流入を招き、ドルの実効為替レートは大幅に上昇しました。一方、製造業の輸出競争力は低下し、米国の経常赤字は拡大しました。

プラザ合意とドル安誘導(1985年)

1980年代半ばにはドルが過大評価されていたため、米国は貿易赤字削減と保護主義回避を目的として1985年9月に日本・ドイツ・フランス・英国と「プラザ合意」を結び、協調介入でドルの下落を誘導しました。分析によると、連邦準備制度が1984年末から1986年末にかけて政策金利を約12%から6%に引き下げたことや財政緊縮策がドル安を促進し、貿易赤字対GDP比は約3分の1に縮小しました。ドルは2年間で約25%下落し、米国の輸出競争力が改善しましたが、急激な円高は日本の資産バブルとその後の「失われた10年」を招きました。

2025年のトランプ関税とドルへの衝撃

トランプ政権の関税政策

2025年4月2日にトランプ大統領は「リベレーション・デイ」と称して全世界からの輸入に平均10%の関税を課す計画を発表しました。その後の追加措置と相手国の報復により、対称的な関税率は約17%に達し、米国の平均関税率は過去30年の3%未満から17%へ急上昇しました。タックス・ファウンデーションの試算では、2025年の関税は米国の世帯あたり平均1,000ドル規模の増税となり、長期的には実質GDPを0.7%押し下げ物価を押し上げると指摘されています。セントルイス連銀の分析でも、2025年6〜8月のPCE総合インフレに対する関税の寄与度は年率0.5ポイント程度と推計され、12か月のインフレ率の約1割を関税が占めるとされました。

関税とドルの反応

標準的な国際マクロモデルでは、輸入関税は国内の輸入需要を減らし、外国通貨への需要が減るため自国通貨高になりやすいとされます。過去のトランプ関税(2018〜2019年)では実際にドル高が観測されました。しかし2025年4月2日の関税発表後、ドルは急落し、2025年前半の6か月で約10%下落しました。このドル安が外国投資家によるヘッジ需要の増大—将来の米国政策リスクへの保険—に起因し、ドルの安全資産としての信認低下の兆候であるとの研究もあります。また、貿易戦争により米国が国際的に孤立し、ドルの「安全資産」属性が弱まり、金利上昇や資本流出を招いたことも指摘されています。

貿易相手国の報復と政策不確実性

2025年の関税が他国の報復を招き、トランプ大統領による連邦準備制度批判や独立性への介入、公的支出の大幅増加などが投資家の不安を高めました。報道によれば、トランプ政権の不安定な外交と金融政策への干渉、巨額の財政支出によりドルは2025年に9%以上下落し、2026年初頭にもさらなる下げ圧力が続いています。

関税の影響に対する反論とドルの回復力

一部の報告では、2025年の実効為替ベースでドルは約8%下落したものの、これは2023年末からの上昇分を取り消した程度であり、過去10年平均や30年高値圏を維持していると強調しています。世界的な安全資産としての特権により、金利の低下やヘッジコストの低下が2025年前半のドル安を助長した一方で、米国経済活動の底堅さや代替通貨が存在しないことから、2026年にドルがさらに3%程度下落した後は安定すると見込む予測もあります。別の予測では、2026年第2四半期にドル指数が低下する可能性を指摘しつつ年末にはほぼ現在の水準に戻るとしています。報復措置も中国以外では限定的で、多くの国が米国と相互貿易協定を交渉し、関税撤廃と引き換えに自国の非関税障壁の削減や米国製品の購入を約束しています。

長期的視野:ドル周期とインフレの弁証法

テーゼ(主張)—ドル安とインフレの長期サイクル

長期的なドルの実効為替レートには約10年単位のサイクルが存在すると指摘されています。過去50年でドルは平均8〜10年の下落局面(–26%、–47%など)と6〜12年の上昇局面(+43%、+51%など)を繰り返してきました。1970年代半ば〜80年代初頭のドル安とインフレ、その後のボルカー利上げによるドル高、プラザ合意によるドル安といった歴史はこの周期性と整合的です。2025年のドル下落を一過性ではなく長期的な弱含みの始まりとみなす向きもあり、過大評価、巨額の貿易・財政赤字、高インフレ、政策の不確実性、移民減少と人口高齢化による労働力不足、国際的な影響力低下、民主的制度への攻撃など構造的要因が挙げられます。こうした要因は数年続く可能性があり、投資家がドル建て資産からの分散を進めると主張されています。また、トランプ大統領はドル安をあからさまに望んでいると報じられており、国際貿易の縮小や外交関係の悪化を辞さない姿勢はドルの信認をさらに損ない、金や他通貨への逃避を招いています。2025年の関税は多くの国がドル建て外貨準備を減らすきっかけになるとの警告もあります。

アンチテーゼ(反証)—ドルの回復力とインフレ抑制

歴史的に高インフレを抑制するためには大幅な金利引き上げが必要でした。ボルカー期には景気後退を伴いながらもインフレを抑え、ドル高が実現した経験があります。2025年以降も連邦準備制度が独立性を維持しインフレ抑制を優先するなら、関税による物価上昇圧力は利上げによって相殺され、ドルは底堅く推移する可能性が高いでしょう。またドルは世界の外貨準備の6割超を占め、多数の国がドルに自国通貨を連動させています。ユーロや人民元は存在感を増していますが、流動性や資本規制の制約からすぐにドルに取って代わることは難しいとされます。関税の影響も限定的で、輸入相手国が報復よりも交渉を選び、輸入業者が前倒しで在庫を積み増すなど調整を行ったことで、経済への悪影響やインフレは予想より小さいとする分析もあります。世界的なインフレ低下と連邦準備制度の利下げによってドル安が止まり、長期的にはドルが安定するという見方も示されました。さらに、米国がエネルギー自給国であること、AIなどの技術革新で世界をリードしていること、資本市場の規模と流動性が他国を凌駕していることなどがドル資産への需要を支える要因になると指摘されています。

ジンテーゼ(総合)—ドル安インフレ局面の展望と条件

歴史的なドルのサイクルと長期分析を踏まえると、2025年からのドル下落は新たな8〜10年のドル安局面の始まりと解釈できます。関税による輸入物価上昇と国際協調の崩壊はインフレ圧力を強め、投資家は米国資産へのヘッジを増やし、ドル建て資産から多様化しようとするでしょう。こうした動きは円や人民元を含む他通貨の上昇や金価格の上昇を伴い、インフレが長引く可能性があります。ただし無秩序なドル暴落は考えにくく、連邦準備制度がインフレ抑制を優先して金利を引き上げれば、輸入物価と需要を抑え、ドルを一定水準に保つことができます。2026年半ば以降に米景気が減速しても、利下げサイクルの終了や財政刺激策がドル反発をもたらすという見方もあります。歴史的にドル安局面でも途中で数回の反発があり、投資家はそのたびにドル売りを再開してきました。
また、プラザ合意のような協調的ドル安は貿易不均衡を是正し世界経済を安定させましたが、単独の関税は報復合戦を招き不確実性を高めることが示されました。関税率が高水準に達すれば、ドル中心の国際通貨システムが崩壊しユーロなどへの転換が起こる可能性があるとモデル化する研究もあり、その「転換点」に近づけばドル安とインフレはより深刻化するでしょう。

結論と要約

ニクソンショック後のインフレ、ボルカーの利上げによるドル高、プラザ合意によるドル安という歴史を辿ると、米ドルは政策や国際協調によって周期的に強弱を繰り返してきました。2025年のトランプ関税は輸入物価を押し上げ、関税本来の理論に反してドル安を招き、投資家が米国の政策と金融機関の独立性に懸念を抱くきっかけとなりました。過去にも約10年の下落局面と上昇局面を交互に経験してきたことを踏まえると、2025年の下落が新たな弱含み局面の始まりである可能性もあります。一方で、ドルは依然として高水準にあり、連邦準備制度の政策や米国経済の底堅さが維持されれば2026年後半には回復もあり得るという見方も存在します。総じて、2025年の関税ショックはドルの安全資産としての地位に疑念を投げかけ、10年規模のドル安インフレ局面へ向かう火種となるかもしれません。しかし、その持続期間と深刻度は米国の金融政策の対応、国際協調の有無、そして代替通貨の台頭度合いに左右されます。インフレ抑制に失敗し関税や保護主義が強まればドル安とインフレが長期化しうる一方、適切な政策転換と国際協調が図られれば、ドルは再び強さを取り戻すでしょう。

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