はじめに
東京大学名誉教授で物価研究の第一人者である渡辺努氏は、長年にわたり日本のデフレ脱却や物価・賃金・金利の正常化を提唱してきました。2025年以降に誕生した高市政権は「積極財政」と「経済安全保障」を掲げ、渡辺氏を含むリフレ派経済学者の助言を求めています。本考察では、渡辺氏の政策提案がどのように高市政権に影響を与えているかを弁証法の視点から整理します。
テーゼ:渡辺氏の主張と積極財政への期待
渡辺氏は2025年3月の経済財政諮問会議資料で、長期デフレで機能不全に陥った価格メカニズムを修復するために賃金・物価・金利の「正常化」を提案し、デフレ期を「第1ステージ」、インフレが定着する段階を「第2ステージ」と位置づけ、消費者のインフレ期待を2%程度にアンカーさせる必要性を説きました。インフレ率をゼロから2%に上げると、実質政府債務が約16%(約180兆円)減少すると分析し、適度な物価上昇が財政再建に資することも強調しています。
2026年1月のPIVOTインタビューでは、渡辺氏はガソリン補助金や消費税減税などの物価抑制策を「時代の変化に逆行する誤った政策」と批判し、問題の本質は「物価が高い」ことではなく「賃金が安い」ことだと指摘しました。政策の焦点を賃金引き上げに置くべきであり、年金支給額をインフレ連動に戻すなどの制度改革を提言しています。国民の8割が将来の実質賃金低下を懸念して消費を抑えているとの分析から、政府が10年後の実質賃金目標や最低賃金1500円など長期的なコミットメントを示し、期待形成を図る必要があると述べました。さらに、日本が米中と競うには政府主導の先端技術投資が欠かせず、国民が痛みを伴う投資や増税を受け入れる覚悟が必要だとしています。
アンチテーゼ:積極財政への批判と円安への懸念
大和総研は、高市政権の新経済対策(2025年11月21日閣議決定)が需要を過度に刺激すると円安が進み、輸入物価の上昇でインフレが加速する可能性を指摘しています。同社の分析では、日本では労働生産性の伸び悩みや企業負担が長期的に実質賃金の足かせとなっており、対症療法よりも構造問題への取り組みが必要だとしています。
また、財政支出の拡大が為替市場で円安要因になるとし、実質政府債務が1%増えると1年後に0.9%の円安が生じるとの結果を示しています。高市政権の物価高対策に伴う財政拡張は円安圧力となり、国内物価を押し上げるため、実質政府債務残高を安定的に引き下げることやプライマリーバランス黒字化を目指すべきです。外国為替市場では、円安の主因は金利差ではなく積極財政や財政規律への懸念に伴う円売りとの見方もあり、利上げではなく財政健全化が求められています。高市政権が打ち出す食料品の消費税減税やガソリン補助金については、賃金上昇や構造改革につながらないポピュリズム的施策として批判が存在します。
ジンテーゼ:バランスの取れた政策運営
弁証法的に見ると、渡辺氏のテーゼは「インフレを定着させ賃金・物価の正常化を進める」という積極財政路線であり、アンチテーゼは「過度な財政拡張や価格抑制策が円安・インフレを招き財政規律を損なう」という懸念です。この対立を統合するためには、以下のような方策が考えられます。
- インフレ目標の維持と賃金連動制度の整備:渡辺氏が提唱するインフレ連動条項を労使交渉や公的価格に導入しつつ、中小企業の負担が過大にならないよう生産性向上支援や社会保険料軽減策を組み合わせる。
- 投資重点化と財政支出の質的向上:デジタル・半導体・グリーン技術などの分野に政府主導の投資を集中し、ガソリン補助金や一時的減税など効果の薄い支出は縮小する。
- 財政健全化へのコミットメント:実質債務をインフレで圧縮しつつも、中期的な国債発行額やプライマリーバランスの目標を設定し、円安が過度に進んだ場合は金融政策と協調して対処する。
- 国民的対話による負担の共有:先端技術への投資には増税も含め国民の理解が必要であり、政策決定においてバラマキを抑え、長期的な国家戦略を基に説明責任を果たす。
おわりに
渡辺努名誉教授はインフレ研究の権威として、賃金と物価の正常化やインフレを利用した財政再建、先端技術投資の重要性を訴えています。高市政権の積極財政路線にはその影響が見られる一方、財政拡張への市場の懸念も強く、賃金連動制度や成長投資を通じてインフレを持続可能に定着させつつ、財政規律と国民的合意を重視するバランスの取れた政策運営が求められます。

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