古典派から新自由主義へ:経済理論の弁証法的展開と政策への影響

はじめに

近代の経済理論は、歴史の中で**対立と統合(正・反・合)**を繰り返しながら発展してきました。古典派経済学が提唱した自由放任の市場原理(「正」)に対し、その矛盾や弊害を指摘する理論(「反」)が台頭し、やがて両者を踏まえた新たな統合的潮流(「合」)が生まれる――こうした弁証法的プロセスによって、経済思想は次第に姿を変えてきたのです。本稿では、古典派経済学から新自由主義に至る理論の流れをこの弁証法的視点で整理し、各理論がどのように経済政策に影響を与えてきたかを考察します。あわせて、各理論の背景にある社会的・政治的文脈や、その政策実施への反発・転換にも注目します。

古典派経済学(「正」):自由市場原理の成立と政策への影響

古典派経済学は18~19世紀に確立した経済思想で、自由市場による調和を強く信奉しました。アダム・スミスらに代表される古典派は、「見えざる手」によって個人の利己的行動が社会全体の富を増進すると考え、経済への政府の介入を最小限に抑える*レッセフェール(自由放任主義)*を主張しました。産業革命期のイギリスをはじめ、多くの国で台頭したこの思想は、個人の自由な経済活動私的所有を擁護し、国家は治安維持や契約の執行など**最低限の役割(夜警国家)**にとどまるべきだと説いたのです。

古典派の台頭した背景には、封建的規制や重商主義政策への反発と、新興産業資本家階級(ブルジョワジー)の台頭がありました。18世紀末~19世紀の欧米では、旧来の国家主導の経済統制(関税による貿易制限やギルド規制など)が産業発展の障害とみなされ、自由貿易や市場競争を求める声が高まっていました。古典派経済学はこうした時代思潮を理論的に正当化し、自由貿易の推進規制緩和、**通貨の安定(金本位制)**など多くの政策に影響を与えました。

  • 貿易政策: イギリスでは1846年の穀物法廃止に象徴されるように、古典派の影響で保護関税が撤廃され、自由貿易体制が確立しました。比較生産費説に基づく自由貿易の利益が信じられ、各国で対外開放が進みました。
  • 財政金融政策: 古典派は均衡財政と金本位制を支持し、政府赤字や紙幣増発によるインフレを戒めました。その結果、19世紀には政府は低支出・均衡予算を維持し、中央銀行も通貨の安定を重視する政策を採用しました。
  • 産業政策: 基本的に産業への直接介入は否定され、市場競争に委ねる姿勢がとられました。労働市場でも賃金は市場原理に委ねられ、労働者保護立法は19世紀後半まで最低限にとどまりました。

このように**「小さな政府」を旨とする古典派路線は、19世紀を通じ各国の経済政策に大きな影響を及ぼしました。しかし、市場に全面的に委ねるモデルは同時に様々な社会的矛盾も露呈させていきます。景気循環による周期的な恐慌**(例:1830年代・1870年代の不況)や、自由競争の結果としての貧富の格差拡大、劣悪な労働環境や都市部のスラム化など、自由放任の影で深刻な問題が顕在化しました。古典派経済学そのものも、価値理論(労働価値説)の限界など内在する論理的課題を抱えていました。これらの市場経済の矛盾こそが、次節で述べる「反」(アンチテーゼ)すなわち古典派への批判的潮流を生み出す土壌となったのです。

古典派への「反」:市場の限界と国家・社会主義的介入の台頭

19世紀後半から20世紀前半にかけて、古典派の自由市場理念に対する反論・批判が力を増していきました。産業資本主義が成熟する中で顕在化した様々な問題に直面し、市場任せでは解決できない矛盾への対処を求める思想が勃興したのです。この「反」の動きは大きく二つの潮流に分けられます。一つは社会主義・マルクス主義の潮流、もう一つは急進的ではないものの国家の積極的役割を唱える制度改革・国家介入主義の潮流です。

社会主義・マルクス主義の批判

資本主義そのものを批判しより根本的な変革を主張したのが、マルクスに代表される社会主義の理論です。カール・マルクスは古典派経済学の労働価値説を継承・批判しつつ、資本主義の発展過程を弁証法的(歴史的唯物論的)に分析しました。マルクス主義は、自由市場経済が必然的に搾取と階級対立を生み出し、やがて経済危機を引き起こす内的矛盾を指摘しました。利潤追求に基づく自由競争の下では資本の集中と労働者の貧困化が進み、有効需要の不足過剰生産恐慌が避けられないと論じたのです。そしてその矛盾を解消するためには、生産手段の社会的所有による計画経済への移行(資本主義から社会主義への「転化」)が必要だと主張しました。

マルクス主義の影響は、理論面に留まらず20世紀の現実の政策にも現れました。1917年のロシア革命はマルクス主義を掲げた史上初の社会主義国家を樹立し、以後ソ連をはじめ東欧やアジアで計画経済体制が実験されました。また西側諸国でも、マルクス主義の影響を受けた労働運動や社会主義政党が勢力を伸ばし、資本主義国の政府に対して労働者保護政策や福祉充実を求める圧力となりました。つまり、古典派的な放任政策に対するラディカルな「反」としてマルクス主義は登場し、その存在は直接・間接に各国の政策に影響を与えたのです。例えば、19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツのビスマルク政権が社会主義勢力の台頭に対抗して社会保険制度(医療保険や年金)を導入したことや、各国で労働組合の合法化・労働時間規制など労働法制の整備が進んだことは、市場原理への反動の現れと言えます。

国家による介入と制度改革の潮流

もう一つの「反」の潮流は、必ずしも社会主義革命を求めるものではありませんでしたが、資本主義を維持しつつその欠陥を是正するために国家が介入すべきとする考え方です。19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米では「進歩主義」や「社会改良主義」の動きが広がり、独占資本の弊害を抑える反トラスト法の制定や、労働者の救済を目的とした福祉政策の萌芽が見られました。アメリカのプログレッシブ時代には独占企業の解体や労働基準の設定が図られ、ヨーロッパ諸国でも公教育の充実や公衆衛生の改善など、生活水準向上を目的とした公共政策が展開されました。これらは古典派の自由放任主義からの転換点であり、「小さな政府」に対する漸進的な反証とも言えるでしょう。

特に1929年の世界大恐慌は、古典派経済学の信条だった「市場の自動調整メカニズム」への信頼を根底から揺るがしました。大量失業と経済崩壊の中で、各国政府は従来の消極姿勢を転換せざるを得なくなります。アメリカではフランクリン・ルーズベルト大統領の下でニューディール政策が実行され、公共事業による失業対策や産業政策的な価格統制が導入されました。これは従来の自由放任路線とは一線を画す積極的経済政策であり、古典派的「正」に対する現実的な反措置でした。ただし当初、こうした政策には明確な理論的裏付けが不足していました。そこで登場したのが次節で述べるケインズ革命であり、これによって「国家介入による資本主義の修正」という潮流は理論的にも確固たるものとなります。

以上のように、古典派がもたらした自由市場体制の副作用に対し、19世紀後半から20世紀前半にかけては革命的(社会主義的)なものから改革主義的なものまで多様な「反」が生まれました。これらはいずれも市場原理の限界を補完・克服しようという試みであり、その延長線上で生まれた理論的・政策的な合意点こそが次に述べる「合」、すなわち混合経済体制の成立です。

混合経済体制の「合」:ケインズ主義と福祉国家の成立

「正」と「反」の相克から生まれた統合(合)の代表例が、20世紀中葉に確立したケインズ主義に基づく混合経済体制です。経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、大恐慌下の現実を踏まえて古典派経済学とその延長にある新古典派理論を批判しつつ、資本主義を維持しながら失業や不況の問題を解決する新たな理論枠組みを提示しました。1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』で彼が示したのは、有効需要の原理に基づき政府が積極的に財政・金融政策を駆使して経済を安定化させうるという考え方です。ケインズはマルクス主義のように資本主義の打倒までは主張せず、「修正資本主義」とも言うべき路線を切り開きました。これは、古典派の「正」(市場メカニズム尊重)と、前節で触れた「反」(国家介入の必要性)の統合的解答だったと言えます。

第二次世界大戦後、ケインズ経済学の考え方は欧米諸国の経済政策に広範に取り入れられ、史上空前の長期繁栄(いわゆる**「黄金時代」)をもたらしました。各国政府は完全雇用と経済成長を政策目標に掲げ、裁量的財政政策(不況時の公共投資・減税、好況時の歳出抑制)や金融政策による需要管理を実施しました。同時に、所得再分配や社会保障の充実によって市場の結果を調整する福祉国家が形成されました。民間の自由な活動を基本としながらも、政府がマクロ経済を安定させ福祉を提供するこの体制は、「混合経済」と称されます。これはまさに、自由市場(資本主義)の利点と国家介入(社会的公正)の理念を合一させた体制**といえます。

  • マクロ経済政策の転換: 従来の小さな政府路線から一転し、政府支出や中央銀行の金融調節によって景気を平準化する積極政策が常態化しました。失業が生じれば財政赤字を容認してでも需要喚起を図る姿勢が一般化し、「雇用なき繁栄」を避けることが重視されました。
  • 国際経済体制: 戦後のブレトンウッズ体制の下で各国は為替レートを安定させつつ資本移動をある程度管理し、国内経済政策の自律性を保ちました。IMF・世界銀行の設立により国際協調も図られ、保護主義の台頭を抑えつつも各国が自主的に景気対策を取れる環境が整備されました。これは古典派的な金本位・自由放任の国際経済とは対照的な、管理された資本主義体制でした。
  • 社会政策の拡充: 多くの国で失業保険、年金、医療保険などの社会保障制度が整備され、教育や住宅政策への公的支出も拡大しました。市場競争の下でも最低限の生活が保障されるようになり、所得格差の是正も図られました。これにより資本主義は労働者階級からの支持をある程度取り戻し、社会主義革命への欲求を弱める効果も生みました。

ケインズ主義的合意の時代には、経済成長率も雇用も良好で、資本主義は安定したかに見えました。しかし、この**「合」としての混合経済体制もまた永久に続いたわけではありません。1970年代に入ると、いくつかの内在的な矛盾が表面化します。一つは、長期繁栄の中で労働者の賃金上昇や手厚い福祉によって企業収益率が低下し、民間投資の勢いが減退した点です(マルクス経済学的な視点では「利潤率の低下」に相当)。もう一つは、景気刺激策を繰り返した副作用としてインフレ圧力が蓄積し、1970年代初頭には深刻なインフレと経済停滞の併発(スタグフレーション)が起きた点です。従来のケインズ政策はインフレと失業の同時発生という状況に効果的対処ができず、政策当局の信用は低下しました。また1971年のドル・ショックに象徴されるブレトンウッズ体制の崩壊や、1973年・79年の石油危機によるコスト高騰など、戦後体制を揺るがす外的要因も重なりました。こうした一連の出来事は、混合経済=合という統合された枠組みに対する新たな挑戦を促すことになります。その挑戦こそが次の「反」、すなわち新自由主義の台頭**でした。

新自由主義という新たな「反」:市場原理への回帰とその影響

1970年代後半から20世紀末にかけて台頭した新自由主義(ネオリベラリズム)は、ケインズ的な混合経済体制への批判と反動として生まれた思想です。新自由主義は、基本的には古典派経済学が掲げた自由市場信仰の現代版であり、混合経済期に拡大した国家の経済関与を再び縮小しようとするものです。ただし単なる復古ではなく、1970年代までの経験を踏まえて理論的にも政策的にも洗練された形で現れました。経済学的にはフリードマンらのマネタリストの理論や、ルーカスらの新古典派復興(合理的期待形成と市場均衡を重視する理論)が台頭し、「政府の裁量的介入はかえって経済を不安定化させる」という批判が強まりました。政治的には、1979年のイギリスのサッチャー政権、1980年のアメリカのレーガン政権が掲げた一連の改革が新自由主義の代表例です。これらの政権は、「大きな政府」から「小さな政府」へというスローガンの下、自由市場への回帰を図りました。

新自由主義が推進した主な政策は以下の通りです。

  • 金融・財政の引き締め: 1980年代初頭、アメリカではFRB議長ポール・ボルカーの強硬な金融引締め(高金利政策)によってインフレを沈静化させました。また各国で財政赤字の削減が図られ、政府支出の抑制が重視されました。これは高インフレ・高失業に苦しんだスタグフレーションへの反省として、インフレ退治と財政健全化を優先したものです。
  • 規制緩和・民営化: 新自由主義改革では、従来の混合経済期に設けられた様々な産業規制や価格統制が撤廃されました。例えば航空・電気通信・金融などの分野で市場参入規制を緩和し競争を促進しました。また国営企業の民営化(イギリスの石油・ガス・鉄道、公営住宅の売却など)が各国で進み、民間活力の重視が掲げられました。
  • 労働市場の柔軟化: 労働組合の力を抑制し、解雇規制の緩和など企業が労働力を柔軟に調整できる環境づくりが行われました。サッチャー政権下の英国では炭坑ストへの強硬対応など労組弱体化策が講じられ、米国でもレーガン政権が航空管制官ストライキを解雇で対抗するなど組合への姿勢を硬化させました。その結果、労働分配率が低下し、人件費抑制による企業収益改善が図られました。
  • 減税と市場インセンティブ: 新自由主義はトリクルダウン理論に基づき、高所得者や企業の減税を通じた投資・生産意欲の喚起を重視しました。米国のレーガノミクスでは大幅減税が実行され、英国でも所得税の最高税率引き下げなどが行われました。これにより民間の活力を取り戻し、経済成長につなげることが期待されました。

新自由主義は、このような市場原理の再徹底によって経済の停滞を打破しようとする試みでした。その背景には、1970年代のケインズ政策に対する失望だけでなく、地球規模での競争環境の変化もありました。技術革新やグローバル化の進展により資本が国境を越えて移動する時代になると、各国は企業誘致や国際競争力強化のため規制緩和・減税に走らざるを得ない状況も生まれました。さらに、1980年代後半から1990年代にかけてはソ連東欧圏の社会主義経済が相次いで崩壊し、市場経済の優位性が改めて意識されました(「歴史の終わり」という言葉が語られたのもこの頃です)。こうした潮流も相まって、新自由主義は1990年代まで世界的な政策パラダイムとして定着しました。発展途上国に対してはIMFや世界銀行がワシントン・コンセンサスと呼ばれる市場開放・民営化・財政緊縮の政策パッケージを推奨し、多くの国で貿易自由化や資本市場の開放が進められました。

しかし、新自由主義的政策もまた負の側面や新たな矛盾を露呈していきます。たしかにインフレの沈静化や一部の経済活性化には成功したものの、同時に所得格差の拡大や社会保障の後退が進みました。富裕層や大企業は減税とグローバル市場で大きな利益を得ましたが、先進国の労働者階級は産業空洞化や賃金停滞に苦しみ、途上国でも格差が目立つようになりました。また、金融規制の緩和によって金融セクターが肥大化し、各種のバブルや金融危機が頻発するようになります(1987年の株式市場暴落、1997年のアジア通貨危機、2000年代のITバブル崩壊など)。そして2008年のリーマン・ショックに代表される世界金融危機は、新自由主義的な市場万能思想への信認を大きく傷つけました。危機克服のため各国政府が巨額の公的資金投入や金融緩和を行わざるを得なかった事実は、市場の自己調整限界を改めて示したとも言えます。

こうした展開を踏まえ、21世紀に入ると新自由主義に対する見直しや批判も強まっています。各国でポピュリズム的な反グローバル化の政治が台頭したり、環境問題・パンデミック対応など市場に任せられない課題への政府関与が求められたりする中で、経済運営の在り方は再び転換期を迎えているようにも見えます。もっとも、新自由主義に代わる明確な新パラダイムは未だ模索段階であり、経済理論の弁証法的発展は現在進行形とも言えるでしょう。

結論:経済思想と政策の弁証法的進展

古典派経済学から新自由主義に至る経済理論の歴史は、一つの理念が支配的になると、その内在する欠陥や矛盾が次第に明らかになり、それに挑戦する対立的な思想が生まれ、やがて新たな統合へと収斂するという弁証法的サイクルの連続でした。自由市場を信奉した古典派という「正」は、格差や恐慌といった現実の前に社会主義や国家介入論という「反」を誘発し、その対立から生まれたケインズ主義的な混合経済体制は一時「合」として繁栄をもたらしました。しかし「合」も完全ではなく、時間の中で再び矛盾を抱え、新自由主義という新たな「反」の勃興を許しました。そして新自由主義もまた、多くの恩恵をもたらす一方で新たな問題を引き起こし、次なる統合への模索が始まっています。

経済理論はそれ自体が観念上の産物であると同時に、各時代の社会的要求や政治的力学を反映し、具体的な政策として具現化されてきました。したがって、その発展過程を弁証法的視点で捉えることは有益です。ある理論が支配的な政策パラダイムとなるとき、同時にその理論では救えない問題が蓄積します。そしてその反作用として新たな理論・政策が求められ、既存体制を乗り越える動きが生じるのです。経済思想史の流れを俯瞰すると、市場と政府の役割配分という根本的テーマを巡って振り子のように揺れ動いてきたことが分かります。自由放任と統制、資本主義と社会主義という両極の間で、現実の経済政策はその時代ごとの折衷解を模索してきました。

古典派から新自由主義までの歴史的展開を学ぶことで、現在直面している経済課題にも示唆が得られます。例えば、グローバル化による格差拡大や気候変動への対応など、21世紀の課題に対しては市場メカニズムだけでは不十分であり、新たな政府の役割や国際協調の枠組み(ポスト新自由主義的な合)が模索されています。同時に、過度な政府介入が停滞を招く懸念も根強く、依然として市場の効率性を重んじる声(古典的信念の復唱)もあります。こうした理論と政策のせめぎ合い自体が弁証法的発展の現れと言えるでしょう。

結局のところ、経済理論における「正・反・合」のプロセスは固定的な終着点を持たず、社会経済の変化に応じて動的に繰り返される過程です。それぞれの時代の「正」は次の時代には「旧来のもの」となり、新たな「反」によって乗り越えられていきます。政策担当者にとって重要なのは、支配的理論の恩恵と限界を正しく認識し、次なる統合への創造的対応策を見出すことです。歴史を通じた経済思想の弁証法的展開を理解することは、現在と未来の経済政策を考える上でも貴重な指針となるでしょう。

要約

経済理論と政策の弁証法的発展: 古典派から新自由主義まで

古典派経済学:自由市場という「正」

背景と主張: 18世紀後半から19世紀にかけて大成した古典派経済学は、アダム・スミスやデヴィッド・リカードらによって確立されました。彼らは市場での自由な競争と個人の利己心(**「見えざる手」**の原理)が経済全体の調和と発展をもたらすと考え、政府の経済への介入を極力排除する自由放任主義(レッセフェール)を主張しました。古典派の理論では、財やサービスの生産(供給)がそれ自体で需要を生み出す(セイの法則)ため、市場は自律的に均衡し失業も一時的と捉えられていました。

政策への影響: 古典派経済学の思想は19世紀の資本主義国の政策に深く影響を与えました。特にイギリスではリカードの自由貿易論により穀物法撤廃などが実現し、自由貿易と小さな政府が経済政策の基本となりました。各国で関税引き下げや規制緩和が進み、金本位制のもとで通貨の安定も図られました。政府の役割は治安維持や契約の執行など最小限にとどめ、社会は市場原理に委ねるのが望ましいと考えられたのです。

次の理論への伏線: 古典派経済学が理想とした自由市場には大きな繁栄をもたらす力がありましたが、その一方で景気循環の不安定さや労働者の貧困・格差といった問題も顕在化しました。19世紀後半になると資本の集中が進み、独占や不況の発生によって「市場の失敗」が無視できなくなります。また、古典派を批判する思想も生まれました。代表的なのはマルクスの**社会主義経済学(マルクス経済学)**で、資本主義の矛盾(労働者の搾取や過剰生産による恐慌)を指摘し、私的所有の廃止という過激な対案を提示しました。このように古典派の「正」としての自由市場思想は、その成功と限界の双方によって次第に新たな「反」を招く土壌を形成していったのです。

ケインズ経済学:市場限界への「反」

背景と主張: 20世紀に入ると、資本主義経済は古典派の予想を超える深刻な危機に見舞われました。1929年の世界恐慌では市場に任せたままでは経済が回復せず、大量の失業と倒産が続く事態となりました。この歴史的危機に対し、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが古典派への挑戦となる理論を提唱します。彼は1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、有効需要の不足が不況と失業の原因であると指摘しました。ケインズ経済学では、人々は将来の不確実性から必ずしも合理的に行動せず(いわゆる「アニマルスピリッツ」に左右される)、価格や賃金の硬直性もあって市場は自動調整能力を欠くとされます。そのため、政府が財政政策(公共事業や減税など)や金融政策を通じて積極的に総需要を創出・調整し、完全雇用と経済成長を実現すべきだと主張しました。これは自由放任の「正」を否定する**「反」の理論**であり、資本主義を修正して安定化させる新たな道を示したのです。

政策への影響: ケインズ理論に基づく有効需要政策は、修正資本主義(混合経済)として第二次世界大戦後の先進国で広く採用されました。各国政府は景気後退時に財政出動で需要を下支えし、中央銀行も金融緩和で協調して失業削減に努めました。例えば、米国のニューディール政策や戦後の「福祉国家」の建設はケインズ主義的発想の表れであり、政府が公共投資・社会保障によって所得分配を改善しつつ経済成長を促しました。またブレトンウッズ体制の下で各国は通貨を安定させ、貿易と成長の両立を図りました。こうした政策により、戦後から1970年代前半までの先進国経済は高成長と比較的低失業を享受し、ケインズ経済学は主流の地位を築きました。

次の理論への伏線: ケインズ的な介入路線も、長期的には新たな矛盾を抱えるようになります。1970年代に入ると、オイルショックを契機にスタグフレーション(景気停滞下でのインフレ)が発生し、従来の有効需要拡大策ではインフレを悪化させるだけで失業を解決できない状況に陥りました。また政府の裁量的な経済介入が繰り返される中で、先進各国は慢性的な財政赤字や非効率な国有企業の問題、膨張する福祉予算による財政負担などに直面します。さらに、市場メカニズムを軽視しすぎた結果として経済活力が低下するとの批判も強まりました。つまり、ケインズ主義という「反」が成功裡に資本主義を安定させたかに見えたものの、その副作用や行き過ぎが明らかになると、新たな**「合」への模索**が始まったのです。

新自由主義:市場への回帰という「合」

背景と主張: ケインズ的な大きな政府路線への反省から生まれたのが、新自由主義(ネオリベラリズム)と呼ばれる思想です。これは1970年代後半から1980年代にかけて台頭し、フリードマンやハイエクといった経済学者の理論に支えられて展開されました。新自由主義は「小さな政府」を掲げ、政府の市場介入や財政支出を抑制して民間の自由競争に委ねるべきだと主張します。その核心にあるのは、市場の自己調整機能への信頼の再確認です。古典派経済学と同様に個人の選択と市場の効率性を重視しますが、新自由主義は特にインフレ抑制や財政均衡の重要性を強調しました。ケインズ主義への批判から、**マネタリズム(通貨供給量の管理によるインフレ制御)サプライサイド経済学(供給面からの成長促進)**といった新しいアプローチが導入され、持続的成長には低インフレと競争原理が不可欠と説かれたのです。つまり、新自由主義は古典派の自由市場理念を現代の課題に合わせて再構築した「合」の理論といえます。

政策への影響: 新自由主義は1980年代以降、米英を皮切りに世界各地の政策に大きな転換をもたらしました。イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権はその代表例で、両国では大規模な規制緩和国有企業の民営化、高税率の引き下げ、労働市場の自由化などが実行されました。これらの政策は市場の活力を引き出し、インフレを抑制する効果を生み、一時停滞していた経済の再活性化につながりました。その後もこの潮流は各国に波及し、発展途上国でも**「構造調整」自由貿易の推進**といった形で新自由主義的改革が奨励されました。日本でも1980〜90年代に行政改革や民営化が進められ、市場原理の導入による効率化が図られました。新自由主義の広がりによって、世界経済はグローバルな資本移動と競争が一段と進み、民間主導のイノベーションが促進されたのです。

次の展開と評価: 新自由主義による市場中心の体制は、資本主義の新たな段階として定着しましたが、その功罪は評価が分かれています。市場競争の活発化で経済成長や低インフレを実現した反面、社会では所得格差の拡大や労働の不安定化が進みました。また、規制緩和による金融市場の肥大化は度重なるバブル崩壊や金融危機を招き、政府の役割を最小化しすぎることへの反省も生まれています。21世紀に入り、2008年の世界金融危機や2020年前後のパンデミックを経て、各国で政府の積極的な経済関与が再評価される動きも出てきました。すなわち、経済理論と政策の発展は常に弁証法的なサイクルを描いており、古典派から新自由主義に至る過程も、自由市場の原理と国家介入のバランスを巡る**「正・反・合」**の繰り返しだったと言えます。現在においても、過去の理論の主張と反省を踏まえながら、新たな統合的アプローチを模索する動きが続いているのです。

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