「風呂」という言葉は、元来「蒸し風呂」を指していました。狭い室内に湯を沸かして蒸気をため、その蒸気を浴びる入浴法が古くから行われており、この狭い部屋「室(ムロ)」が「フロ」と呼ばれるようになったと考えられています。民俗学者の柳田國男も『風呂の起源』で「フロは多分、室(ムロ)と同じ語で…岩屋のことであったろう」と述べており、寺院の地下や岩穴に作られた蒸し風呂が出発点であったことを示唆しています。一方で江戸時代の国学者・谷川士清は、茶道具の「風炉(ふろ)」を語源とする説を挙げています。風炉とは茶釜の湯を沸かす炉のことで、その仕組みが後の五右衛門風呂に似ているためです。実際、平安末期に中山忠親が記した『山槐記』や藤原定家の『明月記』には「風炉の東より…」「風炉の傍の御湯殿…」とあり、平安・鎌倉時代から「ふろ」の語が用いられていたことが分かります。
漢字表記の「風呂」は当て字で、古くは「風炉」と書かれました。現在の「風呂」の「風」は蒸気や風の勢いを示唆する字であり、「呂」は音を表す文字です。「呂」という字はもともと背骨が連なる形を象った象形文字で、「背骨」「長い」を意味していました。現代ではこの意味に関係なく「ふろ」の音を当てる当て字として使われており、例として「風呂」が挙げられます。
古代・中世の入浴文化
古代の日本では神道の禊(みそぎ)習慣があり、川や滝で身を清める風習がありました。仏教伝来後は、寺院に入浴用の施設(浴堂、湯殿)が造られ、僧尼の健康増進や施浴(貧民への湯治)に供されました。奈良・平安時代の入浴は、浴槽に浸かるのではなく、薬湯を煮て発生した蒸気で体を蒸らす蒸し風呂形式でした。この時代の「風呂」はまさに蒸し風呂であり、湯に浸かる入浴は「湯屋」や「湯殿」と区別されていました。平安時代になると、こうした寺院の蒸し風呂が貴族の邸宅にも取り入れられ、『枕草子』にもその様子が描かれています。
鎌倉時代になると、東大寺再建に尽力した僧・重源(ちょうげん)が材木伐出しに従事する人夫のため、鉄製の大きな浴槽(鉄湯船)を提供した記録が残っています。これは後に「長州風呂」の原型ともされるものです。この頃まで入浴法は蒸し風呂や行水(湯をかける洗身)が主流で、桶に湯を張って全身を浸ける現代的な浴槽入浴はまだ一般的ではありませんでした。
江戸時代以降の入浴文化
江戸時代に入ると、蒸し風呂に代わって湯を沸かして浴槽で体を浸す入浴法が広まります。行水的な洗いと蒸し風呂が融合したこの全身浴スタイルは、江戸中期頃までに定着していきます。江戸の町人は風が強く埃が舞い上がる環境下で働いていたため、毎日の入浴を好む人が多く、江戸市中には銭湯が数百軒に達したといいます。水や薪が貴重だった当時、多くの家には風呂がなく、近所の湯屋(銭湯)に通うのが日常でした。江戸初期には髪を梳いたり背中を流したりする「湯女(ゆな)」がいた混浴風呂屋も存在しましたが、1657年の改革で廃止されても男女混浴の習慣はしばらく続きました。
当時の入浴作法としては、まず湯船に入る前に湯を体にかけ(かけ湯)、浴槽から上がった後に洗い場で体を洗い、最後に上がり湯(かけ湯)で清める手順が一般化していました。また江戸では、船に浴槽を積んで営業する移動式銭湯が登場し、堀や川を巡るその船を「湯船」と呼ぶようになりました。この「湯船」が転じて、浴槽そのものを指す言葉になりました。さらに、銭湯で浴衣や持ち物を包む厚手の布が使われるようになり、やがてそれが「風呂敷」と呼ばれるようになったのも江戸時代のことです。
明治以降は西洋式の浴槽や給湯設備が広まり、住宅に浴室を設ける家庭が増えていきました。それでも日本では「お風呂につかる」という表現が一般的で、銭湯や温泉と同様に家庭での入浴も大切にされてきました。こうして「風呂」という言葉には、蒸し風呂から湯船浴へと変遷しつつ、平安・鎌倉期から江戸・近代にかけての日本人の入浴文化が反映されています。
参考文献: 日本浴用剤工業会・入浴コラム、浴用文化関係記事 (引用部は要旨)
要約
「風呂」という言葉は、元々「蒸し風呂」の意味で使われました。「フロ」という音は、「室(ムロ)」、つまり狭くて蒸気をためる部屋に由来しています。平安・鎌倉時代にはすでに貴族や寺院で用いられ、蒸気を浴びる形式の風呂が主流でした。
江戸時代になると、湯船に浸かるスタイルが普及し、都市では銭湯が一般化しました。この頃「湯船」という言葉も定着し、船に浴槽を載せて巡回したことに由来します。「風呂」の漢字は当て字で、「風炉」とも書き、もともとは茶道具の湯を沸かす炉の意味から転じました。
現代の浴槽での入浴習慣は、江戸時代に完成し、その後一般家庭にも浸透しました。
コメント