財政拡大は円高か円安か


1. 背景と論争の位置づけ

2025年の日本では「積極的財政は円高を招く」という主張がリフレ派の経済学者や一部の政策関係者から示され、為替市場やメディアで議論が続いている。議論の基礎にはマクロ経済学のマンデル=フレミング・モデルがあり、開放経済における財政・金融政策の効果を示した理論として知られる。このモデルによれば、財政拡大が国内金利を押し上げ、海外から資金を呼び込むことで自国通貨が高くなるとされる。ユーロ圏で財政拡大が金利を上昇させ、ユーロ高につながった例も紹介され、リフレ派は日本でも同様の効果が期待できると強調している。

一方で、2025年11月時点の為替市場では円安基調が続いており、円は1ドル=156円前後から160円台まで下落している。政府は約21兆円規模の補正予算を打ち出したが、円高の兆候は見られない。この現実との乖離から、「モデルは日本には適用できない」「積極財政はむしろ円安要因ではないか」という反論も多い。こうした対立を整理するため、テーゼ(主張)‐アンチテーゼ(反論)‐ジンテーゼ(総合)の弁証法的視点で論じる。

2. テーゼ:財政拡大は円高をもたらす

2.1 モデルに基づく理論的根拠

マンデル=フレミング・モデルでは、変動相場制と完全な資本移動を前提に、財政拡大が国内金利を押し上げると考える。金利上昇は海外投資家にとって魅力的となり、資本が流入して円に対する需要が高まるため円高になる。同時に輸出が減少し、輸入が増加するため景気刺激効果は抑えられる(クラウディング・アウト)。

リフレ派の会田卓司氏や片岡剛士氏はこの理論を拠り所に、日本の積極財政が長期的な成長期待を高め、金利上昇と円高につながると主張している。欧州では財政拡大が長期金利を上昇させ、ユーロ高につながったとされる実例が強調され、モデルの「教科書的な正しさ」が訴えられる。また、米国でもインフラ投資や財政出動による金利上昇がドル高につながったとして、逆に日本は米国より財政拡張の規模が小さいので円は相対的に高くなるはずだという理屈も提示されている。

2.2 政策インプリケーション

こうした主張は、デフレ脱却と持続的成長を目指す立場と親和性が高い。積極財政が成長力を高め、金利も上昇して円高になるならば、輸入価格の抑制や実質賃金の改善を通じて物価高対策にもつながる。そのため、リフレ派は財政規律よりも景気刺激を優先すべきだと論じ、円安を許容する政策に批判的である。

3. アンチテーゼ:財政拡大でも円安は止まらない

3.1 現実との乖離

現実の為替市場では、日本の財政拡大と同時に円安が進行している。円は2024年から2025年にかけて大きく下落し、輸出企業の採算改善はあっても家計の購買力低下や輸入物価の上昇が問題となっている。円安を受けて政府は市場へのけん制発言を行い、為替介入への警戒も高まっている。モデルが想定するような円高は観測されず、むしろ円を手放して外貨建て資産に投資する動きが家計・企業で増えている。

3.2 理論的・実証的な反論

  • 実質金利のマイナスとインフレ期待:財政拡大がインフレ期待を押し上げる場合、名目金利が一定でも実質金利は低下する。日本では物価上昇率が上がり始めているものの政策金利は低水準にとどまっており、10年債利回りが上昇してもインフレを考慮した実質金利はなおマイナスである。実質金利がマイナスのままでは日本への資本流入は起こりにくく、円売り圧力が続く。
  • 資本移動の不完全性とリスクプレミアム:モデルは完全な資本移動と金利平価の成立を前提としているが、実際には規制や為替リスク、地政学的要因などで資本移動は限定的である。日本は長期的に低金利で信用度が高いと見なされるため、金利が多少上昇しても外貨から円への巻き戻しは起こりにくい。また、高い政府債務残高に伴う財政リスクプレミアムが上昇し、金利上昇がかえって円安要因となる可能性も指摘される。
  • 相対的な政策スタンス:円相場は相手国通貨との比較で決まる。日本が財政拡大をしても、米国がそれ以上に財政・金融緩和を行って金利を引き上げれば、円は相対的に安くなる。2024〜25年に米国の長期金利は急上昇し、ドル高が進んだ。日本の財政拡大が円高をもたらすとの主張は、米国の政策スタンスや世界的な金融環境を十分考慮していないとの批判がある。
  • 信用と期待の問題:円高論者は「内需が拡大して成長力が高まり、金利が上昇すれば円高になる」と期待するが、現時点では市場参加者がそのシナリオを信じていない。家計や企業は将来の財政負担増を懸念し、円を売って外貨資産を保有する傾向が強まっている。欧州の例を見ても、財政拡大が必ず通貨高につながるとは限らず、英国では2022年に財政拡大発表を受け金利が急騰しポンドが急落する「トラス・ショック」が起きた。
  • モデルの適用範囲:マンデル=フレミング・モデルは政策効果を示す理論的枠組みであり、為替相場の短期予測モデルではない。本来は資本移動の弾力性や財政赤字の持続可能性など多くの条件が付いており、現実の複雑な要因をすべて捉えているわけではない。為替市場は投機やリスク回避行動、国際政治など多様な要因に左右されるため、単純な理論から直接的な相場予想を行うのは難しいとの指摘がある。

3.3 政策面の含意

アンチテーゼの立場からは、財政拡大に伴う円安を無視できないとする。財政拡大はインフレ期待や債務増大を通じて円安圧力を高め、輸入価格の上昇や家計の購買力低下につながる。従って、財政政策だけでなく、金融政策や構造改革を組み合わせた包括的なアプローチが必要だと強調される。長期的な財政規律の維持と金融正常化が市場の信認を高め、通貨の安定に寄与するとの主張が展開されている。

4. ジンテーゼ:条件依存的な為替メカニズムの理解

弁証法的な総合の視点からは、財政拡大が円高を招くか円安を招くかは単一の理論では決定できないと結論付けられる。マンデル=フレミング・モデルは有用な分析枠組みだが、その前提条件が厳しいことや現実の複雑性を踏まえる必要がある。以下のような要素を考慮した複合的な分析が必要だ。

  1. 相対金利差と実質金利:名目金利が上昇しても物価上昇率がそれ以上に高まれば実質金利は低下し、資本流出を招く可能性がある。財政拡大がインフレ期待をどの程度刺激するかが重要であり、金利の絶対水準よりも国内外の実質金利差が為替に影響を与える。
  2. 資本移動とリスクプレミアム:資本移動の弾力性は国や状況によって異なる。国際情勢や金融規制、信用度が資本流入に影響する。高債務国では財政拡大が信用懸念を高め、リスクプレミアムが上乗せされて金利上昇が円安に転化する場合もある。政策当局は財政運営の透明性と持続可能性を示すことでリスクプレミアムを抑える必要がある。
  3. 相手国の政策との比較:為替は二国間・多国間の通貨価値の比較で決まるため、日本が財政拡大しても主要貿易相手国が同時に財政・金融を拡大すれば相対的な影響は小さい。米国や欧州の金利動向・財政政策を注視し、相対的なスタンスを考慮することが重要である。
  4. 市場参加者の期待形成:政策の効果は経済主体の期待に大きく左右される。財政拡大が将来の成長加速と受け取られるか、それとも財政不安と受け取られるかで為替の反応は異なる。信頼できる中期的な財政戦略と成長戦略を提示することで、円相場の安定につながる可能性がある。

総合すると、積極財政が円高か円安かを単純に断定することはできない。理論モデルの示す方向性は重要な参考になるが、日本特有の低金利・高債務・家計の外貨投資拡大といった構造要因や、世界経済の動向、金融政策との組み合わせなど多面的な要素が為替を規定する。政策当局は、短期的な為替動向に一喜一憂するのではなく、信認を損なわない形での財政拡大と金融政策の調整、供給側改革を通じた潜在成長率の向上に取り組むべきだろう。

5. 要約

  • **テーゼ(積極財政は円高説)**は、マンデル=フレミング・モデルに基づき「財政拡大→金利上昇→資本流入→円高」という理論的な連鎖を主張する。リフレ派の会田卓司氏らは長期的な成長期待を高める財政拡大が円高をもたらすと強調し、欧州や米国の例を引き合いに出す。
  • **アンチテーゼ(財政拡大でも円安が続く)**は、日本では円安が進行しており、実質金利のマイナスや資本移動の不完全性、高債務による財政リスクプレミアムが円安圧力になっていると指摘する。米国の金利上昇がドル高を招いていることも無視できない。モデルは為替予測モデルではなく、短期的な相場は多くの要因に左右されるとの批判がある。
  • **ジンテーゼ(総合)**では、円相場への影響は相対的な実質金利差、資本移動の弾力性、財政の信用度、相手国の政策スタンスなど多くの条件に依存するため、財政拡大が円高か円安かを単純に決めることはできないと結論付ける。政策当局は財政・金融政策の総合的運営と市場の信認確保に努める必要がある。

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