長いあいだ投資家たちはドルを「世界の安全通貨」と考えてきた。米国は巨大な経済規模と透明な資本市場、法の支配による安定を背景に、危機のたびに資本を引き寄せ、海外の中央銀行も外貨準備の大半をドル建て資産で保有していた。この安心感こそがドル信仰のテーゼ(正命題)であり、1970年代以降の基軸通貨体制を支えてきた。
しかし近年、特に2020年代半ばにはアンチテーゼ(反命題)が浮上している。米国財政の構造的赤字と金利上昇により国債の利払いが財政赤字の半分近くにまで達し、国債残高は指数関数的に膨張している。FRBは2025年9月に0.25%の利下げを行ったが、長期金利は低下せずむしろ上昇し、国債は真の“安全資産”ではなくなりつつあると指摘されている。投資家はドル安の可能性を見据えてゴールドやコモディティ、非ドル通貨へのシフトを強め、中央銀行も金準備の積み増しに動いている。ガンドラック氏自身も、長年ドル資産中心だったポートフォリオを2024年末頃から金と現地通貨建て新興国債券に振り替えた。
パラダイム転換が難しいのは、投資家の心理が旧来のテーゼにしがみつくからである。人は過去の成功体験がもたらす満足感を持ち続け、今後も同じ状況が続くと考えがちだ。ガンドラック氏は「ドルしか持たない投資家だった自分に、18か月前“このパラダイムはもはや有効ではない”と言い聞かせた」と述懐し、長期にわたる成功を手放す難しさを認めている。リーマンショック後に金利がゼロ近くまで下がり続けた「債券王」の時代に、ドルを買っておけば報われた経験がこの心性を強化した。
弁証法はテーゼとアンチテーゼの矛盾を深化させることで新しい合(総合)を生み出す。現在進行しているドル信仰の崩壊は、この弁証法的プロセスそのものと言える。テーゼである「ドルは安全資産」という認識と、アンチテーゼである「米国の債務危機とドル安」という現実がぶつかることで、投資家は自らの信念を再検証しなければならない。ガンドラック氏が言うように、長期金利の上昇や利払い負担の急増は財政不信から来ており、金利政策だけでは解決できない。その結果、イールドカーブはスティープ化し、短期債と長期債の間に大きな歪みが生じる。
合(新命題)は旧来の要素を全否定するわけではない。ドルは依然として世界最大の準備通貨だが、そのシェアが緩やかに低下し、投資家はポートフォリオの多様化を進める必要がある。新しい合の特徴として、次のような戦略が浮かび上がる。
- 非ドル資産へのシフト:新興国現地通貨建て債券や欧州通貨など、ドル以外の通貨に分散することで為替リスクを抑える。
- 実物資産への比重拡大:インフレや財政不安へのヘッジとして、金や幅広いコモディティをポートフォリオの核とする。ガンドラック氏は金価格が長期的にさらなる上昇余地を持つとみる。
- 短中期債への傾斜:利払い負担が膨れ上がる中で長期国債のリスクは高まり、2〜7年の国債が相対的に魅力的になる。
- 米国株への慎重姿勢:高バリュエーションと集中投資のリスクから、米国株は「マニア的」な水準にあり、アンダーウェイトが推奨される。
弁証法的視点では、このパラダイムシフトは歴史的周期の一部でもある。ニール・ハウ氏の『フォース・ターニング』は、社会と金融市場が約80年周期で危機と再生を繰り返すと述べる。米国の戦後秩序を支えたドル覇権が次の周期に差し掛かっているなら、現在の矛盾は次の時代の準備段階なのかもしれない。歴史的に見ると、通貨制度の変革や資本の流れの大転換は、経済だけでなく社会・政治の変動と同期する。トランプ政権の金融緩和策や利下げの連続は、この大きな流れを加速させる要因として働く可能性がある。
最後に要約
- ドルは長期にわたって安全通貨とみなされてきたが、米国の債務膨張と利払い負担の急増がドルの安全神話を揺るがしている。
- FRBの利下げにもかかわらず長期金利が上昇している背景には財政不信があり、ガンドラック氏はドルからゴールドや非ドル資産へのシフトを実践し推奨している。
- 投資家が過去の成功に囚われたままでは新しいパラダイムに適応できない。弁証法的に見ると、ドル信仰と債務危機の矛盾が新しい通貨・投資秩序を生み出しつつある。
- 今後は非ドル資産や実物資産への分散、短中期債への投資、米国株の比重低下などが重要になる。ドルの地位が完全に失われるわけではないが、多極的な貨幣システムへの移行が進行している。

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