はじめに
健康や美容関連の話題でしばしば耳にする「人体の物質は3か月で入れ替わる」という説は、分子生物学者の福岡伸一氏が提唱した「動的平衡」という概念に由来する。この概念では、生命体は常に外部から栄養を取り入れ、古い分子を排出しているため、数か月前と全く同じ分子は存在しないと説明される。しかし、生理学の知見では、細胞の寿命や更新速度は臓器や細胞の種類によって大きく異なる。そこで、本稿では弁証法(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ)の視点からこの主題を考察する。
テーゼ(主張):数か月で体は完全に入れ替わる
動的平衡の立場
福岡伸一氏の「動的平衡」では、生命体を構成する分子は流れのように常に入れ替わっていると捉え、数か月後には違う分子で構成されるとされる。西広島リハビリテーション病院のコラムも、筋肉のタンパク質は絶えず合成と分解を繰り返しており、分子レベルでは数か月前の自分とはまったく別物になっていると述べている。これらの主張では、細胞や分子の更新速度を平均化して「数か月程度」とみなしている。
アンチテーゼ(反対命題):3か月で完全には入れ替わらない
組織ごとの寿命の違い
生理学や医学によれば、人体を構成する細胞の寿命は組織ごとに大きく異なる。以下は例の抜粋である。
- 小腸上皮細胞:およそ3〜5日で入れ替わる。
- 胃の粘膜:約3日で更新される。
- 皮膚の表皮細胞:基底層で生まれた細胞が角層に達して剥がれ落ちるまで約28日。
- 赤血球:造血幹細胞から生まれる赤血球の寿命は約120日(約4か月)。
- 血小板:寿命は約10日間。
- T細胞:4〜6か月、B細胞:数日〜2か月。
- 筋肉細胞:代謝サイクルは約60日。
- 骨:構成成分の更新に約120日、同一部位のリモデリングは1〜4年。
- 肝臓・腎臓の細胞:更新に約1年。
- 心筋細胞:成人では年間1%程度しか更新されず、死ぬまでに半分しか入れ替わらない。
- 大脳皮質の神経細胞:生まれたときにほぼ完成し、ほとんど更新されない。
このように、腸や皮膚のように数日から数週間で新しくなる細胞もあれば、赤血球は約4か月、骨は数か月〜数年、肝臓や腎臓は1年、心筋や神経細胞のようにほとんど更新されないものまである。したがって、体を構成する細胞の更新周期は数日から一生まで幅広く、すべての細胞が3か月以内に入れ替わるわけではない。
科学的反証
科学メディアの解説も、この俗説を否定している。米国の科学番組SciShowは、赤血球が約4か月で排出される一方、骨格全体が完全に新しくなるには10年ほどかかり、心筋細胞は20歳以降は年間1%しか更新されないため死ぬときでも半分は生まれた時の細胞が残っていると説明する。こうした証拠は「3か月で完全に新しくなる」という主張に反する。
ジンテーゼ(総合):動的な流れと構造の持続
ヘーゲルの弁証法では、テーゼとアンチテーゼの対立を統合することでより深い理解を得る。両立する見方から、以下のような総合的理解が導かれる。
- 生命は流れである:分子レベルでは常に入れ替わりが起き、数か月後の体は別の分子から構成されている。これが「動的平衡」の要点である。
- 更新速度は組織ごとに異なる:小腸や皮膚のように短い周期で入れ替わるものから、骨や肝臓のように中程度、心筋や神経のようにほとんど更新されないものまでさまざまである。
- 個体同一性は構造と情報に依存する:分子や細胞が入れ替わっても、細胞間の関係性や遺伝情報、神経回路などが維持されることで同一個体として認識される。心筋細胞や神経細胞など長寿命の細胞の存在は、この同一性を支える一因となる。
動的平衡の観点は、生命を固定された「物体」ではなく流動する関係として捉える点で新しい。一方、具体的な細胞の寿命や更新周期を理解することは、健康管理や疾病理解に不可欠であり、「3か月で全てが入れ替わる」と単純化するのは誤りである。
まとめ
福岡伸一氏の動的平衡は、生命を常に変化しながら秩序を保つ流れとして捉え、数か月後の体は分子的に別物だと述べる。しかし、生理学的事実によれば、小腸上皮は数日で更新される一方、赤血球は約120日、骨は数か月〜数年、肝臓や腎臓は1年、心筋細胞や大脳皮質の神経細胞はほとんど更新されない。したがって「3か月で体の物質がすべて入れ替わる」という表現は誇張であり、実際には部位ごとに異なる更新速度の総体として身体が保たれている。弁証法的に考えるなら、生命は流れ(動的平衡)でありながら、各部位の更新速度の違いを理解し、個体同一性が物質の入れ替わりではなく構造と情報に支えられていることを見いだすことが重要である。

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