序論:成長の神話からの転換
20世紀の資本主義は、経済成長を社会の幸福と同一視し、国内総生産(GDP)の拡大を至上目標としてきました。しかし21世紀に入り成長率の鈍化や格差の拡大、気候危機や生物多様性の損失といった環境制約が顕在化し、成長主義そのものを問い直す潮流が生まれています。江原慶氏は『資本主義はなぜ限界なのか』で、資本主義の根底にある「成長至上主義」を脱し、新しい経済モデルの道筋を示しています。本稿では資本主義の限界を弁証法的視点から検討し、歴史的条件(テーゼ)と現代の矛盾(アンチテーゼ)を踏まえて、脱成長市場経済という統合(ジンテーゼ)を描きます。
1. 資本主義の黄金期:成長を支えた三つの条件(テーゼ)
1.1 固定為替制度による資本の安定
第二次世界大戦後の世界経済はブレトン=ウッズ体制の固定相場制に支えられました。日本では1ドル=360円という単一レートが設定され、通貨と物価の安定が図られました。円安の固定相場は輸出産業の復興を後押しし、加工貿易立国としての経済成長の基盤となりました。安定した金融環境のもと、企業は長期的な投資計画を立て、資本蓄積を進めることができました。
1.2 労働者の生活保障と賃金還元
戦後の日本では農地改革や独占禁止法、労働三法の制定などにより労働者の権利が保障されました。この結果、労働者は企業への忠誠と引き換えに安定した賃金を得て、消費市場の拡大に貢献しました。欧米諸国でも労働組合が強く、賃金上昇が生産性の向上と連動していました。企業利益が広く還元された結果、「一億総中流」と呼ばれる社会像が形成され、成長と生活向上が結び付いていました。
1.3 グローバルな資源供給と環境負荷の外部化
高度経済成長期には、先進国が途上国の鉱物資源や原材料に依存して産業を拡大しました。発展途上国が原料を採掘し、先進国がそれを輸入して高付加価値製品に加工することで、利益は工業化した先進国に集中しました。例えば銅の場合、原料である鉱石は安価なのに対し、加工度の高い管は数倍の価格で取引されます。採掘の公害や環境負荷は主に途上国側に押し付けられ、先進国は安価な資源と安い労働力に支えられて経済を拡大しました。
2. 経済成長の停滞と資本主義の限界(アンチテーゼ)
2.1 成長率の鈍化と危機への脆弱性
日本・アメリカ・EUの実質GDP成長率は、1960年代の高度成長期を除けば長期的に低下しています。1970年代のニクソン・ショックやオイルショック、2008年のリーマン・ショックなどの危機が重なると、先進国の成長率は0〜1%台まで落ち込みました。経済は危機に対して脆弱になり、深刻なショックに社会が動揺することが増えています。また成長率がプラスでも、その果実は広く行き渡らなくなっており、都市部の高騰する家賃が象徴するように、多くの人びとが生活費を切り詰め郊外に移住せざるを得ない状況が続いています。
2.2 環境制約とプラネタリー・バウンダリー
経済成長をお金の増殖のみで捉える視点は危険です。経済は人間社会や自然環境を無視できず、公害問題や地球温暖化などの環境危機はその典型です。生態経済学によれば、経済は社会の一部であり、社会は自然の一部として存在するため、自然界には生物・物理的な上限があります。現代資本主義は絶え間ない資本蓄積を前提とし、GDP成長や生産性向上を絶対的善とみなしてきましたが、こうした信念が社会・生態学的危機を引き起こしているという指摘があります。経済活動と生活様式が地球環境の限界を示すプラネタリー・バウンダリーを超過しつつあるのです。
2.3 資源支配と格差拡大
南北分業の構図では、発展途上国が安価な鉱物資源を提供し、先進国は加工によって高い利益を得ています。利益は先進国に集中し、南北の所得格差は縮小するどころか拡大しています。先進国の経済は途上国の労働力と資源に依存しており、採掘の環境負荷や社会コストは「外部化」されてきました。
2.4 成長のための成長は社会を豊かにしていない
資本主義は成長を追求しますが、その成果は生活の向上に結び付かなくなっています。かつて経済成長の成果が一般の人びとに還元されていたのに対し、近年では成長率がプラスでも格差が拡大し、多くの人びとが豊かさを実感できていません。このような状況は、成長そのものを疑うべき時が来ていることを示しています。江原氏は近代以前の社会が経済成長を抑制し、貨幣の蓄積を道徳的に戒めていたことを指摘し、無制限な拡大を防ぐ仕組みに着目しています。
3. 脱成長という対案
3.1 定義と目的
脱成長(degrowth)は単にGDPを減らすことではなく、物質・エネルギーの使用を減らして環境負荷を低下させること、資本主義や過度な商品化・生産主義といったイデオロギーからの解放、労働者主導と相互扶助に基づく社会を目指すことを意味します。脱成長は「生産と消費の縮小によってエコロジカル・フットプリントを減らし、ウェルビーイングを確保しながら公平な方法で民主的に計画するもの」と定義されます。これは経済活動の質を問うものであり、社会の幸福と自然環境の健全さを両立させることを目指します。
3.2 経済を自然の一部と捉える生態経済学
従来の経済学では自然環境が外部性として扱われがちでしたが、生態経済学では経済は社会の一部であり、社会は自然の一部と捉えます。この視点では、経済活動は自然界の制約に従い、資源制約と廃棄制約という二つの制約を受け入れる必要があります。プラネタリー・バウンダリーの範囲内で再生産を行うことが求められるのです。
3.3 富裕税など再分配政策
脱成長社会では、通貨や財政の安定を維持するために富裕層への課税が議論されます。例えば、2024年のG20財務大臣会合では、各国が億万長者への2%程度の富裕税を提案し、年間数百億ドル規模の財源を確保して教育や医療、気候変動対策などに充てる構想が話し合われました。富裕税は格差是正と財政安定の両立を図り、成長を前提としない経済でも公共サービスを維持する手段として注目されています。
4. 弁証法的統合:脱成長市場経済への道(ジンテーゼ)
4.1 利潤の使途の転換
資本主義の中核には利潤動機がありますが、脱成長は企業の利益やイノベーションを否定するものではありません。重要なのは、利潤の使途を無限の規模拡大から環境保全や社会インフラの維持へと転換することです。企業が得た利益を株主配当や設備投資のみに回すのではなく、再生可能エネルギーへの移行や公共交通機関の維持、廃棄物処理システムへの投資に振り向けることで、資本主義の仕組みと公共目的を両立させる「脱成長市場経済」が構想されます。
4.2 適量な生産と民主的な計画
脱成長市場経済では、社会にとって必要な財やサービスを特定し、それ以外の不必要な生産を減らす「選択的縮小」が重要です。近代以前のギルドのように生産量や方法に一定の制約を設けることで、無制限な拡大を抑制します。何を縮小し、何に資源を割くかは民主的な意思決定を通じて定め、労働者や地域社会の参加が欠かせません。
4.3 再分配と福祉国家の充実
成長なき社会で福祉やインフラを維持するには、富の再分配が不可欠です。富裕税はその一手段であり、富裕層の蓄積された資産を社会目的に活用します。同時に所得税や相続税の強化、基本所得や公共サービスの無料化など、貧困層への再分配を行うことで社会の安定を図ります。富の集中を是正し、市民全体の購買力を底上げすることは、縮小した経済においても内需を支えるために不可欠です。
4.4 国際的な協調と途上国への配慮
資本主義の黄金期を支えた南北分業は、途上国側に不均衡な負担を押し付けてきました。脱成長市場経済は、先進国が資源と労働力を大量に輸入して成長を維持する構造からの脱却を意味します。途上国が単なる資源供給基地に留まらず、自国で資源を加工して付加価値を得られるよう支援することが南北格差の是正につながります。また気候危機への対処では、歴史的排出の責任が大きい先進国がより大きな負担を負い、途上国の発展の権利を尊重した国際協定が必要です。
4.5 個人と企業の生き方
脱成長市場経済は個々の企業や個人の成長を否定するものではありません。企業は効率向上やイノベーションを通じて資源使用の削減やリサイクル率の向上を追求し、労働者は社会的に必要な仕事へと再配置されます。個人は欲望(Want)と必要(Need)の区別を自覚し、過剰な消費を控えるライフスタイルを選択することが求められます。自宅のエネルギー消費を減らしたり、肉食や航空機利用を減らすといった実践が挙げられます。
結論:成長の呪縛から自由になる
資本主義は固定相場制・労働者保障・安価な資源という特異な条件の下で高度経済成長を実現しましたが、現在では成長率の鈍化や格差拡大、地球環境の限界、南北格差といった問題が顕在化し、経済成長を中心目標とするモデルは行き詰まっています。経済は人間・社会・自然の全体の中で捉えるべきであり、お金の増殖だけを追うことは許されません。
脱成長はGDPの縮小そのものではなく、社会の豊かさと環境の健全さを両立させるための意識的な選択です。そのためには生産と消費の抑制、成長イデオロギーからの解放、労働者主導の社会の構築が必要です。富裕税など再分配政策は成長に依存しない財政運営を可能にし、格差是正と社会的投資を同時に達成します。弁証法的に見ると、資本主義の黄金期(テーゼ)は特異な条件に支えられたものであり、現代の危機(アンチテーゼ)はその条件の崩壊から生じています。これらの対立を乗り越える統合として、脱成長市場経済は利潤の使途を再定義し、民主的な計画と再分配によって社会と自然の持続可能性を確保する道を示します。個人は欲望と必要を見極め、社会は利他性と協働を取り戻す。成長の呪縛から解放された社会は、環境負荷を抑えながら安心して暮らせる豊かさを実現できるはずです。


コメント