序論:米国債市場とイラン戦争の影響
2026年2月末に米国がイランへの軍事行動を開始すると、10年物米国債の利回りは直後に3.93%まで一時低下したものの、数日以内に急反発し3月中旬には4.3%台まで上昇しました。多くの投資家が通常の「有事のドル買い・債券買い」というセオリーと異なる動きを目の当たりにし、この金利上昇の原因としてインフレ懸念と国債売りが指摘されました。しかし、利回りは複数の要因で動くため、単に「インフレが主因」と断定するのは早計です。
テーゼ:インフレ懸念と国債売りが主因である
- エネルギー価格の急騰によるインフレ期待の上昇
イラン戦争でホルムズ海峡の航行リスクが高まり、原油先物価格は2月末から3月上旬にかけて60ドル台後半から100ドル近くへ急騰しました。原油価格は消費者物価指数の重要な構成要素であり、石油価格の上昇は燃料や輸送コストを通じて総合インフレ率を押し上げます。TIPS(インフレ連動債)のブレークイーブン率もほぼ1年ぶりの高水準に跳ね上がり、インフレ期待が高まったことが確認されました。 - 連邦準備制度の利下げ観測後退
戦争直前まで米国債市場は弱い経済指標や落ち着いたインフレ率を背景に利下げを織り込んでおり、10年利回りは約3.96%まで低下していました。しかし原油高を受けてインフレ目標達成が遠のくと考えられ、投資家は早期の利下げ見通しを修正しました。利下げ期待が後退すれば既存の低クーポン債券の魅力が低下し、価格下落(利回り上昇)圧力がかかります。 - 国債の実質価値の目減りを懸念した売り
固定利付債券は名目利息が一定のため、インフレが進行すると実質収益が減少します。イラン戦争による原油高や食料価格上昇は今後のインフレ率を押し上げるとの見方から、長期債券を保有するインセンティブが低下しました。さらに米国財政赤字が依然として大きく、戦費調達による国債増発懸念が強いことも長期債離れを促しました。海外投資家も米国の長期財政に不安を抱え、金利上昇につながったとの分析もあります。 - 財政懸念とリスクプレミアムの上昇
高インフレ下で政府債務が増えれば、将来の実質負担を軽減するためにインフレを容認する可能性があり、それが長期国債保有者のリスクプレミアムを押し上げます。市場では財政規律に対する信認が低下し、長期金利には追加的なリスクプレミアム(タームプレミアム)が乗りました。
このように、原油高が引き起こすインフレ懸念と財政不安が国債の実質価値を損なうと考えられ、投資家が長期国債を売却した結果、10年物利回りは急上昇したという説明が成り立ちます。
アンチテーゼ:インフレだけが原因ではない
- 供給要因とテクニカル要因
イラン戦争前、債券市場は弱い経済データや物価指標を受けて大幅に買われており、10年利回りは一時的に過剰に低下していました。戦争勃発により安全資産買いが一瞬起きた後、価格調整が入って売られやすいテクニカルな状況にあったことも利回り急騰の背景です。このため、上昇幅の一部は単なる反動と捉えることができます。 - 安全資産買いはドルに向かった
軍事衝突が起きても通常のセオリーである「国債への逃避買い」が働かなかったのは、投資家の逃避先が米国債ではなく米ドルだったからとする指摘があります。外為市場ではドル指数が急騰し、通貨の安全資産需要が高まりました。米ドル買いが進めば米国債券の購入需要が相対的に減るため、利回りは上昇します。この場合、上昇要因は金利差や通貨フローであり、インフレ懸念とは異なります。 - 利回り上昇の主因は大量発行とタームプレミアム
複数の市場参加者によると、2026年度の米国政府は巨額の財政赤字と減税を抱えており、長期債の供給が増えるとの見通しが利回りを押し上げています。多くの調査ではイラン戦争後の10年利回り上昇幅は20~30ベーシスポイント程度と比較的限定的で、今後数カ月は4%台前半を中心に緩やかに推移するという予測が一般的です。また、Fedはまだ今年中に複数回利下げする可能性を示唆しており、短期金利が下がれば長期金利も抑制される可能性があります。 - 経済成長鈍化やリセッションリスク
戦争長期化や原油高による実質購買力低下が米国経済を減速させれば、需要減退でインフレが抑制され、逆に国債が再び買われる可能性があります。現在の利回り上昇は一時的なエネルギーショックと捉えられ、景気後退が視野に入れば長期金利は再び低下する可能性も大きいとする見方も少なくありません。 - 投資家のポートフォリオ調整要因
戦争が始まる以前から市場には信用スプレッドの拡大や民間融資市場の不安が存在し、株式よりも中期国債や短期証券が好まれる傾向がありました。投資家は長期債を減らし、中期債やインフレ連動債にシフトするなど、金利戦略を柔軟に調整しています。したがって金利上昇は投資家行動の構造変化の結果であり、インフレ懸念だけでは説明し切れないという主張も成り立ちます。
シンテーシス:複合的要因が金利を押し上げている
イラン戦争後の米国10年物国債利回り上昇は、インフレ懸念による国債売りが重要な要因であることは否定できません。原油価格の急騰がインフレ期待と国債保有者の実質収益への懸念を高め、連邦準備制度の利下げ予想を後退させたことが、長期債価格を押し下げたのは確かです。特にTIPSブレークイーブン率の上昇や5年先インフレ率の高止まりからも、投資家がインフレリスクを警戒していることが読み取れます。
しかし、利回り上昇には短期的なポジション調整や供給増加に伴うタームプレミアムの上昇、ドル高による資金移動など、インフレ以外の複数要因が重なっています。米国債市場は戦争前に過度に買われていたため、リスクオフの流れがドルに集中したことや、財政赤字拡大への懸念が重なり、長期金利は想定よりも敏感に反応しました。また、長期金利は成長・インフレ・財政・金融政策の見通しが交差する場所で決まるため、戦争長期化で景気が冷え込めば再び低下する余地もあります。
結局のところ、イラン戦争後の10年物国債の利回り上昇はインフレ懸念と国債売りが主因の一つでありながら、それだけではなく財政赤字や供給増、ドルへの資金シフト、投資家のポートフォリオ調整など複数の要因が同時に作用した結果と考えるのが妥当です。長期金利が今後も高止まりするのか、それとも反転するのかは、戦争の持続期間、原油価格の動向、米国経済の強さ、そして中央銀行の政策によって大きく左右されるでしょう。

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