問題の背景
1990年代後半、日本経済はデフレに陥り、長期間にわたり物価が上がらない「デフレの罠」に苦しんだ。金融政策のレビューによると、日本がデフレに陥った主な理由は三つに整理できる。第一に、バブル崩壊後に自然利子率が低下し、伝統的な金融政策では需要を刺激し切れず、慢性的な需要不足が生じたこと。第二に、グローバル化やIT化による輸入品との競争激化、リーマンショック後の急激な円高など、供給側からの下押し圧力が続いたこと。第三に、長期デフレが続いた結果、企業と家計に「賃金も物価も上がらない」とする予想が定着し、賃金や価格を引き上げる行動が抑え込まれたことだ。こうした背景のもと、生産と価格は伸び悩み、国内需要が長期停滞した。
この停滞を打破するため、2013年に発足した第二次安倍内閣は、大規模な金融緩和(量的・質的金融緩和=QQE)と拡張的な財政政策、構造改革を合わせた「三本の矢」を掲げた。日銀は2%の物価目標を掲げ、巨額の国債やETFを買い入れて資金を供給し、ゼロ金利政策やマイナス金利政策まで導入した。政府も公共事業を中心に大型補正予算を組み、労働市場改革や法人税減税を進めた。
テーゼ:デフレ脱却のための異次元緩和
アベノミクス支持の立場は、景気低迷の主因をデフレと需要不足に求め、大胆な金融緩和を正当化した。自然利子率の低下や企業のリスク回避姿勢が投資や消費を抑制していたため、量的・質的金融緩和を行い、次のような効果を狙った。
- 金利低下と資金供給の拡大:金利を引き下げ、企業の資金調達を容易にし、設備投資や雇用を促す。
- 円安誘導による輸出拡大:円高是正を通じて輸出を増やし、企業収益を改善する。
- インフレ期待の喚起:明確な物価目標を示し、デフレマインドを転換して消費・投資を前倒しさせる。
実際に日銀は国債残高をGDP比70%超まで積み増し、前例のない規模の資金供給を行った。その結果、円は急落し、日経平均株価はバブル期の最高値を2024年に更新した。2013年以降、大企業を中心に企業収益は大幅に改善し、2023年のGDP成長率は1.9%まで回復した。また、新型コロナ後の供給制約や円安も重なり、消費者物価指数は2023〜2024年にかけて3〜4%台に上昇した。
アンチテーゼ:富の偏在と生活苦
一方で、安倍政権の政策に対する批判は、大規模緩和が労働者に十分な恩恵をもたらさず、富が資本家に偏在したと主張する。主な論点は以下のとおりである。
1. 実質賃金の停滞
2024年の基本給は前年比2.7%増と30年ぶりの高水準であったが、同年の消費者物価は4.2%上昇したため、実質賃金は年間でマイナス0.2%と3年連続で減少した。賃金は上昇しているが、物価上昇に追いついていないという。実質賃金の低迷は長期的傾向で、1997年から2023年まで一貫して下落基調にある。非正規雇用の増加など労働市場の二極化が賃金の伸びを抑えている。
2. 労働分配率の低下と企業利益の偏重
厚生労働省によると、2014年以降の景気拡大局面では全ての資本規模において労働分配率が低下している。2020年のコロナ禍で一時的に上昇したが、収益が回復した2021年以降は再び低下し、大企業ほど分配率が低い。企業の付加価値増加が株主や内部留保に向かい、労働者への還元が限定的であることを示す。金融緩和による株高や不動産価格上昇は資産保有者を潤した一方、資産を持たない労働者は恩恵をほとんど受けられなかった。日経平均が最高値を更新した2024年、国内需要は弱く、企業の本業収益もそれほど改善していないとの指摘がある。
3. 物価高とエンゲル係数の上昇
デフレ脱却後、物価は上昇したが賃金の伸びが追い付かず、生活が圧迫された。総務省の家計調査では、二人以上の世帯のエンゲル係数(消費支出に占める食料費の割合)が2023年に27.8%、2024年には28.3%に達し、1981年以来43年ぶりの高水準となった。食料価格が急騰する一方、全体の消費支出は実質ベースで減少し、高いエンゲル係数は生活水準の低下を示す。光熱費や住居費も値上がりし、低所得層ほど家計が厳しい。
このように、金融緩和はデフレを解消し物価と資産価格を押し上げたものの、その果実は主に資本家や資産家に集中し、労働者の生活改善にはつながっていない。
ジンテーゼ:構造改革と分配の再設計
テーゼとアンチテーゼの対立は「デフレ脱却を目指した大胆な緩和」と「富の偏在と生活苦の拡大」という現象から生じている。両者を統合的に考えると、以下のような教訓が浮かび上がる。
- 金融政策の限界:自然利子率の低下や需要不足に対して金融政策だけでは十分な刺激にならず、量的緩和は資産価格や円安効果をもたらしたものの、賃金や生産性向上には限界がある。金融政策に過度に依存せず、労働市場や産業構造の改革と組み合わせる必要がある。
- 賃金と生産性の不一致:労働分配率の低下は、生産性の向上が賃金に反映されていないことを示す。中小企業では付加価値が低く賃上げ余力が乏しい一方、大企業では利益が内部留保や配当に回り、従業員への還元が限定的だ。持続的な成長には、生産性向上と同時に労働者への分配を確保する制度(最低賃金引き上げ、下請け取引の適正化、企業統治改革など)が求められる。
- 所得再分配と社会保障の拡充:物価上昇が家計を圧迫する中、低所得層の購買力を維持する施策が不可欠である。消費税増税や社会保険料負担が実質所得を下げた側面もあり、累進課税や給付金制度を通じた再分配が求められる。労働市場の二極化を是正し、非正規労働者の待遇改善や社会保障へのアクセスを強化することも重要だ。
- 成長戦略の多角化:国内需要を刺激するには、女性や高齢者の就労促進、人材育成、技術革新支援が不可欠である。「働き方改革」や「女性活躍推進法」は一定の前進をもたらしたが、長時間労働の是正や賃金体系の見直しは道半ばである。農業・サービス業の規制緩和やスタートアップ支援などにより新産業を育成することも、長期的な所得増につながる。
まとめ
安倍政権はデフレ脱却と景気回復を掲げ、異次元の金融緩和を中心とするアベノミクスを推進した。その結果、円安と資産価格上昇を通じて企業収益が改善し、物価も上昇して長期デフレから脱した。しかし、実質賃金は物価上昇に追いつかず、労働分配率が低下する中で富は資本家側に偏在し、エンゲル係数の上昇が示すように家計は苦しい状況が続いた。政策がデフレ脱却に一定の成果をもたらしたことは評価できるが、所得分配や生産性改革など構造的課題への対応は不十分だった。
今後は、金融政策頼みから脱し、賃金の底上げ・生産性向上・所得再分配を組み合わせた総合的な成長戦略が必要である。労働者の生活を向上させることが内需を拡大し、持続的な経済成長への道を開く。アベノミクスはその第一歩だったが、富を広く分かち合う仕組みを作ることが次の経済政策の課題となるだろう。

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