背景
新型コロナ危機後の大規模財政出動と緩和的な金融政策により、多くの先進国は膨大な政府債務を抱えています。将来どのように債務を調整するのか、インフレやハイパーインフレが起こる可能性はあるのかが議論されています。投資ストラテジストのラッセル・ネイピア氏は、政府が国民の貯蓄を徴収できる限りハイパーインフレは起こらず、当面は金融抑圧と税負担によって債務を処理すると主張しています。
ネイピア氏の主張(テーゼ)
- 貯蓄がハイパーインフレを防ぐ
ネイピア氏の「金融史からの21の教訓」では、「民間の貯蓄が使い果たされたとき、政府債務の貨幣化と高インフレまたはハイパーインフレが続く」と述べられています。これは、政府が国民の貯蓄を利用できる限り、紙幣増刷に頼る必要がないという考えです。同氏は歴史的に貯蓄が多く残っている国ではハイパーインフレが発生していないと主張し、貯蓄が枯渇した後にドイツ(1922–23年)やジンバブエ、旧ユーゴスラビアのような極端なインフレが発生したと考えます。 - 金融抑圧の活用
ネイピア氏は、政府が国民の貯蓄を動員する方法として金融抑圧を挙げます。金融抑圧とは、政府が市場金利を抑え、年金基金や保険会社に国債購入を義務付けるなどして民間の貯蓄を公債に向けさせる政策です。英国では年金基金に国債投資を義務付ける「mandation」条項が検討されており、ネイピア氏は「国債の買入れを義務化すれば名目利回りを引き下げられる」と述べています。 - 金利抑制によるインフレ誘導
ネイピア氏は、第二次世界大戦後の米国や英国で金融抑圧により実質金利が長期間マイナスとなり、公的債務の実質負担が毎年約3%ずつ減少したと指摘します。現代でも金利を経済成長率以下に抑える金融抑圧が続くと述べ、「利上げがインフレ率を反映しない状況が10年以上続く」「政府は商業銀行への融資保証を通じて通貨供給量を10%以上増やせる」として、政府が銀行システムを通じて資金を無制限に供給できる体制が構築されつつあると警告しています。金融抑圧は貯蓄者の実質資産をゆっくり奪う「隠れ資産税」であり、政治的コストが低い点が魅力だと述べています。 - ハイパーインフレは政治的に避けられる
ネイピア氏によれば、債務危機に直面する政府は選択肢の中から政治的に最も負担が少ないものを選びます。税金や資産課税によって国民の貯蓄を吸収できる場合、数百%のハイパーインフレを引き起こす必要はないという見方です。したがって、先進国ではまず増税や金融抑圧、持続的なインフレが長期にわたって続き、貯蓄が枯渇した後でなければハイパーインフレは起こらないと予測します。
反論(アンチテーゼ)
- ハイパーインフレは複合的な要因で発生する
経済学の定義では、ハイパーインフレは月間50%を超えるような極端な物価上昇であり、主な原因は過剰な貨幣供給と供給不足です。インフレーションが需要や供給の不均衡、戦費や政治的混乱によっても起こり得ることを考えると、貯蓄の枯渇は必須条件ではありません。ハイパーインフレは「需要超過」「経済成長を伴わない通貨供給拡大」など複数の要因が結合した時に発生すると説明され、貯蓄に関する言及はありません。 - 貯蓄が残っていてもハイパーインフレが起こった例
ドイツのヴァイマル共和国では、第一次世界大戦の戦費と巨額の賠償金を賄うために貨幣を大量発行した結果、1922〜23年にハイパーインフレが発生しました。この時期、国民の貯蓄は急速に紙幣の価値が下落して消滅しましたが、政府が先に貯蓄を使い果たした後にインフレが始まったわけではありません。物価上昇と紙幣増刷の悪循環により、労働者や農民は貨幣での取引を拒否し、経済と社会が崩壊しました。 - ハイパーインフレは統治機構の崩壊と信認喪失が引き金
ジンバブエでは1999年から2009年にかけて、政府が戦費や公務員のボーナス支払いを賄うために中央銀行に紙幣を発行させたことが発端となり、2007年には日次98%という膨大なインフレ率に達しました。旧ユーゴスラビアでは政治家による財政支出と中央銀行による巨額の融資が発覚し、政府が財政赤字を埋めるために通貨を大量に発行した結果、インフレ率が1か月で3億1300万%に達しました。これらの事例は、政府が外部資金や税収に頼れなくなり通貨の信認を失ったときにハイパーインフレが起こることを示しますが、貯蓄の枯渇が唯一のトリガーではないことを示しています。 - 先進国でも政策運営を誤ればインフレが高進する可能性
1970年代の米国では、石油ショックと拡張的な財政・金融政策が重なり、年率10%を超える高インフレが続きました。この時期には実質金利がマイナスになり、貯蓄の実質価値が削られました。連邦準備制度理事会(FRB)のボルカー議長は政策金利を21%以上に引き上げることで高インフレを沈静化させました。この経験は、中央銀行の独立性と強力な金融引き締めが高インフレを抑制することを示します。仮に政治が中央銀行の独立性を損ない、財政ファイナンスに依存すれば先進国でもインフレが高進するリスクがあります。
総合(シンテーシス)
ネイピア氏は、民間の貯蓄が存在する限り政府は増税や金融抑圧で資金を調達でき、ハイパーインフレを引き起こす必要はないと指摘します。確かに、第二次世界大戦後の米国や英国では金利を成長率以下に抑える金融抑圧によって公的債務が徐々に減少し、通貨価値の急落や社会的混乱は避けられました。現代でも各国政府は年金制度や銀行規制を通じて国民の貯蓄を国債購入に誘導しており、利払いが増加しても税収や資産課税を拡大する余地が残っています。そのため、先進国で短期的にハイパーインフレが起こる可能性は低いという見方は一定の説得力があります。
しかし、ハイパーインフレは単に貯蓄の枯渇ではなく、財政・金融政策の失敗、政治的混乱、戦争や供給ショックなど複数の要因が重なった時に発生します。ヴァイマル共和国やジンバブエの例では、政府が巨額の債務や戦費を貨幣増刷によって賄おうとしたことで通貨の信認が崩壊しました。このような事態は民間の貯蓄がまだ存在する段階でも起こり得ます。また、インフレによって貯蓄の実質価値が減少するため、貯蓄枯渇は結果であって原因ではないという指摘もあります。
したがって、先進国の債務問題に対する現実的な展望は、ハイパーインフレよりも中程度のインフレと金融抑圧の長期化です。政府は財政支出や社会保障制度の見直し、増税、金融抑圧を組み合わせて債務を削減しようとするでしょう。その過程ではインフレ率が目標水準を上回り、実質金利がマイナスとなる期間が続くと予想されます。しかし、中央銀行の独立性が保たれ、政治が大幅な貨幣増刷を要求しない限り、月50%を超えるようなハイパーインフレになる可能性は低いでしょう。歴史的経験からも、信用失墜と戦争・革命などの深刻な政治的混乱がなければハイパーインフレには至らないと考えられます。
記事の概要(引用元省略)
ネイピア氏は政府債務とハイパーインフレの関係について講演し、巨額の政府債務があるからと言って直ちにハイパーインフレが起こるわけではないと述べました。同氏によれば、ハイパーインフレが起こるのは政府が国民の貯蓄を使い果たし、課税や金融抑圧で調達できなくなった場合であるため、当面は増税やマイルドなインフレが続くと予測します。彼はドイツやジンバブエの事例を挙げ、貯蓄が枯渇してから紙幣増刷が大規模に行われたと説明しました。結論として、先進国では国民の貯蓄がまだ残っているためハイパーインフレにはならないが、その代わりに長期的な金融抑圧とインフレによって貯蓄が徐々に減少する可能性が高いと指摘しています。

コメント