日本経済は本当にデフレを脱却したのか:2035年に向かう「三つの正常化」


日本経済は1990年代初頭のバブル崩壊以降、30年以上にわたってデフレ圧力と低成長に直面し、賃金も物価もほとんど動かない「硬直的な価格メカニズム」が常態化していた。2020年代に入ってからは新型コロナ下の供給制約や円安による輸入物価の上昇、グローバルな食料・エネルギー価格の高騰などにより物価上昇率が上向き、2022年から消費者物価(生鮮食品除く)の前年比は4年連続で2%を上回っている。2024年春闘以降は名目賃金の上昇が顕著になり、2025年の春闘では平均5.4%の賃上げが予想されるなど、企業や労働組合の賃上げ期待が高まっている。この状況を踏まえ、「デフレからの完全脱却」と「3つの正常化(価格メカニズム・実質為替レート・政府債務)」が唱えられている。本稿では、この主張を弁証法的(正‐反‐合)に検討し、2035年までの展望と政策含意を探る。

正(テーゼ):日本経済はデフレを脱却し、3つの正常化が進行している

持続的なインフレと賃金上昇の定着
日本の物価上昇は世界の主要国に比べ極めて低水準だったが、近年は4年連続で2%超のインフレを記録し、消費者物価の上昇率が「普通の国」に近づいている。国際機関の予測では、2025年のCPI(生鮮食品除く)は3.0%、2026年は2.1%に鈍化するものの、食品価格の影響が一巡した後も2%前後のインフレが続くと見込まれる。日本銀行も一時的に2%を下回る場面があるとしつつ、労働力不足や賃上げの定着が続けば基調的なインフレ率は上昇し、見通し期間後半には2%程度に達すると見ている。
2023~2025年の春闘では30年ぶりの高水準の賃上げが実現し、2025年には5.4%のベースアップが見込まれている。労働組合「連合」は2026年の賃上げ要求を前年同様5%以上に設定し、経団連も賃上げを定着させる姿勢を示している。名目賃金の継続的上昇は消費を押し上げ、2025年までに実質賃金のプラス化が期待されている。

「3つの正常化」の進行

  1. 価格メカニズムの正常化:デフレ期は賃金が横並びで抑制され、企業がコスト上昇分を価格に転嫁できず、本来の価格メカニズムが機能していなかった。近年は人手不足や原材料価格の上昇を価格に反映し始め、価格‐賃金スパイラルが機能しつつある。国際機関も賃上げと価格転嫁により基調インフレ率が約2%で推移すると予測しており、生産性に応じた価格変動という本来の市場メカニズムが回復しつつある。
  2. 実質為替レートの正常化:長年の賃金抑制と円安傾向により、日本は「安い国」と呼ばれていた。円安は輸出産業の国際競争力を支えたが、実質賃金の低迷と輸入物価の上昇を招いた。近年の賃上げ定着と内需拡大により、円は2025年末に1ドル=156円台まで下落した後、2026年には米国との金利差縮小を背景に150円程度まで円高が進むと予想され、実質為替レートが適正水準に近づくと見込まれる。
  3. 政府債務の正常化:日本政府の公的債務残高はGDP比230%超と高水準だが、インフレにより国債の実質価値が低下し、政府債務の負担が軽減されつつある。国際機関の試算では公的債務が2025年度の237%から2026年度には約232%に減少する見込みであり、インフレが続けば債務の実質減少効果が働き、政府財政の「正常化」に寄与する。

政策対応と今後の展望
日銀は2024年〜2025年にかけて政策金利を段階的に引き上げ、2025年12月には0.75%と30年ぶりの高水準に到達した。民間予測では2026年末までに政策金利が1%、将来的には自然利子率とされる1.5%程度に達すると見込まれる。総裁は金融環境が依然緩和的であり、金利引き上げは「アクセルから少し足を緩める」程度で経済を抑制するものではないと説明している。
労働力不足により最低賃金は2025年度に前年比5%以上の大幅な引き上げが行われた。この傾向は若年層の賃金を押し上げ、能力や生産性に応じた賃金格差が拡大すると予想される。企業は人材育成や生産性向上に投資し、個人も技能向上や学び直しを通じて市場価値を高める必要がある。
価格メカニズムの正常化は企業に自由な価格設定の裁量をもたらし、高付加価値商品の開発やサービスの差別化が競争力の鍵となる。一方、中小企業や下請け企業は価格転嫁力が弱く、親企業との力関係是正が必要である。政府は物価を下げる補助金や減税ではなく、インフレによる生活苦を直接補償する所得支援政策を採るべきだ。年金給付をインフレ率に連動させる「インフレ・スライド」の導入や下請け取引の公正化が求められる。

反(アンチテーゼ):完全なデフレ脱却には不確実性が残る

近年のインフレは円安やエネルギー・食品価格の高騰、一時的な補助金政策の解除など外生的要因が大きく、日銀は2026年度前半までCPIが一時的に2%を下回ると予測している。海外リサーチ機関も政府の補助金や米価格の安定により、2026年のヘッドラインインフレ率が2%を下回る可能性を指摘している。
春闘による賃上げは大企業を中心に進んでいるが、中小企業では賃上げ余力が乏しく、非正規雇用の賃金上昇は限定的である。民間研究所は、実質賃金がプラス圏を維持するものの上昇幅は小さく、名目賃金の高水準維持には毎年の春闘における大幅賃上げが必要とする。
家計の実質所得が伸び悩んでいるため、2025年時点で個人消費は2019年比で3.9%下回っており、消費の回復は力強さを欠いている。国際機関も2026年のGDP成長率を0.6%程度と予測し、米中貿易摩擦や米国金利動向によっては輸出が下振れするリスクが高いと見ている。
人口減少と生産性停滞も深刻で、生産年齢人口は2030年には2010年比で約20%減少すると予測される。労働力不足が賃金上昇圧力を生む一方、生産性向上が伴わなければ実質所得は増えず、持続的な成長は困難である。
公的債務の実質的削減効果は一度きりであり、金利上昇が進むと利払い費が膨らみ財政が再び不安定化する恐れがある。国際機関は2026年に日本の成長率が0.7%に低下し、インフレ率は2027年に目標2%へ収束すると予測している。金利が上昇し続ければ債務持続性への懸念から長期金利が急騰するリスクがあり、逆に財政緊縮が景気を冷やしてデフレに戻る可能性もある。
米中貿易摩擦や高関税政策、世界的なAI投資ブームの変調など外部ショックによって日本の輸出や投資は影響を受けやすい。日本銀行も海外経済の減速が見通しのリスク要因であることを認めており、通貨の安定は財政信認に左右される。財政悪化への懸念が強まれば円安や金利急騰が起こる可能性がある。
さらに、高齢者や年金生活者には物価上昇が負担となり、デフレ時代の「物価が安い方が暮らしやすい」という意識が根強い。中小企業や地方自治体では賃上げ原資を確保する余裕が乏しく、価格転嫁に対する消費者の抵抗感も強い。この心理的抵抗が強まれば、外部ショックをきっかけに再びデフレに転じるリスクが残る。所得格差の拡大も懸念され、非正規雇用や低付加価値産業の従業員が取り残される恐れがある。

合(ジンテーゼ):デフレ脱却は過渡期の現象であり、構造改革と政策の整合性が不可欠

現時点で日本はデフレ期を抜け出しつつあるが、それは供給ショックと円安によるコストプッシュ型インフレに加え、労働力不足による賃金上昇が重なった結果である。持続的な2%前後のインフレを実現し、2035年までに3つの正常化を達成するためには以下の条件を満たす必要がある。

  1. 生産性向上と人的資本投資:人口減少下でも賃金上昇を実質的な所得向上につなげるには、生産性の向上が不可欠である。企業はデジタル化やAI導入、サプライチェーンの効率化に投資し、労働者はリスキリングや教育によって付加価値を高めることが求められる。政府は教育改革や移民政策、女性や高齢者の就労促進を通じて労働供給を拡大する必要がある。
  2. 適切な金融・財政政策の組み合わせ:日銀はデータに基づいた慎重な利上げを続け、インフレ期待をアンカーする一方で、財政政策は高齢化に伴う社会保障費の増大や気候変動対策への投資を支えつつ、国債依存度を徐々に下げるべきである。インフレによる「一度きりのボーナス」に安住せず、構造改革を通じて財政健全化と成長力強化を図る必要がある。
  3. 公平性と包摂性の確保:賃金格差が広がる中で社会保障制度の見直しや所得再分配政策が重要となる。具体的には、最低賃金の引き上げや労働者派遣制度の規制強化、教育・訓練への公的支援拡充などを通じて機会の均等を確保する。中小企業と下請け企業の取引条件を適正化し、価格転嫁力を高めるための公正取引委員会の権限強化も必要である。
  4. 為替と国際競争力のバランス:実質為替レートの上昇に伴い、輸出企業の国際競争力が低下する可能性がある。企業は円高に対応できるよう高付加価値化と海外事業の拡充を進めるとともに、政府は多国間貿易体制の安定化やサプライチェーン多様化の支援を強化する。為替の急変動に対しては金融当局が円滑な調整を図る必要がある。

展望とまとめ
今後10年は、インフレ定着を前提とした「正常化移行期」であり、デフレからの完全脱却が自動的に保証されるわけではない。インフレと賃金上昇が定着すれば、日本は価格メカニズムの正常化を通じて企業の選別と産業構造の転換が進み、実質為替レートの改善により「安い日本」から脱却し、政府債務の実質的削減が可能になる。しかし人口減少や外部ショック、財政悪化といったリスク要因が存在し、政策判断を誤れば再びデフレやスタグフレーションに陥る危険もある。経済の新たなフェーズに適応するためには、生産性向上・包摂性確保・財政健全化をバランス良く推進する政策と、個人・企業の自助努力が鍵となる。

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