背景
1970年代初めのドル・ショック後、米国は中東の産油国と「暗黙の取り決め」を結んだ。サウジアラビアなどの湾岸諸国が原油をドル建てで価格設定し、得た余剰資金を米国債や米株式市場に再投資する一方、米国は安全保障と国際秩序の安定を提供するというものだ。湾岸各国の通貨はドルに固定され、政府系ファンドは世界で6兆ドル以上の資産を運用し、米国債保有額は合計で数千億ドルに達する。
テーゼ:ペトロダラー体制は崩壊しつつある
ブルームバーグの記事は、2月末に勃発したイラン戦争を契機として、石油貿易と資金循環の「ループ」が両端から断ち切られたと主張する。実際、米国・イスラエルによるイラン攻撃後、外貨準備としてニューヨーク連銀に預けられた米国債残高が減少し、外国中銀による米国債の売り越しが続いた。10年物米国債利回りは4.39%から4.4%超へ上昇し、銀行は「外国公的セクターが米国債を売却している」と指摘したという。油価が1バレル100ドルを超えるなか、トルコやタイなど輸入国の自国通貨は下落し、補助金支出や為替介入のためにドル資産(米国債)を売らざるを得なくなるという力学だ。
輸出側でも変化が起きている。イランによるホルムズ海峡封鎖に伴い、湾岸産油国の85%以上の原油が海峡経由で輸出できない状況となり、UAEやサウジは生産を日量100万バレル以上減らしている。安価なロシア・イラン産原油の流通が増えた結果、湾岸諸国は輸出減と防衛費増大に直面し、3000億ドル規模の米国債投資を見直し始めた。構造的にも、外国投資家による米国債保有率は2010年代の50%から32%程度に低下し、各国中銀は2025年初頭にネット売り手に転じたとされる。金準備の比率も増加し、デジタル人民元やルピー建て取引といった「ペトロユアン」「ペトロルピー」へのシフトが加速する可能性がある。こうした要素を組み合わせると、ペトロダラー体制は中東の地政学的変動によって大きく揺らいでいるといえる。
アンチテーゼ:ドル覇権と米国債への信頼は依然として強固
他方で、別の報道や統計を見るとペトロダラー体制の終焉を断言するのは早計である。例えばロイターのコラムは、ニューヨーク連銀の「カストディ保有」データが急減していることを認めつつも、公式の対米証券投資(TIC)統計では中央銀行の売却はごく僅かであり、2026年1月には中央銀行による米国債購入が過去13年で最大だったと指摘する。また名目上の外国保有額は過去最高の9.23兆ドルに達しており、外国によるシェアは減少してもドル資産全体の規模は拡大している。すなわち、「外国中銀が米国債を一斉に投げ売りしている」という認識は誇張だと見る向きもある。
さらに、ペトロダラー制度が支えてきた米国債市場の流動性と法制度の厚みは他に代替がない。米国はシェール革命以後、ネット輸出国となり中東依存を低下させた上、国内金融市場は規模・透明性とも依然群を抜く。確かに原油取引の一部は中国人民元やルピー建てで行われるが、世界の外貨準備におけるドル比率は低下しながらも依然として最大であり、金や他通貨が完全な代替を提供しているわけではない。ロイター記事も、外貨準備の金保有比率増加や中国による米国債保有の減少が報じられているものの、中央銀行の売却は「わずかで、現状では大規模ではない」と結論づけている。
ジンテーゼ:ペトロダラーの揺らぎと持続性の両面を踏まえた展望
弁証法的に整理すると、イラン戦争やホルムズ海峡封鎖がペトロダラー循環に打撃を与え、湾岸諸国の安全保障や財政を揺さぶっているのは事実である。輸入国は通貨防衛のため米国債を売却し、輸出国は収入減で資産投資を見直している。中長期的には、中国やインドとの結び付きが強まることで、エネルギー取引の通貨は多極化し、金や他通貨への分散も進むだろう。一方で、ドル建て金融市場が提供する流動性と法的安定性の代替は当面存在せず、外国中銀が米国債を完全に手放す可能性は低い。実際、名目保有額は増加しており、今回の売りは資産のシフトや短期的な流動性確保の側面が強い。
結局、ペトロダラー体制は「崩壊」ではなく「揺らぎ」の局面にあり、ドル覇権の一極支配が徐々に多極的な金融構造へ移行する兆候と捉えるべきである。米国は湾岸諸国の信頼を回復し、財政赤字や安全保障への姿勢を見直さない限り、資金循環の縮小は続くだろう。逆に中東諸国にとっても、ドル市場の安全と流動性を無視することはできず、代替手段を模索しながらも当面はドルへの依存が続く。そのため、ペトロダラー体制は今後も改良や修正を伴いながら存続し、他通貨との併存が進む可能性が高い。
要約
1974年に成立したペトロダラー体制では、湾岸産油国がドル建てで石油を輸出し、その収益を米国債など米国資産に再投資する代わりに、米国が安全保障を提供してきた。イラン戦争に伴うホルムズ海峡封鎖や防衛費増大により、この循環が機能不全に陥り、外国中銀の米国債売却や湾岸諸国の投資見直しが生じている。ただしロイターなどは、中央銀行の売却は限定的で、外国の米国債保有額は過去最高に達し、代替資産は依然不足していると指摘する。このため、ペトロダラー体制は動揺しているものの急激に崩壊するわけではなく、ドル覇権の相対的低下と多通貨化という長期的な変化が進行していると考えられる。

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