蒲生賦秀は近江蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)の旧名であり、蒲生賢秀(蒲生氏郷の父)の嫡男として弘治2年(1556年)に生まれたことが史料で確認されています。主要な日本語史料・辞書類では、この賦秀の読みは「やすひで」とされています。例えば滋賀県立図書館の資料によれば、『滋賀県百科事典』や『国史大辞典』、『日本史広辞典』など複数の主要史料で「やすひで」という読みが付されています。また、辞書類でも『デジタル大辞泉』や『精選版日本国語大辞典』などで「初名 賦秀(やすひで)」と明記されています。
- 主要史料・辞書の記述例 – 『滋賀県百科事典』、『国史大辞典 第3巻』、『日本史広辞典』、『コンサイス日本人名事典』、『蒲生氏郷のすべて』、『蒲生家盛衰録(中巻)』などでは「賦秀(やすひで)」と読まれています。
- 例外的な記述例 – 一方、『近江日野の歴史 第2巻』や『戦国大名系譜人名事典 西国編』など一部の文献では「賦秀(ますひで)」とする例も見られます。これらは旧来の表記法や誤解によるもので、研究史上まれですが存在します。
- 系譜辞典の記載 – 『デジタル大辞泉』(小学館)では「蒲生氏郷(初名賦秀〈やすひで〉)」とあり、『精選版日本国語大辞典』でも「初名賦秀(やすひで)」と記載されています。
これらの史料・辞書から総合すると、蒲生賦秀の正しい読みは「がもう やすひで」であると判断されます。なお、蒲生氏郷自身は元服の際に「忠三郎賦秀(やすひで)」と名乗り、その後「氏郷」に改名しています。文献によっては当初の名を「教秀」とする伝承もありますが、確実な古文書上では「賦秀(やすひで)」が氏郷の名として使われています。
蒲生氏の系譜と関連資料
蒲生氏郷は藤原秀郷流を称する近江蒲生氏の一族に連なります。蒲生氏系図によれば、氏郷の祖先は六角氏に仕えた蒲生貞秀・高郷・定秀・賢秀らであり、氏郷(賦秀)は賢秀の第一子として誕生しています。蒲生氏の家系史料には、氏郷の改名経緯や系譜が記されており、例えば江戸時代の系譜書『蒲生氏郷記』には初名「教秀」、元服名「賦秀」と伝えられています。また、近代の郷土史料『近江日野町史』などにも蒲生氏郷の生涯・系譜が詳述されています。これらの系譜資料や辞典類においても、蒲生賦秀=がもうやすひでという読みが裏付けられています。
以上をまとめると、蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)の旧名「蒲生賦秀」は、信頼できる歴史資料では一貫して「がもう やすひで」と読まれており、同名の他人物との混同は見られません。従って、蒲生賦秀の正確な読み方は がもう やすひで です。
参考資料: 『蒲生氏郷』(国史大辞典)、『滋賀県百科事典』、『精選版日本国語大辞典』、『蒲生氏郷公ゆかりの地』(日野町HP) ほか。
要約
蒲生賦秀の正しい読みは**「がもう やすひで」**です。彼は織豊時代の武将・蒲生氏郷の旧名であり、元服の際に「忠三郎賦秀(やすひで)」を名乗り、のちに「氏郷」に改名しました。主要な歴史資料や辞典では一貫して「やすひで」と表記されています。

コメント